「同和対策審議会」答申
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1960年(昭和35年) 自民党、社会党、民社党の与野党3党は共同して「同和対策審議会設置法案」を第34回国会に提出 し、同法案は7月15日可決、成立。8月13日に公布、施行された。1961年(昭和36年)12月 「同和対策審議会」の第1回総会が開催され内閣総理大臣が「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」を示すよう諮問した。審議会は、答申を出すまでの約4年の間に総会を42回、部会を121回、小委員会を21回開催した。そして1965年8月11日に「同和対策審議会」答申が出された。「同和対策審議会」は答申の中で、「部落差別の存在」を認め、さらに「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である。」とした。 1969年(昭和44年)に同和対策事業特別措置法が10年間(後に3年間延長)の時限立法で制定された。 このように、部落解放同盟を始めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、同和地区のインフラストラクチャーの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。 「同和地区」と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けなかった例も多い。 教育や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」(逆差別)と主張されるが、これらの措置は移民国家のアメリカ合衆国で女性やアフリカ系黒人、先住民など社会的少数者である非ヨーロッパ系・非白人への雇用や教育に適用されている積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)とも捉えることが出来るが、アメリカにおける人種差別と本邦における部落問題を同列化して捉えることの正当性について議論が呈されている。 1982年(昭和57年)4月1日 「地域改善対策特別措置法」が5年間の時限立法で施行された。 1987年(昭和62年)4月1日 「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」が施行され、2度延長されたが2002年(平成14年)3月31日に期限を迎え、33年間にわたる同和対策事業に関わる法律が終了した。
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「同和対策審議会」答申
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「部落解放同盟」の記事における「「同和対策審議会」答申」の解説
1965年8月11日に内閣「同和対策審議会」が佐藤栄作首相に答申してから55年が経過した。当時共産党系の派閥は、「答申」を「毒まんじゅう」であり自民党との妥協の産物であると批判した。一方、社会党系の派閥は「答申」を運動の武器になるとして評価した。佐々木隆爾によると、この部落解放同盟の分裂劇の裏側には、部落解放運動の主流から共産党勢力を排除し、部落解放同盟内の利権派に主導権を握らせ、部落解放運動を体制の中に取り込もうとする旧内務省系の自民党右派議員グループ「素心会」の思惑があったという。以後、1970年代にかけて共産党系の勢力が社会党系の勢力に排除され、今日に至る。このような経緯から、共産党と部落解放同盟は反目を続けている。 「日本共産党#部落解放同盟との対立」も参照 部落解放運動の草創期から「言った・言わない」による暴力的な吊し上げが行われていた。その頂点が八鹿高校事件である。1974年兵庫県立八鹿高等学校で共産党系の「部落問題研究会」に対し、部落解放同盟系の生徒が新たに「部落解放研究会」を学校に申請した。これを共産党系の教師が非公認としたことから、部落解放同盟が組織的に解放研の生徒の支援に乗り出し、教師を糾弾するに及んだ。このとき、共産党支持の教員のみならず社会党支持の教員や支持政党のない教員も暴力の被害を受けている。当時は部落解放同盟の不祥事に関する報道がタブー視されていたことから、全国紙はこの事件を積極的に報道しようとしなかった。共産党はこれらの事件を国会で取り上げ、部落解放同盟を非難している。 また、糾弾の対象とした宗教団体・企業・マスコミなどを「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」(同宗連)、「同和問題に取り組む全国企業連絡会」(同企連)、「出版・人権差別問題懇談会」「人権マスコミ懇話会」などの組織に糾合し、参加費を徴収し、部落解放同盟の研究集会や糾弾会に糾弾側として動員している。この間の事情について、部落解放同盟員は「将棋のコマや思ってくださったらええねん。将棋の場合は相手のコマを取ったらそれをまた今度は自分のコマで使うでしょう。そういうことなんですね。だからね、最近は企業の人、行政の人の発言の方が僕なんかよりも解放同盟寄りの発言だったりする。僕があべこべに『あんたはほんまに解放同盟ですか』と言うてやられるんだから(笑)」と説明する。 日本共産党は「部落問題は既に解決している」として全解連を解散し、人権一般を扱う団体「全国地域人権運動総連合」(全国人権連)に衣替えした。部落解放同盟も部落のみならず、障害者解放など社会的少数者全般の権利を擁護するとのスタンスに変わりつつあるが、部落問題を最終的に解決するのは『行政の責任』だとする立場は堅持している。 部落解放同盟は、かねてから社会党・公明党・民社党・社会民主連合との関係を重視してきた。現在は、立憲民主党との関係が深いが、小森龍邦・部落解放同盟元書記長は、新社会党委員長を務めていた。ただし本来の部落解放同盟は多種多様なイデオロギーの持ち主が集まった大衆団体であり、「部落解放同盟という看板あげてるけども、外したらやってること言うてること自由同和会とそんなに変わらへん」との声も内部にはある。 公式方針としては、反天皇制をスローガンに掲げており、1974年6月の部落解放同盟の「子ども会」では 日本共産党 橋本浙子(日本共産党員。矢田事件への見解が原因で、勤務先の大阪市役所から研修名目による職場いじめを受け、法廷闘争をおこなった) 昭和天皇 機動隊 日本国政府 谷口たすく を「6つの敵」と称し、この6つをかたどったロボットをつくり、これらを倒す競争をさせていた。 しかし末端レベルには天皇崇拝者もおり、「家の中行ったら天皇陛下の写真と日の丸があって、それで支部長やってる」場合もあるという。たとえば部落解放同盟鹿児島県連合会初代委員長の村岡仁三次も、自宅に天皇・皇后の写真を飾っていた。なお村岡は大日本翼賛壮年団出身であった。「南九州の被差別部落の解放運動の人にはときどきいるタイプなんです」と、有馬学は述べている。このほか「日本塾」の右翼が、部落解放同盟に入り込んで幹部になった例も指摘されている。 1995年当時、部落解放同盟には 旧社会党の「党員協」 いわゆるソ連派の「日本のこえ」 中国派の「中国研究会」 の3つの流れがあった。 元々は「党員協」が主流で、松本治一郎も上杉佐一郎もこの派閥に属する。しかし1995年までには「日本のこえ」が主流派閥となり、「日本のこえ」の上田卓三が書記長となる。これに伴い、「日本のこえ」と対立関係にある新社会党の小森龍邦は書記長を解任されるに至った。かつての岡山県連合会(「中国研究会」系)のように、同盟中央の方針に対立したために解体された例もあり、中核派系統の支部が同盟中央から機関解体されて部落解放同盟全国連合会(全国連)となった例もあり、部落解放同盟は一枚岩の組織ではない。また、同盟中央から解体されてからも自らの正統性を主張し、行政から補助金を受け続けている組織もある。 1999年4月30日、広島県教育委員会は、君が代の斉唱を推進する立場をとり、教員と対立した県立校長の自殺事件の背景に、解放同盟県連や日教組の「圧力」があったとする調査結果を発表した。 2002年に同和立法が期限切れを迎え、一部地方自治体において同和予算を見直す動きが出る。これに危機感を持った部落解放同盟は同和立法の代替法として人権擁護法案の成立を強く推進。メディアでは関係の深い朝日新聞社に強く働きかけを行っており、2005年の通常国会時は専務取締役の坂東愛彦や社会部の本田雅和などが同調し、紙面の論調に反映された。これに対して、共産党は赤旗などを通じて反対姿勢を鮮明にした。 部落問題研究所は部落解放同盟を憲兵や特高刑事になぞらえている。全解連もまた 「戦前の国民は、天皇の国家の名で民主主義のかけらもない暗黒支配のもとにおかれて、自由、権利を圧殺されていた。天皇を批判し、冗談にもやゆするものは、それだけで『不敬罪』として逮捕され、牢獄にほうりこまれたのである。これとは、次元がちがうが、『解同』朝田派を批判したものだけでなく、かれらににらまれたものは、それだけでも、"差別糾弾"の対象にされ、"糾弾学習会"とよぶ監禁、どうかつ、脅迫、暴行をうけなければならないのである。このようにみてみるならば、『解同』朝田派の部落排外主義とは、鉄面皮な新しい差別主義である」 と述べている。戦前の特高が内務省警保護局保安課編『特高月報』を通じて国民の不敬発言とされたものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録していたように、部落解放同盟もまた「部落解放基本法」の永久立法の必要性を世に訴えるために「部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会」名義で小冊子『全国のあいつぐ差別事件』を毎年刊行し、国民の部落差別発言とされるものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録している。 「日本のこえ」派で上田卓三のブレーンであり、部落解放同盟の「影の書記長」「影の委員長」「最大の権力者」ともいわれた大賀正行(部落解放・人権研究所名誉理事、元部落解放同盟中央本部顧問)は、部落解放同盟を「人権同盟」と改称し、部落問題だけではなく人権問題全般を扱うNGOに改組し、行政の補助により運営していく構想を持っている、とも伝えられる。 最盛期約18万人が所属していた同盟員は、同和対策関連法の失効(2002年3月31日)を経て、2012年現在、約6万人である。飛鳥会事件やハンナン事件、八尾市入札妨害恐喝事件、大阪府同和建設協会談合事件、芦原病院問題、京都市環境局不祥事、奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件などの相次ぐ不祥事を受けて、部落解放同盟大阪府連飛鳥支部の元幹部は「部落差別はほとんどなくなってるから、解放同盟はもう要らんと思う。別に解放同盟がなくても生活できるやん。結婚差別はまだあるで。でも、それも一部やろ。解放同盟はすでに役割を果たし終えた」と語っている。長年にわたり部落解放同盟と共闘していた灘本昌久もまた「現在、部落解放同盟は野垂れ死に状態になりつつあるが、それは自然となったのではなく、古い運動と理念にしがみついたがための、自業自得の野垂れ死にである」と評している。
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