村山政権以後とは? わかりやすく解説

村山政権以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 02:27 UTC 版)

社会党左派」の記事における「村山政権以後」の解説

小沢一郎強権政治および新進党の「普通の国」路線反発し自民党組んででも、社会党自主性取り戻そうとした勢力を、マスコミ便宜的に左派呼んだ。そのため、山口鶴男のように右派とされている政治家も、村山富市支持したために左派呼ばれることとなった村山政権村山談話などを除いて社会党らしい政策打ち出すことにほとんど失敗し逆に社会党自身基本政策転換迫られることとなった。 ただし、「当時70議席に過ぎなかった社会党には独自の政策打ち出すのは不可能であり、限られた条件の中で村山らは社会党らしさを打ち出しなおかつ社会党崩壊の原因となった小選挙区制導入阻止しよう努力した」と村山擁護する声も根強いまた、基本政策転換党大会追認されており、村山左派のみに責任転嫁するのは間違いである」という主張もある。一方で経済格差LGBTへの対応が不十分であったことは、村山協会にも責任があると言える反共的な村山その周辺は、本来なら「社会党右派」に属する。村山は、一貫して自治労右派政権構想研究会水曜会右派属して政治活動をしてきた。しかし、社会党左右分裂していた時代には左派社会党所属していた。村山支えた幹部をみても、山口鶴男政権構想研究会水曜会大幹部であり、「国会爆弾男」「国会止め男」として鳴らした大出俊山口とほぼ同じ立場であった村山内閣作る際に小沢手玉にとった当時国対委員長で、後に村山内閣2代目内閣官房長官となる野坂浩賢も、後に社民党幹事長となる伊藤茂らもどちらかと言えば中間右派属した。 かつて社会党左派呼ばれた政治家活動家は、2018年現在では社会民主党新社会党立憲民主党の各党に所属している。1996年平成8年)に発足した民主党内の社会党出身者は、横路孝弘などを除くと社会党左派属していた者が多く1996年当時の社会党分裂に際して議員一緒に民主党へ乗り換えた職員オルグたちも社会主義協会籍を隠した者が少なくなかった。しかし、社会主義協会員の大部分社民党新社会党に、現在まで所属しているのが実態である。むしろ、村山土井社民党残った者の方が、議員職員オルグとも、本来の社会党右派多かったとする内部指摘がある。だが、民主党移った田邊誠赤松広隆右派出身である。山花貞夫中間左派出身であるが、1980年代から社会党現実的な社民主義転換させようとしていた。また、左右両派を比較すると、左派の方が転換素早く右派の方が不器用であることが多い。表向き西欧社民イメージ振りまきながら、親北朝鮮という右派もおり、それを不器用と呼ぶかどうか主観問題である。左派にも右派にも現実的柔軟な者もいれば、ポル・ポト派に近いような者もおり、左派右派かでは一概に評価できないいえよう国鉄改革に際しても、国労残ったのが民同左派出身どちらかと言えば中間右派鉄産労作って当局最終妥協した方が実は左派だったとするJR経営労務幹部の話も伝わる。その後穏健右派多くJR連合移っており、どちらかといえば左派の方が国労残留している。さらに1998年平成10年以降新民主党発足に伴い社会党以外から多く保守派中には自民党右派と同じ思想の者さえいる)が旧民主党入党したため、民主党民進党内において左派存在埋没することが多かった同一党内における思想の全く異な勢力共存により発言力喪失した状態の解消は、2017年民進党分裂による立憲民主党結成を待たなければならなかった。 社会党後身である社会民主党は、成立時西欧社会民主主義保守色の混合である社民リベラル謳った社会党左派立場継承しているはずの新社会党も、1996年衆議院総選挙1998年参議院選挙国会議席失って以来選挙のたびに得票減らし続け2003年平成15年)の衆議院総選挙では公認候補立てられなかった。しかし、社民党2006年平成18年決定の「社会民主党宣言」で基本政策をほぼ村山内閣以前戻し護憲掲げて自民党との対決色を強めている。「リベラル」の語句も党文書から消え地方組織には社会主義協会など旧左派勢力根強い。そのため、一部には社民党にかつての社会党左派役割復活期待する声もある。 この時期主な政治家以下のとおり小森龍邦 - 部落解放同盟書記長として部落解放運動主導。後に新社会党委員長となる。 伊東秀子 - 共産党から社会党転じ衆院選当選小森らと並ぶ左派論客として名を馳せるが、佐藤孝行求め応じ自民党推薦北海道知事選挙出馬落選したその後国民新党入党する。 野坂浩賢 - 村山側近として村山政権支えた建設相時代長良川河口堰運用開始認め環境保護派から激しく批判された。 矢田部理 - 社会党茨城県本部委員長参院議員会長など歴任した自社さ連立政権批判して社会党除名され小森と共に新社会党結党する。新社会党初代委員長1974年ロッキード事件追及一躍有名になった。 翫正敏 - 石川県小松市正光寺真宗大谷派住職参院議員在職時、自民党接近する村山異議唱え1993年平成5年)の社会党委員長選挙立候補するが、村山大差敗れる。その後離党し新党護憲リベラル参加する。しかし護憲リベラル中心メンバーである田英夫國弘正雄も「反小沢・反新進党」を掲げ自民党への協力表明し対立する護憲リベラル離党し新党憲法みどり農の連帯」を結党、代表に就任したその後新社会党でも活動している。 なお、よく誤解されているが、村山一貫して社会党右派属してきた政治家である。村山内閣成立後小沢らとの連携目指し自社さ連立政権批判的な勢力を「社会党右派」、自社さ連立政権支持する勢力を「社会党左派」と、マスコミ便宜的に呼称したため村山自身社会党左派あるかのような誤解生じたとされている。ただし、社会党左右分裂していた時代には左派社会党所属していた。

※この「村山政権以後」の解説は、「社会党左派」の解説の一部です。
「村山政権以後」を含む「社会党左派」の記事については、「社会党左派」の概要を参照ください。


村山政権以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:57 UTC 版)

社会党右派」の記事における「村山政権以後」の解説

村山政権誕生したころには、ソ連崩壊してソ連型社会主義賛美していたかつての左派政治家たちも穏健な社会民主主義考え方取り入れていたため、党内においては特にイデオロギー的な対立はなかった。マスコミでは便宜的に小沢一郎協力してでも自民党を倒すことを優先し民主リベラル新党結成辞さない覚悟政治家たちを右派呼んだ民主党結成後、多く民主党移っていった。2018年現在旧社会党右派系譜を継ぐ議員多く立憲民主党所属しているが、国民民主党など他政党所属している議員存在する。 この時期主な政治家以下のとおり久保亘 - 村山富市時代書記長内心では自社さ連立政権反対しながらも、書記長として村山支える。民主リベラル新党結成模索し民主改革連合入った山花貞夫 - 父親の代から左派だったが、委員長就任後自民党反主流派組んで政権交代実現させ、次第右派代表者みなされるうになる党内村山グループ代表格として、反村山グループ国会議員離党届提出するが、阪神・淡路大震災のために集団離党戦術が宙に浮き責任をとって1人離党した小林正 - 日本教職員組合日教組出身保守派転向し離党後は新生党・新進党・自由党活動した。後に新しい歴史教科書をつくる会会長教科書改善の会賛同者などを歴任する谷畑孝 - 上田卓三秘書出身、元部落解放同盟大阪府副委員長。後に自民党転じ清和政策研究会所属その後日本維新の会維新の党おおさか維新の会経て、現在は日本維新の会所属井上一成 - 摂津市長から衆議院議員転じ社会党副委員長郵政大臣務める。その後民主党自由党保守党経て自民党入った。弟の井上信也サラリーマン新党活動した

※この「村山政権以後」の解説は、「社会党右派」の解説の一部です。
「村山政権以後」を含む「社会党右派」の記事については、「社会党右派」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「村山政権以後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「村山政権以後」の関連用語

村山政権以後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



村山政権以後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの社会党左派 (改訂履歴)、社会党右派 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS