恩赦と復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 14:47 UTC 版)
ティーチは残ったスループ船でオクラコークの入り江に向けて北に進む前に、約25人の手下たちを陸地から1リーグ離れた浜だけの島に置き去りにしていた。これは、彼らがティーチの計画に感づいて反抗しようとしたために行われたのかもしれない。なお、置き去りにされた者たちは2日後に戻ってきたボネットが助け出している。一方、ティーチはバスに向かって進み続け、1718年6月(それはボネットが恩赦を受けて出発した数日後)、彼と大幅に減少した手下たちはイーデン総督からの恩赦を受けた。 彼はバスに定住することを決め、イーデンの総督邸の近くでもあるバスの入り江の東側に位置するプラム岬に住んだ。7月から8月にかけて、ティーチは街での拠点とオクラコークに停泊させた自分のスループ船の間を行き来していた。裏付ける証拠はないが、『海賊史』の説明によれば、この頃、地元のプランテーションの所有者の娘と結婚したという。イーデンは、ティーチに私掠船としての任務のためにセント・トーマス島に航海する許可を与えた(これは小さな開拓地から面倒な海賊を追い払うのに有用な方法だった)。また、ティーチは残ったスループ船の正式な権利を認められ、それをアドベンチャー号と改名した。8月末までには彼は海賊行為に戻っており、同月にペンシルベニア植民地総督は逮捕状を出したくらいだが、おそらくこの頃にはティーチは少し離れたデラウェア湾で活動していた。彼は2隻のフランス船をカリブ海から出航させ、1人の船員を他に移動させると、残った船をオクラコークに戻させた。9月に、彼は海上に放棄されたフランスの船を発見したとイーデンに伝えた。すぐにトビアス・ナイトと税関の徴収官が統括する代理海事裁判所(Vice admiralty court)が召集された。船は海上で発見された遺棄品と判断され、その積荷の内、大樽20樽分の砂糖がナイトに、60樽がイーデンに引き渡され、船倉にある残りの貨物はすべてティーチと彼の手下たちに与えられた。 オクラコークの入り江は、ティーチのお気に入りの拠点だった。ノースカロライナ北東部の様々な集落間を航行する船を見つけるのに最適な立地だった。そこでティーチはイギリスの海賊チャールズ・ヴェインの海賊船を発見した。数ヶ月前にヴェインはウッズ・ロジャーズによる恩赦を拒絶して英国海軍の包囲からナッソーを脱出したばかりであった。また、海賊ハンターとなっていたティーチの元上司ホーニゴールドの追跡を受けていた。ティーチとヴェインは、イスラエル・ハンズやロバート・ディール、キャラコ・ジャックのような悪名高い海賊たちと一緒にオクラコーク島の南端で数日過ごした。
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