上田卓三 (政治家)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 上田卓三 (政治家)の意味・解説 

上田卓三 (政治家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/07 14:21 UTC 版)

上田 卓三
うえだ たくみ
生年月日 1938年6月24日
出生地 大阪府大阪市
没年月日 (2005-05-26) 2005年5月26日(66歳没)
出身校 大阪市立扇町第二商業高等学校
(現・大阪市立中央高等学校
前職 部落解放同盟大阪府連書記長・委員長
所属政党日本共産党→)
日本のこえ→)
日本社会党

選挙区 大阪府第4区
当選回数 6回
在任期間 1976年12月11日 - 1988年11月4日
1990年2月19日 - 1993年6月18日
テンプレートを表示

上田 卓三(うえだ たくみ[1]1938年昭和13年〉6月24日 - 2005年平成17年〉5月26日)は、日本政治家衆議院議員(6期)、元部落解放同盟委員長。

来歴

大阪市東淀川区新大阪駅近くの被差別部落(日之出地区)に生まれる[2]。大阪市立扇町第二商業高等学校定時制(現・大阪市立中央高等学校)卒業。

1959年、大賀正行、向井正、山中多美男らと部落解放同盟大阪府連日之出支部結成に参加[3]。戦後世代の部落解放運動若手活動家のひとりとして頭角を現した。前後して日本共産党に入党するも、1964年志賀義雄らが部分的核実験停止条約の批准をめぐり宮本顕治ら中国に接近していた他の幹部と対立、離党し日本共産党(日本のこえ)を結成すると大賀正行ら解放同盟大阪府連の若手活動家らとともにそれに参加、上田らの行動は、同和対策審議会答申の評価をめぐり同盟内の支持を失いつつあった共産党が同盟の主導権を失うきっかけとなった。これが原因となり、共産党からは反党活動の廉で除名される。

その後解放同盟大阪府連書記長・委員長を歴任し、部下の解放同盟員らと日本社会党に集団入党する。

1968年、解放同盟大阪府連書記長、大阪部落解放研究所の理事に就任[4]1969年4月19日には矢田事件で拉致監禁・暴力糾弾に参加したとして共産党員らに逮捕監禁罪・強要未遂罪で刑事告訴されるも、不起訴となる。

1970年2月17日同和行政の窓口一本化を求め、約70名の部落解放同盟員と共に日本共産党議員控室に乱入、暴行・傷害事件を起こしたとして、同年2月21日に共産党府議たちから告訴されるも、上田個人は不起訴となり、当時の大阪府連吹田光明町支部長のみが起訴される(Tは1979年罰金刑が確定)[5]

1972年7月には山口県光市の路上で山口県連の書記長村崎勝利ならびに光支部長村崎寧(両者はいずれも共産党員)に対し、上杉佐一郎らと共に暴行・傷害事件を起こしたとして、光警察署に告訴されているが刑事責任は問われていない。

1974年第10回参議院議員通常選挙大阪府選挙区から日本社会党公認で立候補するが、落選。2年後の第34回衆議院議員総選挙大阪4区から立候補して初当選する。以後連続6期務め、この間飛鳥田一雄委員長の下で国際局長・田邊誠委員長の下で党副委員長を務めた。

1988年リクルート事件が発覚した際には、リクルートコスモス未公開株の譲渡先の一人であったことが明らかとなり11月4日に議員を辞職したが、折からの社会党の土井ブームなどによる追い風もあって2年後の第39回衆議院議員総選挙で国政復帰。前年の第15回参議院議員通常選挙では自らの秘書だった谷畑孝参議院議員に送り込んでいる。1993年第40回衆議院議員総選挙で落選し、政界から引退。その後1996年 - 1998年に部落解放同盟委員長を務めたが、2005年5月26日、肝不全のため死去。66歳没。

晩年は、人権擁護法案制定に反対する声明を出したり、にんげん社から『新憲法制定のススメ』(自衛軍明記、外国軍隊駐留禁止、非核三原則、大統領制、連邦制、アジア太平洋機構、所得税・法人税・消費税の税額2割を限度とした税金寄附金選択制、公益法人への政府補助金禁止、陪審制[6])を出すなど異色な行動をとった。

人物

  • 「人権、中小企業、国際交流の上田卓三」を売りにしていたこともあって、特に被差別部落における中小企業振興で力を振るった。「差別がなくなったら飯の食い上げだ」と発言したこともある[7]1968年に、部落解放同盟傘下の企業団体「部落解放大阪府企業連合会」を介した確定申告書を事実上フリーパスとする合意(七項目の確認事項)を当時の大阪国税局局長高木文雄と取り付けた。後に上田らは、共産党が組織していた「民商」を真似て中小零細企業や個人事業者を対象とした商工団体「大阪府中小企業連合会」(略称・中企連)を設立した。しかしこの合意が却って脱税に悪用されるなど今日では同和利権の一つとして批判の対象になっている[8]。中企連は後に全国的な発展を遂げてティグレとなる。
  • 1979年に米国へ亡命した元ソ連国家保安委員会(KGB)少佐スタニスラフ・レフチェンコはその著書で上田を日本社会党内におけるソ連のスパイ協力者の一員であったと指摘。上田をウラヌスと呼んでいたことを公表した。

政策

著作

  • 編著『マスコミが報道しなかった レフチェンコ事件の真相』にんげん社、1983年
  • 編著『重税で栄えた国はない』正続、にんげん社、1985-87年
  • 『新憲法制定のススメ 連邦制・大領統制への移行』にんげん新書、2005年

脚注

注釈

出典

  1. ^ 『別刷国会便覧 保存版 第4集』173頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年12月7日閲覧。
  2. ^ 上田卓三の歩み 1(1938年-1958年) | TIGRE Forum
  3. ^ 大賀正行『部落解放理論の根本問題 ~日本共産党の政策・理論批判~』(解放出版社)(1977年)まえがき
  4. ^ 大賀正行 2018, p. 5.
  5. ^ 部落問題研究所編『「解同」は何をしてきたのか』(1994年部落問題研究所)巻末年表p.6 ISBN 4829810394
  6. ^ 上田卓三著「新憲法制定のススメ-連邦制・大統領制への移行」にんげん社p27~47
  7. ^ 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.123
  8. ^ 中企連時代には税務当局に圧力をかける姿勢を見せていた時代もあったが、現在では税務当局とは基本的に穏健路線を取っている。時代背景や同和利権のイメージの払拭が後述する団体名変更の理由のひとつであったが、対立姿勢の軟化により逆に課税額減の交渉にあたる税務職員との贈収賄事件に発展するなど、税務職員との癒着の疑いといった新たな問題も浮上している。

参考文献

  • 大賀正行『部落解放理論の根本問題 ~日本共産党の政策・理論批判~』(解放出版社)(1977年)
  • 『別刷国会便覧 保存版 第4集』日本政経新聞社、1997年。
  • 大賀正行「大阪の研究所創立に至った時代的背景とその後の発展」『ヒューマンライツ』366号、部落解放・人権研究所、2018年9月。 

関連項目

外部リンク

議会
先代
井上一成
衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長
1993年
次代
西銘順治



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上田卓三 (政治家)」の関連用語

上田卓三 (政治家)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上田卓三 (政治家)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上田卓三 (政治家) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS