恩赦
恩赦とは、恩赦の意味
恩赦とは、国家の刑罰権を消滅もしくは軽減させる制度で、すでに決定している刑事裁判の内容の変更や効力の変更あるいは消滅が行われるものである。天皇の大御心「恩」と刑罰を免除するという意味の「赦」が語源となっている恩赦は、世界各国に同様の制度が存在するが、日本では中国の法律をもとに制定された大宝律令がきっかけとなり奈良時代から行われていたとされ、江戸時代などには頻繁に実施されていたという歴史をもつ。近年では主に天皇の即位など国家の慶弔に伴って実施され、2019年の即位礼正殿の儀に合わせた恩赦の実施では、約55万人が対象とされ大きな話題となった。恩赦は、天皇のありがたみを広く知らせることを目的とするなど次第に日本独自の変化を遂げ、1889年の大日本国憲法ではその実施は天皇の決定により行われるとされていたが、1947年に施行された現行の憲法では内閣の権限となり内閣が決定したものを天皇が認証するかたちとなった。その後、国民の民意や専門的な意見の反映のため中央更生保護審査会が設置され、時代に合わせて変化を続けている。現在、恩赦には実施の方法が異なる政令恩赦と個別恩赦の2種類があり、国民感情などに配慮してその全体数は大きく減少傾向にある。また、恩赦は恩赦法で定められ、内容によって大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権の5種類に分類されるが、直近の政令恩赦では復権のみが実施されその内訳は交通違反が半数以上を占めるなど、犯罪被害者対策に力を入れている政府の方針に沿ったものとなっているのが特徴的である。
恩赦には大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権がある
恩赦法では、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権の5つの恩赦が定められており、それぞれ内容や対象が異なる。恩赦のなかでも特に効力の大きい大赦は、政令で定めた特定の種類の罪に関して有罪の言い渡しを受けた人はそれが無効となり、まだ有罪の言い渡しを受けていない人は公訴権を失うというもので、直近では1989年の昭和天皇の大喪の礼の際に実施された。特赦は、同様に有罪判決の効力を失わせるものだが、対象は恩赦の時点で有罪判決を受けている人のなかでも特定の人とされている。政令で定めた種類の刑や罪で有罪判決を受けた人もしくはそのなかの特定の人を対象として、刑を軽くしたり執行猶予の期間を短縮したりするのが減刑である。戦後計4回の政令恩赦で減刑が実施されたが、これにより死刑判決から無期懲役に減刑された死刑囚が一定数以上存在し、なかにはその後仮釈放された例もある。1952年のサンフランシスコ講和条約発効に伴う減刑を最後に、近年では政令恩赦の減刑は行われておらず、詳細な内容は明らかにされていないが重度の精神障害者に対する特別な減刑や軽微な減刑にとどまっている。その他、刑の執行の免除は、刑の言い渡しを受けた人のなかの特定の人のみが対象となる。また、有罪の判決を受けることで停止となる権利として交通違反の罰金刑による国家資格の停止や公職選挙法違反による公民権停止などが挙げられるが、これらを恩赦により回復させるのが復権であり、直近の政令恩赦ではこの復権のみが行われた。
政令恩赦と個別恩赦
恩赦には、実施の方法が異なる政令恩赦と個別恩赦の2種類がある。政令恩赦は、政令で罪の種類などを定めたうえで主に国家の慶弔などの際に一律に実施されるもので、内容としては減刑、復権、大赦がこれにあたる。恩赦の歴史は古いが戦後に政令恩赦が行われた例としては、1945年の終戦に伴う恩赦に始まり、1946年の日本国憲法公布や1956年の国連加盟など、様々な出来事が恩赦実施のタイミングとなってきた。26年ぶりとなった令和の即位礼正殿の儀に伴う政令恩赦を含めて戦後だけで13回の政令恩赦が実施されており、時代背景などに少なからず影響を受けその都度内容や対象の規模を変化させているが、直近では罰金の納付完了後3年間が経過しかつその間に処罰がない人を対象とした復権のみを行うなど、縮小傾向が続いている。個別恩赦は、恩赦の決定に専門的意見を取り入れるために法務省に設置された中央更生保護審査会が、個別に内容を審査し恩赦に相当すると判断した場合に法務大臣へ申し出ることによって実施されるものである。個別恩赦には、国家の慶事に伴って実施される政令恩赦とあわせて一定の期間に限り特別な基準に該当する人が申請できる特別基準恩赦と、随時行われている常時恩赦の2種類があり、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権が行われる。特別基準恩赦においては、政令恩赦の対象から漏れた人だけでなく、重度の病気などで長期間刑の執行ができていない状態の人なども個別審査の対象となる。常時恩赦については広く知られていないが、年間を通して約30人前後に恩赦の閣議決定が行われ、内訳としては復権および保護観察終了などの刑の執行の免除が主となっている。
恩赦を実施した場合の国のメリット
恩赦を行うことについて法務省は、慶事にあたり罪を犯した人の更生意欲を高め、社会復帰を促進することが狙いであると発表している。復権によって国家資格の制限が解除されたり就職活動時の賞罰に関する不安がなくなったりといった側面があるため、国にとっては罪を犯した人の立ち直りや再犯防止の効果が高まり刑事政策上のメリットがあるといえる。ただし、この恩赦制度は、政令恩赦の対象となる人に直接通知があるわけではなく本人が自ら出願しなければならないため注意が必要である。恩赦の制度はおかしいのか
一方で、恩赦の制度はおかしいと疑問の声を上げる人も多い。直近の政令恩赦実施の際には、国民感情に配慮して行うことが発表されたが、納得していない犯罪被害者や遺族も多いのが現状である。そもそも恩赦の対象や内容は政府が定めているが、三権分立の観点から、司法の決定したものを行政が変更すること自体を問題視する意見もある。また、過去には1990年に天皇即位に際して行われた政令恩赦の対象に約4300人の公職選挙法違反者が含まれていた件で、恩赦の政治利用であるという見方もあり大きな議論となった。政令恩赦に関しては、専門家などがチェックすることなく決定され、決定に至った経緯や明確な理由などの文書も公開されていない。個別恩赦に関しても、中央更生保護審査会という合議機関があるものの、その判断基準や詳細な情報が広く開示されていないことも恩赦制度への不信感に繋がっているといえる。
おん‐しゃ【恩赦】
恩赦
恩赦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:15 UTC 版)
戦後、無期懲役が確定した後、個別恩赦により減刑された者(仮釈放中の者を除く)は86人記録されているが、1960年に実施されたのを最後に記録されていない。また、政令恩赦による減刑も、1952年のサンフランシスコ平和条約の発効に伴って実施されたのを最後に記録されていない。
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恩赦
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1987年マサチューセッツ州知事マイケル・デュカキスはアン・ハッチンソンに恩赦を発行し、350年前ウィンスロップ知事が発した追放命令を撤廃した。
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恩赦
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川北はロサンゼルスの郡刑務所に確定死刑囚として収監されたが、翌年アイゼンハワー大統領は川北の刑を終身刑に軽減した。減刑にともない、川北はアルカトラスの連邦刑務所に移送された。両親は減刑運動に奔走したが、1950年代に相次いで死去した。 当初、川北に同情する意見は、日系アメリカ人の間に見られなかった。川北の行為は多くの日系二世の顔に泥を塗ったと受け止められた。ロサンゼルス二世退役軍人協会は、日本から帰国する日系アメリカ人の名前と顔写真を新聞に出し、元戦争捕虜や日系アメリカ人の協力を煽り、川北以外の反逆行為者を割り出せるようにしてはどうかと提案している。しかし、川北の死刑が最高裁判所で確定すると、日系アメリカ人市民同盟は静観をやめ、マイク正岡が川北減刑のロビー活動を始めた。また、川北がキリスト教の篤い信者となり模範囚となったことから、日系人社会外でも宗教界を中心に減刑運動が起きた。 日本においても三木武夫を通じて日本の政財界にパイプを持つ川北は、多くの有力者から支援を受けるようになった。日本社会党所属の衆議院議員でキリスト教会牧師の西村関一が「太平洋戦争の一人の犠牲者にすぎなかった」として減刑嘆願運動を起こし、党派を超えて225人の国会議員と300人の聖職者が減刑嘆願の署名に加わった。川北の母校である明治大学の学長は裁判が不公正であったことを米国政府に訴え、すでに要職にあった三木や当時の田中覚三重県知事はアイゼンハワー大統領にさらなる減刑を嘆願した。 裁判の進め方や死刑に関して、アメリカ国内からも疑問の声が出始めた。裁判の見直し賛同者にはカリフォルニア州知事パット・ブラウンが含まれる。川北を起訴したジェームズ・カーター検察官は減刑を勧告した。 しかし、同一大統領が同一人物に二度の恩赦はしないという慣習から、アイゼンハワー大統領の時代にはこれ以上の減刑はなかった。また、真珠湾攻撃で芽生えた反日系人感情が残る一般市民の間には、川北を含めた日系アメリカ人に厳しい意見があり、減刑には慎重にならざるをえなかった。新聞には次のような差別語を交えた意見が掲載された。 「 大統領閣下、ジャップたちに甘い顔を見せないでください。体を切り刻まれ、銃剣で刺され、目をくり抜かれた、我々の勇敢な英雄たちを決して忘れないでください。バターンを忘れないでください! 」 —ロサンゼルス在住の女性 ジョン・F・ケネディ大統領の時代になり、西村関一に押された小坂善太郎外務大臣が非公式に米国政府高官と川北の処遇につき善処を求め、池田勇人首相も乗り出すなど、日本政府筋からの川北減刑要請は続いた。ケネディ大統領は当初、川北の釈放に消極的であったが、大統領の弟であるロバート・ケネディ司法長官は大統領に釈放を勧めた。国務省の日本担当部局も、川北の釈放が日米関係に有益だと判断し、この動きを後押ししていた。 1963年10月、川北は再入国禁止を条件にケネディ大統領により恩赦を与えられ釈放され、1963年12月にシアトルから日本に向けて発った。羽田空港では三木武夫の妻である三木睦子ら支援者数人が川北を出迎えた。 1978年、57歳になった川北は、園田直外務大臣を通じてアメリカ合衆国に入国許可を求めたが拒否された。川北は残りの人生を日本で過ごし、二度と生まれ故郷に帰ることは許されなかった。
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