「男の娘」ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:55 UTC 版)
図6:雑誌・新聞における記事件数の推移 三次元、 二次元/三次元、 二次元 2006年以降、「男の娘」という概念が次第に認知されるようになっていき、普及していく。アダルトゲームでは「男の娘」という概念が制作側に意識されはじめ、『ツイ☆てる』(2007年、c:drive)公式の紹介文にこの言葉が出てくる。ショタアンソロジーでも、2007年末になり「男の娘」という表現が初めて登場する。2008年のメディアミックス『オトコのコはメイド服がお好き!?』(ホビージャパン)を分析した吉本は、渡良瀬準に始まった「男の娘」キャラクターの描き方がこの時期には確立していると判断している。 2009年にかけて「男の娘」は急成長していく。2009年のニンテンドーDS向けソフト『THE IDOLM@STER Dearly Stars』(バンダイナムコゲームス)の主人公の一人は、女装した少年であった。ブリジットのときと情報の出し方が似ており、男ではないかという大方の予想が的中すると、「バンナム、はじまったな」などと喝采が上がり、人気キャラクターとして定着した。テクノコスプレ研究会主宰のあしやまひろこは、『ひばりくん』と松本トモキ『プラナス・ガール』(2009年)の対比のうちに、1980年代から2000年代に至るまでのパラダイムシフトを見いだしている。かつての大空ひばりは、家族以外には性別を偽らなければならなかった。一方、『プラナス・ガール』のヒロイン・藍川絆は、男を公言していながら常に学園のアイドルとして扱われるのである。あしやまは、(2000年代において)「可愛いは正義」が作品のシンプルなテーマとして通用するようになったと述べている。 2009年5月、三和出版から成年向け女装美少年専門誌『オトコノコ倶楽部』(後に編集者の井戸が独立し『オトコノコ時代』へ改称)が刊行され、創刊号はマニア誌としては異例の発行部数を記録した。井戸は、「男の娘」という語を当時頻繁にネットで見かけるようになっていたといい、「男の娘ということばのポップな、現代的なイメージを借りれば、ことば自体もキャッチーだし、〔従来のニューハーフ雑誌より〕もっと幅広い層に受けるんじゃないか」と考えたという。2009年ごろまで「男の娘」は「女装少年」という語とシェアを競っていたが、2010年代に入ると「男の娘」が一般化し、「女装少年」を置き換えるようになっていく。 現在では休日の秋葉原で女装して歩いているオタク男子を多数目にすることができる。もし「そんな人間は見たことがない」というのなら、それはオタク男子があまりにも女性らしく装っているために、気がつかないだけだ。 川本 2014, p. 145 三次元では、「プロパガンダ」以降、女装関係の飲食店・イベントが増えていく。東京の女装文化の中心は、1990年代までは新宿であったが、「男の娘」文化の中心は秋葉原であった。 2009年5月、「雲雀亭」のスタッフが分かれる形で「男の娘カフェ&バー NEWTYPE」が同地に開店する。「NEWTYPE」は常設の店舗であり、積極的なメディア展開をおこなうとともに、店員の写真集やDVDを発売するなどして、「秋葉原の女装文化の中心的な存在」(川本 2014, p. 76)になっていく。2009年以降、「男の娘」に関するメディア報道が増えるが(図6)、それらの多くが「NEWTYPE」を取材したものであった。 2009年11月、東京都荒川区で、化粧した男子が美しさを競い合う「東京化粧男子宣言!」が開催される。主催は『オトコノコ倶楽部』第1号の表紙を飾った井上魅夜。自伝エッセイ漫画『わが輩は「男の娘」である!』作者のいがらし奈波がMC、ミス・ユニバース・ジャパン主催企業社長の谷本龍哉、漫画家のいがらしゆみこらが審査員を務め、これもテレビ局の取材を受けた。 また、複数の大学で女装コンテストが活発に開かれるようになった。2011年には、川本が確認しただけで、東京大学・電気通信大学・東京工業大学など6校でコンテストが実施されている。参加者の大半がオタクであったという。筑波大学は、秋葉原とつくばエクスプレス(2005年開業)で結ばれ、川本によれば最も盛んに女装がおこなわれる大学となっていた。女装の流行は、彼らを中心として若年層に広がり、インターネットには若い男性の女装画像が大量にアップロードされるようになった。Twitter(2013年時点)では「#女に見えたらRT」などというタグが使われていた。 比較文化学者の佐伯順子がおこなった調査によれば、「男の娘」「女装子」の新聞メディア初出は、読売新聞の以下の記事である。 「 「ジョソコ」っていったい何? 「女装子」と書けば分かる通り、趣味で女性ファッションを楽しむ男性のこと。女性と見まがう美しい人もいて、今やテレビで特集が組まれたり、「男の娘(こ)」という言葉が生まれたりするほど広がり、ゲームやアニメにも当然のように登場します。〔……〕 」 —「注目ワード:ジョソコ ボクたち「男の娘」」、『読売新聞』2010年1月27日 2010年2月には、NHKの英語ニュース番組『NEWSLINE』が「Boys will be boys?」と題し、こうした日本の現象を世界百数十カ国に向けて紹介した。コメント出演の依頼を受けた三橋によれば、驚いた三橋がそんなニュースを流して大丈夫なのかと確認したところ、番組のディレクターは「実は、日本国内よりも外国で注目されているので、十分ニュース価値があるんです」と答えたという。同年5月、BS情報番組『MAG・ネット〜マンガ・アニメ・ゲームのゲンバ〜』でも「男の娘」が特集される(吉本らが出演)。 そしてこの年には、「男の娘」の一般向け専門誌が2誌創刊された。一迅社の『わぁい!』とミリオン出版の『おと☆娘(英語版)(おとニャン)』である。 2010年代初頭、ブームを象徴する碑として、あるいはそれらしい空気を確かな現象に固着させるための楔として、相次いで《男の娘》専門雑誌が誰の目にも留まる書棚に並べられた。既に月刊漫画雑誌の販路を確立していた一迅社の『わぁい!』と、実話・実録系雑誌を得意とするミリオン出版の『おと☆娘』である。 — 椿 2015, p. 191 両誌とも、「男の娘」が登場するアダルトゲームやアニメなどの作品紹介や、オリジナルの「男の娘」漫画を主なコンテンツとし、かつ、女装のノウハウなど三次元にも配慮した構成となっていた。『わぁい!』の女装指南コーナーは前述の『オンナノコになりたい!』の出張版であった。また両誌は男性サイズのブルマ・旧スクール水着や、ニーソックス・ミニスカートなどを付録につけていた。吉本は、男性の「女装したい」という欲求が高まったことが、創刊の原動力のひとつになっていたと見ており、川本(Kinsella)は、両誌(わぁい!)の三次元への配慮が、二次元と三次元のクロスオーバーを加速させたと分析している。 さらに両社からは、「男の娘」漫画のアンソロジー・単行本が大量に発行された。既にスクウェア・エニックスが先行しており、両社やエンターブレインが後に続いた格好であった。成年向けの「男の娘」漫画も発行点数が増える。成年向けの漫画は、吉本によれば明確にショタアンソロジーの系譜に連なっていた。1990年代末にショタアンソロジーで執筆していた作家たちが、「男の娘」漫画の担い手になっていたのである。この発行ラッシュは2010年から2013年まで続く。 アダルトゲームでは、おとこの娘倶楽部のような専門ブランドも設立され、女装ものの年間発売本数が2010年と2011年にそれぞれ42本(吉本調べ)にも及んだ。2011年は「男の娘」がメインヒロインを務める作品が増えたという報告がある。同年の、全ヒロインが「男の娘」という内容の『女装山脈』(脳内彼女)はヒット作となり、萌えゲーアワードの話題賞・金賞を受賞した。2012年に発売された『月に寄りそう乙女の作法』(Navel、前述)は大賞を受賞し、この流れに続いた。 表2:秀吉の人気(このライトノベルがすごい!)#男性部門女性部門総合出典20091位 10位 2位 20101位 7位 1位 「男の娘」は文字媒体との親和性も高かった。作者が「男」として書けば、どのような人物でも男ということにできるからである。2009年の論稿でライトノベルに「中性的な女装少年を魅力的に描く物語が出始めている」と書いた久米は、2013年になり、「そして四年経った現在、女装少年は〈男の娘〉と呼びならわされ、もはやライトノベルの登場人物としては〈標準仕様〉と言いたくなるほど一般化してしまった」と報告した。久米・樋口らは、代表例として白瀬修『おと×まほ』(2007年、GA文庫)の白姫彼方や、築地俊彦『けんぷファー』(2008年、MF文庫J)の瀬能ナツル、平坂読『僕は友達が少ない』(2009年、MF文庫J)の楠幸村などを挙げている。メディアミックスは既に一般的になっており、アニメにおいても「男の娘」は数を増やしていく。2011年に「男の娘」を特集したアニメ雑誌『娘TYPE』は、ブームの火付け役・牽引役として井上堅二『バカとテストと召喚獣(バカテス)』(2007年、ファミ通文庫。2010年にアニメ化。)の木下秀吉を特に挙げている。秀吉は、男性キャラクター・女性キャラクターの両面で読者の支持を集めた(表2)。2014年には佃煮のりおが『わぁい!』で連載していた『ひめゴト』もテレビアニメ化を果たす。サブカルチャーの全域で、「男の娘」は脚光を浴びていった。 2011年、ドワンゴと提携した井上が、ニコニコチャンネル内に『男の娘☆ちゃんねる』を立ち上げる。その主力コンテンツ「男の娘だョ! 全員集合」のパーソナリティは、女装芸能人の桜塚やっくん・モカ・「NEWTYPE」を経営する「茶漬け」らであった。50人の会場でスタートした「プロパガンダ」は、より大人数の参加者を収容するため、新宿の中で次々に開催場所を移していった。椿によれば、2011年9月のバラエティ番組『スッキリ!!』は、「男の娘」特集を流した際、テロップの「男の娘」に読み仮名を振ることをもはやしていなかったという。川本は、2012年に実写映画『僕の中のオトコの娘』が公開されたことを取り上げ、「男の娘」という言葉が(この時期)確実に一般社会にも浸透しはじめたと述べている。関西の女装ブームの中心は大阪であった。千日前の味園ビルで2008年に始まった女装イベント「ウルトラ・エクセレント」は2013年ごろから活気を帯びていった。東京とは雰囲気が異なり、井戸により「女装の世界に東西の分断が起こっている」と評された。 川本著『「男の娘」たち』(2014年)には、2012年当時の「プロパガンダ」の様子が次のように記されている。 2012年2月25日21時30分、風林会館5階の狭いエレベーターホールは女装子、MtF、男性、女性でごった返していた。プロパガンダは毎月の最終土曜日、22時から新宿歌舞伎町の「風林会館ニュージャパン」で開催されていた。規模は400人ほどで〔……〕。会場内ではすでに江戸時代の陰間茶屋(男娼が男女をもてなす娼館)をコンセプトとするバー「若衆bar化粧男子」の店主、井上魅夜が、和装姿で2人のスタッフを引き連れて入場していた。プロパガンダを、ドワンゴと提携して配信しているニコニコチャンネル『男の娘☆ちゃんねる』(現=『TJTV』)で中継するためだ。 一人で来た客を楽しませるためにモカが結成したプロパガンダ・ガールズもスタンバイしていた。〔……〕ガールズは総勢7人。最古参で秋葉原にある「男の娘カフェ&バー NEWTYPE」の共同経営者chiakiがリーダーで〔……〕。 この日はテレビクルーも入っていた。モカがリポーターを務めるエンタメ〜テレHDのテレビ番組『二丁目なう』のスタッフたちで、今回は初回放映の撮影だ。テーマはモカ自身がプロパガンダをリポートするというもので、彼らはかなりのやる気を見せていた。 22時、開場と同時に参加者が雪崩れ込んでくる。 — 川本 2014, pp. 31–34 「男の娘」ブームは、2008年から2014年ごろにかけて続いた。吉本は、爆発的なブームが観測されたのは2012年から2013年にかけてであったとしている(井戸は、2013年ごろには落ち着いていたと語っている)。来栖は、文化として最も熱気があった時期は2009年であったと述べている。
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