作家・歌人とは? わかりやすく解説

作家・歌人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:46 UTC 版)

与謝野晶子」の記事における「作家・歌人」の解説

情熱的な作品が多いと評される歌集みだれ髪』(1901年)や、日露戦争時に歌った君死にたまふことなかれ』が有名である。『源氏物語』現代語訳でも知られる歌集みだれ髪』では、女性自我性愛表現するなど考えられなかった時代女性官能おおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイル確立した伝統的歌壇から反発受けたが、世間耳目集めて熱狂的支持を受け、歌壇多大な影響を及ぼすこととなった所収短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた1904年明治37年9月半年前に召集され日露戦争旅順攻囲戦予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を嘆いて君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。なお、晶子の弟の三郎日露戦争から帰還し1944年昭和19年)まで生きているが、彼の所属した歩兵第8連隊はこの詩が詠まれた頃は遼陽会戦戦っており、旅順攻囲戦には参戦していない可能性が高い。 その3連目で「すめらみこと戦いおおみずからは出でまさね(天皇戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子親交の深い歌人であった文芸批評家大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した晶子は『明星11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険な思想仰せられ候へど、当節のやうに死ね死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月反論した日露戦争当時満州事変後の昭和戦争の時期ほど言論弾圧厳しかったわけではなく白鳥省吾木下尚江中里介山大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる)。 大町桂月は『太陽誌上論文詩歌骨髄』を掲載し皇室中心主義の眼を以て晶子の詩を検すれば乱臣なり賊子なり、国家刑罰加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹平出修直談判により、桂月は「詩歌状況によっては国家社会服すべし」とする立場変えなかったものの、晶子対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ論争収束するこの後1925年大正14年6月11日桂月57歳病没するが、『横浜貿易新報』に晶子追憶をよせた。 この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年明治43年)に発生した第六潜水艇沈没事故の際には、「海底水の明りしたため永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制翼賛体制強化されたことを勘案しても、満州国成立容認擁護し1942年昭和17年)に発表した白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に戦争美化し鼓舞する歌を作った例えば、「強きかな 天恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。 日露戦争当時に「幸徳秋水反戦論大嫌いだ」と公言しているが、大逆事件では秋水死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺白く立つ 大逆囚の 十二」という歌を1911年明治44年3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人関わり深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガ未決在監中に弁護士平出修晶子歌集差し入れ頼んでいるが、晶子直接差し入れなかったことの悔恨小林天眠への手紙に残している。 1911年明治44年)に『青鞜発刊参加、『そぞろごと』で賛辞贈って巻頭飾り、「新しい女一人」として名を寄せた同年文部省内務省文芸作品顕彰称し諮問機関文芸委員会作ったことに対し晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。 1915年大正4年)に読売新聞に『駄獣の群』という国会議員対す不信詠う長詩発表したまた、晶子婦人参政権唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰作曲第一回全日本婦選大会において披露された。 1924年(大正13年)文化学院専門学校および高等専修学校式歌(校歌)「賀頌作詞作曲山田耕筰2014年平成25年)に発見され未発表の歌では、日中戦争拡大憂いて「秋風やいくさ初(はじ)まり港なるたゞの船さへ見て悲しけれ」と詠んでいる。「たゞの船」とは民間商船のこと。1937年昭和12年8月13日横浜港扇子したためたという。 晶子34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤り多く外遊資金調達のために急ぎまた、校訂当たった森鷗外『源氏物語』専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し源氏54帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。またも一からやり直し、さらに17年かけて6巻本『新新訳源氏物語』を完成させる1938年昭和13年10月より刊行し翌年9月完結した詳細は「与謝野晶子訳源氏物語」および「源氏物語礼讃歌」を参照

※この「作家・歌人」の解説は、「与謝野晶子」の解説の一部です。
「作家・歌人」を含む「与謝野晶子」の記事については、「与謝野晶子」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「作家・歌人」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「作家・歌人」の関連用語

作家・歌人のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



作家・歌人のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの与謝野晶子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS