「部落」の概念・居住者の移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:24 UTC 版)
「部落問題」の記事における「「部落」の概念・居住者の移動」の解説
戦前の水平社による特殊部落の呼称、戦後の同和対策事業において、エタ村あるいはエタ(穢多)と称された賤民の集落や地域を、行政が福祉・補助金・インフラ整備重点地域の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだことから、特に西日本でのみ被差別部落を略した呼び名として定着した。 しかし、「部落(ぶらく)」は「集落(しゅうらく)」と同義であり、九州地方でも佐賀などで行政区の単位を示す部落の意味として使われる場所も多く、1920年5月14日付の九州日報においても、こと福岡県筑後地方で〈先月末より流行性感冒再燃し罹病や者百五十余名に達し部落民中病やまざる者なきの有様〉と集落の意味で用いられているなどしている。 2011年3月4日に第68回全国大会で決定された部落解放同盟綱領では、「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である。被差別部落とは、身分・職業・居住が固定された前近代に穢多・非人などと呼称されたあらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である」と定義されている。 ただしその一方で『部落問題事典』(解放出版社、1986年)では「部落民とみなされる人、あるいは自ら部落民とみなす人を部落民という。この同義反復的なことでしか、部落民を定義することはできない」(野口道彦)とも述べられており、「被差別部落」や「被差別部落民」を定義する方法がないことも指摘されている。また、被差別部落には穢多や非人に起源をもつもののほか、夙、鉢屋衆、きよめなど多種多様な起源をもつものがある(雑種賎民)。 静岡県では院内という民間陰陽師がもともと被差別民ではなかったところ、明治初期に陰陽師廃止令が発布されたために失職し貧困化して被差別民認定された。 また、山窩の集住地を同和対策事業の対象とした自治体もごく少数ある。 被差別部落の居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと誤解されていることが多いが、これは間違いで、歴史的には被差別部落で財をなし成功した者が被差別部落の外へ流出すると同時に、被差別部落の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安い被差別部落の中へ流入することが繰り返されてきた。そのため、北原も部落解放同盟の血縁・職業差別を前面にしていることを批判し、部落差別を海外でいうスラム街忌避とほぼ同じとし、明治期以降の被差別部落の大多数は、海外の貧困スラムと同様の貧民窟、貧民街であると述べている。 京都市内のある部落では、京都部落史研究所の調査の結果、半数を超える「部落民」が部落外からの流入者と判明したこともある。1937年(昭和12年)に京都市社会課が市内の8箇所の部落を対象に行った「京都市における不良住宅地区調査」では、「部落民」のほぼ半数が外部からの流入者と特定された。 また、日本統治時代の朝鮮半島から内地に渡った朝鮮人が被差別部落に住み着いた例も多く、日本の総人口に在日韓国・朝鮮人(在日コリアン)が占める割合は1パーセントに満たないところ、大阪市のある同和地区では住民の13.8パーセントを在日コリアンが占めている。京都市の崇仁地区では1920年代(大正9-昭和4年)以降の人口増加は大半が朝鮮人の増加によるものであり、崇仁学区内の貧困者の比率が京都市内で最も高かった。原則として同和地区在住の外国人は属地属人主義により同和事業の対象とはならないが、自治体によっては完全な属地主義を採り、同和地区在住の在日韓国人を同和対策事業の対象としていることもある(滋賀県草津市の事例)。 部落解放同盟や同和会が同和予算を行政から獲得するため、同和対策事業特別措置法(同対法)のいう「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」(被差別部落)が存在しない自治体にまで無理やり同和地区を作った事例もある(このような地区は「えせ同和地区」と呼ばれる)。 1976年7月には、もともと被差別部落が存在しない宮崎県児湯郡都農町に同和会が結成され、これに伴って同和会が都農町の一部を同和地区指定させ、支部助成金など同和予算495万円の計上を約束させた。1976年(昭和51年)9月の町議会は同和予算を全額削除したが、宮崎県同和対策室の圧力で最終的に1地区(9世帯、30人)が同和地区として認定させられた。 こうして宮崎県では9市9町に36カ所の同和地区が指定されることとなったが、全解連書記長の村尻勝信によると、その3分の1は「えせ同和地区」であるという。 大分県でも同和予算目当ての「でっち上げ同和地区」「ニセ同和地区」の存在が報告されている。同じ大分県では、一般地区の貧窮者が「生活保護を受けたいなら○町(同和地区)へ行け。あそこならすぐ手続きしてくれる」と地元の区長から言われ、同和地区に転入した例が多数ある。 同対法施行当時は、個人施策の受給と同和住宅入居を目的として部落解放同盟支部長に認定料を渡し、部落民として認定を受ける「駆け込み部落民」の存在も指摘された。被差別部落民の定義が曖昧であるため、東京都では、自称部落民が部落差別と無関係の傷痕を「被差別部落に生まれたために虐められた痕跡」と偽って同和対策事業の個人給付を申請したケースも報告されている。 また、同じ東京都では、ある団体の168人の自称部落民から生業資金貸付申請があったが、最終的に部落民と認められたのは2人だけだったこともある。 被差別部落と被差別部落民の総数について、1946年の部落解放人民大会で採択された宣言では「全国に散在する6000部落300万の兄弟諸君」と呼びかけているが、1965年(昭和40年)の同和対策審議会答申では、日本全国の同和地区数を4160、同和地区人口を111万3043人と述べている。 1982年(昭和57年)の調査では、同和地区数は北海道と東北と沖縄県でゼロ、関東で609、中部で345、近畿で1004、中国地方で1061、四国で676、九州で868とされているが、東北6県にも未指定地区があることは常識となっており、平野小剣や沖田留吉のように福島県の被差別部落から出た水平運動家もいた。また、北海道に於いても函館市や紋別市、道東方面に同和地区があったとされる文献もある[要出典]。 なお、被差別部落の最南端は種子島とされている。
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