村山政権以後
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小沢一郎の強権政治および新進党の「普通の国」路線に反発し、自民党と組んででも、社会党の自主性を取り戻そうとした勢力を、マスコミは便宜的に左派と呼んだ。そのため、山口鶴男のように右派とされている政治家も、村山富市を支持したために左派と呼ばれることとなった。村山政権は村山談話などを除いて社会党らしい政策を打ち出すことにほとんど失敗し、逆に社会党自身が基本政策の転換を迫られることとなった。 ただし、「当時70議席に過ぎなかった社会党には独自の政策を打ち出すのは不可能であり、限られた条件の中で村山らは社会党らしさを打ち出し、なおかつ社会党崩壊の原因となった小選挙区制導入を阻止しようと努力した」と村山を擁護する声も根強い。また、「基本政策の転換も党大会で追認されており、村山や左派のみに責任を転嫁するのは間違いである」という主張もある。一方で、経済格差やLGBTへの対応が不十分であったことは、村山や協会にも責任があると言える。 反共的な村山とその周辺は、本来なら「社会党右派」に属する。村山は、一貫して自治労右派、政権構想研究会、水曜会と右派に属して政治活動をしてきた。しかし、社会党が左右分裂していた時代には左派社会党に所属していた。村山を支えた幹部をみても、山口鶴男は政権構想研究会、水曜会の大幹部であり、「国会の爆弾男」「国会の止め男」として鳴らした大出俊も山口とほぼ同じ立場であった。村山内閣を作る際に小沢を手玉にとった当時の国対委員長で、後に村山内閣2代目の内閣官房長官となる野坂浩賢も、後に社民党幹事長となる伊藤茂らもどちらかと言えば中間右派に属した。 かつて社会党左派と呼ばれた政治家や活動家は、2018年現在では社会民主党、新社会党、立憲民主党の各党に所属している。1996年(平成8年)に発足した民主党内の社会党出身者は、横路孝弘などを除くと社会党左派に属していた者が多く、1996年当時の社会党分裂に際して、議員と一緒に民主党へ乗り換えた職員、オルグたちも社会主義協会籍を隠した者が少なくなかった。しかし、社会主義協会員の大部分は社民党か新社会党に、現在まで所属しているのが実態である。むしろ、村山・土井社民党に残った者の方が、議員、職員・オルグとも、本来の社会党右派が多かったとする内部の指摘がある。だが、民主党に移った田邊誠と赤松広隆は右派出身である。山花貞夫は中間左派出身であるが、1980年代から社会党を現実的な社民主義に転換させようとしていた。また、左右両派を比較すると、左派の方が転換が素早く、右派の方が不器用であることが多い。表向き西欧社民のイメージを振りまきながら、親北朝鮮という右派もおり、それを不器用と呼ぶかどうかは主観の問題である。左派にも右派にも現実的で柔軟な者もいれば、ポル・ポト派に近いような者もおり、左派か右派かでは一概に評価できないといえよう。国鉄改革に際しても、国労に残ったのが民同左派出身のどちらかと言えば中間右派、鉄産労を作って当局と最終妥協した方が実は左派だったとするJR経営側労務畑幹部の話も伝わる。その後、穏健右派の多くはJR連合に移っており、どちらかといえば左派の方が国労に残留している。さらに1998年(平成10年)以降、新民主党発足に伴い社会党以外から多くの保守派(中には自民党右派と同じ思想の者さえいる)が旧民主党へ入党したため、民主党・民進党内において左派の存在は埋没することが多かった。同一党内における思想の全く異なる勢力の共存により発言力を喪失した状態の解消は、2017年の民進党分裂による立憲民主党の結成を待たなければならなかった。 社会党の後身である社会民主党は、成立時に西欧流社会民主主義と保守色の混合である社民・リベラルを謳った。社会党左派の立場を継承しているはずの新社会党も、1996年の衆議院総選挙、1998年の参議院選挙で国会の議席を失って以来、選挙のたびに得票を減らし続け、2003年(平成15年)の衆議院総選挙では公認候補を立てられなかった。しかし、社民党は2006年(平成18年)決定の「社会民主党宣言」で基本政策をほぼ村山内閣以前に戻し、護憲を掲げて自民党との対決色を強めている。「リベラル」の語句も党文書から消え、地方組織には社会主義協会など旧左派勢力も根強い。そのため、一部には社民党にかつての社会党左派の役割復活を期待する声もある。 この時期の主な政治家は以下のとおり。 小森龍邦 - 部落解放同盟書記長として部落解放運動を主導。後に新社会党委員長となる。 伊東秀子 - 共産党から社会党に転じ、衆院選に当選。小森らと並ぶ左派の論客として名を馳せるが、佐藤孝行の求めに応じ、自民党推薦で北海道知事選挙に出馬、落選した。その後、国民新党に入党する。 野坂浩賢 - 村山の側近として村山政権を支えた。建設相時代、長良川河口堰の運用開始を認め、環境保護派から激しく批判された。 矢田部理 - 社会党茨城県本部委員長、参院議員会長など歴任した。自社さ連立政権を批判して社会党を除名され、小森らと共に新社会党を結党する。新社会党初代委員長。1974年、ロッキード事件の追及で一躍有名になった。 翫正敏 - 石川県小松市の正光寺(真宗大谷派)住職。参院議員在職時、自民党に接近する村山に異議を唱え、1993年(平成5年)の社会党委員長選挙に立候補するが、村山に大差で敗れる。その後離党し、新党護憲リベラルに参加する。しかし護憲リベラルの中心メンバーである田英夫や國弘正雄も「反小沢・反新進党」を掲げ自民党への協力を表明し、対立する。護憲リベラルも離党し、新党「憲法みどり農の連帯」を結党、代表に就任した。その後は新社会党でも活動している。 なお、よく誤解されているが、村山は一貫して社会党右派に属してきた政治家である。村山内閣成立後、小沢らとの連携を目指して自社さ連立政権に批判的な勢力を「社会党右派」、自社さ連立政権を支持する勢力を「社会党左派」と、マスコミが便宜的に呼称したため、村山自身が社会党左派であるかのような誤解が生じたとされている。ただし、社会党が左右分裂していた時代には左派社会党に所属していた。
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村山政権以後
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村山政権が誕生したころには、ソ連が崩壊して、ソ連型社会主義を賛美していたかつての左派の政治家たちも穏健な社会民主主義の考え方を取り入れていたため、党内においては特にイデオロギー的な対立はなかった。マスコミでは便宜的に、小沢一郎と協力してでも自民党を倒すことを優先し、民主・リベラル新党の結成も辞さない覚悟の政治家たちを右派と呼んだ。 民主党結成後、多くは民主党に移っていった。2018年現在、旧社会党右派の系譜を継ぐ議員の多くは立憲民主党に所属しているが、国民民主党など他政党に所属している議員も存在する。 この時期の主な政治家は以下のとおり。 久保亘 - 村山富市時代の書記長。内心では自社さ連立政権に反対しながらも、書記長として村山を支える。民主・リベラル新党の結成を模索し、民主改革連合に入った。 山花貞夫 - 父親の代から左派だったが、委員長就任後は自民党反主流派と組んでの政権交代を実現させ、次第に右派の代表者とみなされるようになる。党内反村山グループの代表格として、反村山グループの国会議員の離党届を提出するが、阪神・淡路大震災のために集団離党戦術が宙に浮き、責任をとって1人で離党した。 小林正 - 日本教職員組合(日教組)出身。保守派に転向し、離党後は新生党・新進党・自由党で活動した。後に新しい歴史教科書をつくる会会長、教科書改善の会賛同者などを歴任する。 谷畑孝 - 上田卓三秘書出身、元部落解放同盟大阪府連副委員長。後に自民党に転じ、清和政策研究会所属。その後日本維新の会、維新の党、おおさか維新の会を経て、現在は日本維新の会所属。 井上一成 - 摂津市長から衆議院議員に転じ、社会党副委員長、郵政大臣を務める。その後民主党、自由党、保守党を経て、自民党に入った。弟の井上信也はサラリーマン新党で活動した。
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