「部落解放予算の人民的管理」の提唱
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「同和行政の窓口一本化」の記事における「「部落解放予算の人民的管理」の提唱」の解説
戦後の部落解放運動は、部落の環境改善や個人給付などの優遇策を行政機関に要求し実施させる「行政闘争」を主眼として進められてきた。その中心となったのは、革新勢力の主導する部落解放同盟であり、部落と行政との仲介機関として、一般の被差別部落住民に、影響力を拡大していた。 1960年8月13日に施行された「同和対策審議会設置法」に基づき1961年(昭和36年)12月 「同和対策審議会」の第1回総会が開催され内閣総理大臣が「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」を示すよう諮問した。自民党は、旧融和運動活動家を糾合する形で全日本同和会を発足させ、部落に集中的に予算を投下する際、部落内部の保守層を通じて自己の影響力を保つ方向性を示した。解放同盟内部には、このような自民党の対応への警戒感が生まれ、それに対抗し解放同盟が主導権を握った形での予算執行を担保させるための理論的主張が模索された。そこから提唱されたのが、各行政機関に対して、解放同盟を部落住民を代表する団体として認めさせ、唯一の窓口として施策を実施するという「窓口一本化」の主張で、「部落解放予算の人民的管理」を謳い、同和会や、保守勢力の影響が強い行政当局に影響力を強めるための有力な理論となった。この主張は解放同盟の活動家に広く受容され、大阪、広島、福岡など、解放同盟が強い組織基盤を持つ地域では実際に、解放同盟とのみ提携して同和行政を進める姿勢を明らかにする自治体が数多く生まれた。中でもこの「窓口一本化」方式の理論化を主導し、その正当性を強く主張した者の中には、解放同盟内の共産党員活動家や、部落問題研究所内の共産党員研究者も含まれており、その中には「積極的に部落解放をしようという人たちから入居するのが当然である」「積極的に部落解放同盟に入り、運動をしている人たちを中心に入居を決めていく」と主張する者もいた。[要検証 – ノート] 全解連の中西義雄は、ジャーナリストから 「『窓口一本化』なんですけれども、そもそも全日本同和会に対する対抗手段として出してきたというふうに聞いているんですが、だとすると、当時は共産党、あるいは今日の正常化連の人びとも、その論理でやってたんじゃないかと思うんですが」 と問われ、 「当時は自分たちの組織だけに窓口を一本化しようという考えもなかったし、また、組織的には対立していても、同和会に入っているものを同和事業の対象にしてはならないという、方針や要求をかかげたことはありません」 と答えている。
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