恩赦の審問
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9月2日になると新副総督のアダムス・ジョージ・アーチボルドが着任し、新政府の成立を宣言した。リエルは恩赦を得られず、また民兵達は親リエル派を叩き威嚇を加えたことから、セント・ヨゼフ伝道所の保護の下に国境を越えダコタ準州へ逃亡した。1870年12月に行われた第一回州議員選挙の結果、リエルを支援する者が数多く勢力を持つこととなった。しかし、リエルは精神的重圧と経済的困窮から身体の調子がすぐれず(この不調は後の精神的な病の前兆とされている)、1871年5月になってやっとマニトバへの帰還が叶った。 このころのレッドリヴァー居留地は新たな脅威に直面していた。リエルのかつての盟友ウィリアム・バーナード・オドノヒュー(William Bernard O'Donoghue)の率いるフィニアン同盟員(アイルランド系)が国境を越えてマニトバへの襲撃を行ったのである。この脅威は後に誇張されすぎた話であることが判明したが、副総督アーチボルドは10月4日軍の召集を宣言した。武装騎馬兵の部隊が編成され、うち一部隊をリエルが率いた。アーチボルドはセント・ボニファスで行われた閲兵式の折、大げさな仕草でリエルと握手を行い友好関係の回復がなったことを公式にアピールした。しかし、現実はこれと異なり、この和解の知らせがオンタリオ州に届けられると、メイアーを始めとする「カナダ第一運動(Canada First movement)」の構成員は、反リエル(及び反アーチボルド)の気運を再起させるためにしきりに民衆を扇動した。 1872年の連邦選挙において、マクドナルド首相はまずいことにケベック州とオンタリオ州間に更なる溝を生じさせた。そこでマクドナルドはタシェを通じてリエルに1,000カナダドルの賄賂を提供するとともに自発的に亡命するよう工作を行った。またスミスからは、リエルの家族の賄費として600ポンドが追加提供された。他に選ぶ道もなくリエルは1872年3月2日にミネソタ州セントポールに辿り着いた。しかし、6月末にマニトバ州に戻ると間もなくProvencher 選挙区から連邦議員選挙に立候補することを表明した。ところが、9月初旬にカルティエが地元選挙区のケベックで敗けると、リエルはカルティエ(記録によればリエルの恩赦について好意的な立場であった)が議席を確保できるようにと支援を行った。こうしてカルティエは選挙に圧倒的な勝利を収めたが、リエルの望んだ恩赦審問による早期解決の夢は1873年5月20日のカルティエの死により潰えた。 1873年10月の補欠選挙にリエルは無風状態で立候補したが、9月に彼に対する逮捕状が発行されると再び逃亡した。このときルピーヌは不運にも捉えられ、裁判にかけられた。リエルは、逮捕や暗殺を恐れながらモントリオールに向かい、下院議員の議席に就くべきかどうか逡巡していた。というのもオンタリオ州首相のエドワード・ブレークは、リエルの逮捕に5,000ドルの懸賞金を掛けていたからである。リエルは1873年の「パシフィック・スキャンダル(カナダ太平洋鉄道の建設工事受注を巡る贈収賄事件、11月にマクドナルド保守党内閣の退陣に発展)」の議事に出席しなかった唯一の国会議員であったことが知られている。カナダ自由党の党首アレクサンダー・マッケンジーが臨時の連邦首相となり、1874年1月に総選挙が行われた。こうしてマッケンジー率いる自由党は新内閣を発足させたが、リエルはその議席を維持した。杓子定規にいえばリエルは選挙で議員に選ばれた時にすくなくとも一度は議員名簿に署名を行う必要があったため、1月下旬に形式を整えるための署名を行っている。ところが、この議員名簿の署名漏れを種にして、リスガー選挙区から選出されたシュルツが支援した運動により、リエルは非難を浴びた。リエルの勢いはこの運動でも止まることなく補欠選挙で再選を果すが、またも追放処分となった。こうして、リエルの象徴的なイメージが形成されケベック州における世論は大変な勢いで親リエルに傾いていった。
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