九州王朝説
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九州王朝説の根拠となる説明
九州(筑紫島)
592年に飛鳥京が設置されるよりも前に、九州(筑紫島)では筑紫国(大宰府)・豊国・日向国・肥国の4国がが日田街道(ほぼ今日の朝倉街道)・日向街道で繋がっており、その他に南部の熊曾国に隼人が住んでいた。
前者4国には国の制度として部民制(べみんせい)があり、部族の世襲的な職業を定めていた。肥国には日下部・壬生部・建部・久米部、筑紫国・豊国には物部や大神部(おおがべ)、神職である祝部(ほうりべ)、海事・漁業部であろう海部、などがあった(大分県の海部郡は、各地と異なり「あまべ」と読まれる)。当時の王朝は、諸地域の民や渡来人を組織して開墾を促し、屯倉(みやけ、開墾地)に田部・額田部なども作ったが、特に九州内の豊国には、20個あまりの屯倉があった。また527年の磐井の乱の後には、軍事的部民も強化された。
また、古墳時代の貨幣に鉄鋌があるが、これまで発見された1147枚のうち1057枚は畿内に集中しており、畿内では古墳時代には鉄器製造などができなかったことが伺える[6]。
701年の大宝律令のあとは、九州は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)になり西海道とも呼ばれ、全体が大宰府の管轄となった。また「九州」という用語は本来古代では天子の直轄統治領域を意味するもので、中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、9つの国の意味ではなく、天下のことを表すこともある(参考:九州 (中国))。また新羅の九州の実例もある[7]。ただし、天子の直轄統治領域を九州と呼ぶのは古代中国での用法であり日本でも同じように用いられたという証拠はない。
金印
博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の印綬であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があったという主張がある。
- 皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い[注 9](金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」 = 「倭国王」に与えられたものであると考えられる。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることは考えにくい。卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられる。つまり漢委奴國王の金印を志賀島に埋めたのは卑弥呼であると考えられる。
- 『旧唐書』倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだ)」等との記事がある[8]。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものであると考えられ[注 10]、倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王[注 11] と認められた者の住む国である [注 12]。
- 「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる[注 13]。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。
- 現在でも韓国・朝鮮では日本を「倭奴((왜노)ウェノム)」と呼ぶことがある[9][注 14]。
邪馬壹国の産物・交通
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魏志倭人伝によれば邪馬台国は、木材のクスノキ(櫲樟、柟)や鉱物の丹(ニ)の産地であり帯方郡と貿易をしていたが、仏像や造船に使用されるクスノキは主に九州に分布し、また大分県の玖珠郡 (クスは久須、球珠とも表記する)の地名は、クスノキに由来すると思われる。
また丹は、仏像の鍍金や船底の防腐剤として使われた鉱物で水銀の材料であるが、豊日別・豊国跡の大分市には丹生神社があり丹の産地であったことが伺え、また港湾貿易の地として貴船神社も多い。
また、卑弥呼や天照大神と同一人物かは不明であるが、イザナギ・イザナミが生んだワダツミの娘で神武天皇の祖母であり、祖母山信仰の祭神でもある豊玉姫、またその妹とされる玉依姫の2名の国津神(くにつかみ)は、九州の日向国にいたとされており、双方が天津神(あまつかみ)と結婚している。さらに、のちの日本書紀の神武東征の逸話によれば、神武天皇は日向国から出立し、豊国の宇佐でウサツヒコ建立の一柱騰宮(あしひとつ あがりのみや)に滞在してから、近畿へ渡航して辰砂の鉱脈調査を行っている[10]。
また、記紀によればイザナギ・イザナミの最初の国産みが淡路島であるが、淡路島には日本で最古の鉄器製造所であるとされる五斗長垣内遺跡があり、関西の平野部から離れた島に作られていることを考えると、造営者は少なくとも、大阪平野部の部族ではなかったことが考えられる。
なお、鉄器以前の青銅器製造所は、弥生時代中期~後期に、九州北部または伊都国にあったことが判明している[11]。
また王朝の首都とされる大宰府には日田街道が通じており、この日田街道は、日田から久留米、中津、熊本、別府にそれぞれ街道が伸びており、さらに別府では筑紫国跡の福岡県東岸から日向国跡の宮崎県を繋ぐ日向街道に接続している。したがって、伊都国の一大率と同じく、為政者側は陸路でも相当広い範囲を移動することができた。
福岡県の船原古墳では2013年までに、古墳時代後期の馬具が、金銅製品鉄製品を合わせて200点以上発見されている[12]
倭の五王は九州の大王
「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王であったという主張がある。
- 古事記は、筑紫島(九州)は体は一つで顔が四つあるとしており、4つは筑紫国(白日別)、豊国(豊日別)、肥国(建日向日豊 久士比泥別)、熊襲国(建日別)である。ここに対馬か熊曾国を加えるとすれば5つになる。
- 「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、南朝(東晋-梁)側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと考えられる。
- 畿内地方には多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら[注 15] 同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないということにして、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったと考えられる。また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではないと考えられる。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが[注 16] 根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示していると考えられる。
- 『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」 = 中部・関東、「西の衆夷」 = 畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」 = ???、となり、比定地を特定することができないこととする(実際は可能である)。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」 = 畿内、「西の衆夷」 = 九州、「渡りて海北」 = 朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能であるとする[注 17][注 18]。
九州倭国の大陸との交流
漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったという主張がある。
- 広開土王碑、『三国史記』等の倭・倭人関連の朝鮮文献、『日本書紀』によれば、倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない可能性がある[注 19]。政治、祭事、軍事が未分化の時代、王は司令部のある北部九州に常駐することとなった可能性がある。そこで、ヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる、ということを考えられる。
- 倭は長い交流を通じて隋・唐の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、畿内日本は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使したとされる[注 20]。更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内地方に唐の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内地方には隋・唐の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、九州倭と畿内日本とは明らかに別物であると仮定できる。『新唐書』日本伝では「開皇年間(581年 〜 600年)の末に初めて日本国は隋と国交開始した。」と記しており遣隋使・遣唐使が畿内日本と隋・唐の初の直接交流である[注 21]。
- 5世紀の倭の五王は12回も中国の南朝に朝貢し、朝鮮半島で数世紀に亘って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかない。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為であると考えられる。ただしこれは倭の五王が100%に近い航海成功率であったことが前提であり、説として極めて稚拙である。
磐井の乱
527年の磐井の乱は継体が武烈天皇を武力討伐して政権を奪った九州内の王朝交代の記事であるという主張がある。
- (上記古田武彦説にあるように古田は、磐井の乱とは九州王朝の分家である畿内ヤマトの九州王朝への反乱だと考えていたが、後に自説の矛盾に気がつき、磐井の乱は無かったとしている。)
磐井の乱は史実
九州王朝が実在したと仮定した上で磐井の乱は史実であるとする主張は以下のとおりである。
- 「記紀」や「筑後国風土記」等に同じ事件についての同じような記事がある。「記紀」や「筑後国風土記」等の著者に磐井のような地方豪族の反乱の記事を捏造する必要性が無い。
- 「磐井の乱」を否定する根拠が無い[注 22]。
- 福岡県八女市に磐井の墓とされる岩戸山古墳が実存し、記録とも一致している[13]
継体天皇地方豪族説
継体天皇は地方豪族に過ぎなかったという主張がある。
- 『日本書紀』継体記末尾に『百済本記』(百済三書の一つ、三国史記の『百済本紀』とは異なる逸失書)から531年に「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕」という記述が引用されている。しかし、継体天皇の子の安閑・宣化は、継体天皇の死後も生きていた。この記述は記録の齟齬ではなく継体天皇のことではないと考えられる。
- 継体21年(547年)、継体天皇は「社稷の存亡ここにあり」という詔を発しているが、天皇が一地方豪族を討伐するにしては大げさであるということにする。
- 継体天皇が物部麁鹿火に磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言っている。磐井を討伐しないと継体天皇は日本の支配権を得られなかったということにし、継体天皇には政権は無かったということであるということにする。
- 継体天皇は仁徳天皇系の最後の大王・武烈天皇から10親等も離れた応神天皇の5代の孫とされており、大王の継承資格がないということにする。
- 継体は、即位するとその正当性を担保するため武烈の姉の手白香皇女を皇后にしている。
磐井は九州倭国の天皇説
- 『日本書紀』に逸書『百済本記』から〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。「磐井の乱」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していたということにする。[注 23]
- 福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは、九州に律令があったことを示すもので九州に王朝があった証拠であることとする。
- 古代わが国では「曲水の宴」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。畿内地方で「曲水の宴」が開催されはたのは8世紀以降であるが、福岡県久留米市には、8世紀以前の「曲水の宴」のものだと考えられることができる遺構がある。
- 福岡県久留米市の高良山にある高良大社は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせるということにする。
- 高良大社が三種の神器、「干珠・満珠」の宝珠や七支刀を所蔵している。
- 「筑紫君葛子(ちくしのきみ かつし)は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったということは、葛子が朝廷の人物であったということである。ただし、葛子がヤマト王権に仕えていた人間と仮定しても矛盾しない。
聖徳太子と九州年号
厩戸王子と「日出處天子」は別人であり、「日出處天子」は九州倭国の人物であったとする。[注 25] で、冠位十二階、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子は畿内日本の人物で、これといった実績はないと考えられる。
- 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀国王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、俀国には阿蘇山があると明記されているので、俀国は九州のことであるということにする[注 26]。
- 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思北孤」・「倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤。」は男王であり「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」・「王の妻は雞彌(キミ)と号す。後宮に女が600 - 700人いる。太子の名を利歌彌多弗利となす。」とあるので、聖徳太子が推古天皇の代わりを務めたことを考慮しなければ俀国王自身は太子でも女帝(推古天皇)でもない。また、当時の俀国の王が女性なら、儒教の影響の強い隋では大変珍しいので、隋の使者は見逃さずに必ず記録に留めたと考えられることとする[注 27]。
- 『古事記』には「 用明天皇記」において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1か所あるだけで業績に関する記載は無い。ただ、記述が無いだけで実績そのものが無い証明にはならない。
- 『法隆寺金堂釈迦三尊像』は「厩戸王子」の像ではない。
- 『日本書紀』で厩戸皇子は推古29年(621年)2月癸巳(5日)に亡くなったとされているが、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇登遐(とうか)は「癸未年(622年)2月22日」である。
- 『日本書紀』で厩戸の母は「間人皇女」、后は「菟道貝蛸皇女」であるが、『釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇の母は「鬼前太后」、后は「干食王后」となっている。
評を制定したのは九州倭国
「評」を制定していたのはヤマト王権に先行した九州倭国であるという主張がある。九州年号では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わり畿内日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えられることとする。
- 『日本書紀』では「大化の改新」時に「郡」が成立したと記すが、出土した文書(木簡類)により「郡」と言う用語が実際に用いられるのは、大宝律令が制定された文武天皇5年(701年)以降であり、文武天皇4年(700年)以前は「評」を使っていたことが確認されている[注 28]。
- 斉明7年(661年)6月と天智7年(688年)に二度も逝去記事がある伊勢王に関する次の記事は34年前の事であり、640年代に九州倭国は評制度を樹立改革していたと考えられるということとする。
- 朱鳥元年(686年)9月の天武天皇の葬儀 → 白雉3年(652年)の孝徳天皇の葬儀[注 29]
- 天武12年(683年)12月天下を巡行し、諸国の境界を分限 → 649年
- 天武13年(684年)10月諸国の境界を定めた → 650年
- 天武14年(685年)10月東国へ向った → 651年
- 『伊予三島縁起』には「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき、番匠(大規模な土木工事)がはじまり、九州年号の常色2年戊申(648年)には日本国に御巡礼される。)とある。つまり「孝徳天皇のとき前期難波宮造営がはじまり、大化4年(648年)に天皇が九州倭国から畿内日本国に行幸し、その途中に伊予に寄った。」と考えられるということとする。
九州倭国からヤマト王権
神武東征
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古田武彦を始めとする九州王朝説論者の主流派は次のように述べている。(古田史学の会の公式HP より)
大王神武は神話の中の日本(倭)の創始者ではありません。大王神武と久米集団は、弥生後期に倭国から銅鐸国家圏へ攻撃を行いました。尚倭国とは三種の神宝ー鏡・矛・勾玉が祭祀と権力の象徴とする国で、銅鐸国家圏は銅鐸が祭祀と権力の象徴とする国です。神武と同行したのは、海兵隊としての久米の集団のみです。
『古事記』によれば、日向(ひなた、糸島)から東に向かい、安芸(広島県)と吉備(岡山県)で植民し定住しようとしました。しかしそれは失敗し、その結果、銅鐸国家圏への侵略に切り換えました。
そして大阪湾の浪速(なにはや 大阪中之島)を通り、河内湖と呼ばれた湖の端である日下の楯津へ上陸しました。しかし日下での戦いに敗れ、彼らは(大阪市)南方の水路を通って、血沼(ちぬ)の海(大阪湾)へ出ました。そこから彼らは紀伊半島を周り、山を越えて熊野から大和に突入しました。
彼は東方侵略に賭け、大和侵入に成功した。大和では彼は倭国から神倭(かんやまと)伊波礼毘古命(いはれひこのみこと)と呼ばれた。それで彼は後世”大王”と呼ばれたり、神武天皇と呼ばれている。神武天皇とは漢風諡号(かんぷうしごう)といって、古事記・日本書紀編纂時の名前です。
大王神武は実在である。神武東征は弥生後期の大阪湾の地図が根拠を明示しています。
- 神武は天皇ではなかったという主張がある。
ただしどれもが根拠たり得ない稚拙なものである。
- 『旧唐書』には、倭と日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられ下記のように記されている。神武が征服した東方の小国「日下」が九州倭国を併合したと考えられる。
- 日の辺りに在るを以て、故に日本を以て名となす。
- 日本は旧・小国、倭の地を併す。
欠史八代
九州王朝説の古田武彦は欠史八代は神武天皇以来の近畿分王朝(九州王朝の分家)として実在した、と主張している。
記録が語る王朝交代
九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であるという主張がある。
- 古代国家成立の要件は、常設の政府(官僚機構)、常設の軍隊、首都(都城)等であることとする。これらが畿内地方で揃うのは持統天皇8年(694年)以降であるが、九州には奴国や太宰府などの都城が古代から存在しこれらが揃っていたと考えられる。
- 『魏志倭人伝』の邪馬壹國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州倭国から畿内日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の正史『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定できることとする。[注 30]
- 『新唐書』の時期に、日本の歴史が改竄・捏造されたと考えられることとする。
- 万葉集では、8世紀まで大宰府(倭)を日本とは別の国と認識しているという解釈をする。
- 八隅知之 吾大王乃 御食国者 日本毛此間毛 同登曾念(やすみしし わがおほきみの をすくには にほんもここも おなじとぞおもふ)八方を統べ治めるわが大君のお治めになる国は、日本もここ(大宰府・倭)も同じだと思う(大宰帥 大伴旅人 万6-956)
- 漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すため前王朝の歴史書「正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。ただしこれには『天皇記』や『国記』などの6世紀に編纂された書物のことが考慮されていないので成り立たない。
- 日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州倭国が定めたということにできる「九州年号」(継体元年(517年)-大長九年(712年)下記参照)が多数散見される。「九州年号」も8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定されることとする。
- 日本書紀によると敏達天皇13年(584年)に畿内へ仏教を伝えたのは播磨にいた高句麗の還俗僧の恵便である。584年以前に既に播磨へは仏教が伝来していたということであり、6世紀末播磨は畿内にとって別の文化圏( = 外国)だったということにすることもできる[注 31]。
壬申の乱
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壬申の乱の舞台は九州説
672年の壬申の乱の戦闘があった地域は、九州内であったという主張がある[14]。
- ただ、この時期に平城京の法隆寺も焼失したうえ、後に北魏の様式に再建されているので、乱が全国的に発生していた可能性もある。
- この乱では、大分恵尺・大分稚臣等の九州の豪族が活躍している。また、大海人皇子は九州の豪族である宗像氏の娘(胸形尼子娘)を妃にしていた。東国豪族のことは考慮していないため強引ではあるが根拠とする。
- 大津京は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津(大津町)にあったと考えられることとする。
- 近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近は条坊制の跡と見做せなくはない東西と南北に直交する道等が残る広い平野が存在する。( → 肥後大津付近)
- 滋賀県の瀬田川に架かる瀬田の唐橋は長大で、日本書紀の記述のように壬申の乱で甲を重ねて刀を抜いて突破することは困難であるということにする。しかしこれが大津町瀬田付近の白川に架かっていたとすると橋は短くなり記述とおり突破が可能であるということとする。
- 近江大津では大津京への遷都の理由説明が困難であるということにする。肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍の侵攻に備えた太宰府から内陸部の大津京への首都の疎開である」と説明がつくこととする[15]。
- 大津町の北側の菊鹿盆地は、古代には 茂賀の浦(しかのうら)と呼ばれた巨大な湖が存在していたといわれる。 → 淡海
- 大分県には竹田・ 三重・大野・犬養・佐伯など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。
- 不破の道とは竹田市付近の街道のことと考えられることとする。 → 不破関
- 竹田市には西から道が集まっており、日本書紀の記述どおりに攻めてくる敵の各個撃破が可能であることとする。
- 不破の道とは竹田市付近の街道のことと考えられることとする。 → 不破関
- ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、佐賀県鹿島である。
- 源氏が八幡神を氏神とし祀ったことから、八幡神が軍神とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えられることとする[注 32]。
- 勝敗を決したとされる美濃から来た援軍は畿内日本国が美濃や大和の周辺で招集し九州倭国へ派遣した軍のことと考えられることとする。
- 『日本書紀』に記された立田山や大坂山は九州内の山であり、難波は筑後平野に在ったと考えられることとする。[注 33] → 難波
- 『日本書紀』天武8年(679年)11月条に「初めて関を竜田山、大坂山に置く、よりて難波に羅城を築く」とある。上町台地の難波宮に羅城(城壁)の痕跡は見つかっていない。
- 以下のことから難波(津)は上町台地ではなかったと考えられることとする [2]
- 上町台地北端・道修町高麗橋周辺は平安時代に渡辺津と呼ばれていた。
- 『日本書紀』には、神武が瀬戸内海を経てたどり着いた所は「浪速国・浪花」と記されている。『古事記』でも「浪速」と記している。王仁の故事を無視するならば、大坂市の難波は元は浪花と呼ばれており、難波は後世に人為的に付けられた名前であるとすることができる。
- 仁徳紀に記された「難波の堀江」は、人工的に建設されたものとされる[注 34] が、上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、弥生時代には存在していたことが確認されており、人工的に掘削されたものではない。
- 上町台は、7世紀頃まで大阪湾と河内湖に挟まれた砂洲であり狭小で多くの住民の住めるような土地もなく、ヤマト王権の本拠地である大和から遠く離れた僻地であったので、仁徳天皇が難波高津宮、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮等の宮を置けるような場所ではないということにする。
- 長柄豊碕宮までの「難波」とは筑後川河口(筑後平野)付近に在ったと考えられるということにする。
- 柳川市内には、長柄(北長柄町・南長柄町)という地名が存在し、久留米市内には、高津 という地名も存在する。更に、三潴郡大木町には、大隅(大角)という地名も存在する。また、佐賀市には 鰡江(しくつえ・祝津江)という地名が存在し、古代難波にあった宮の名が全て遺存する。
- 大阪府には、神崎川・大川・柳川町・大木 など筑後川河口にある地名(神埼市・大川市・柳川市・大木町)と同じ地名が存在する。難波の地名の移植に伴い同時に移植されたと考えられることとする。
- 筑後川中流域は、磐井(武烈天皇)が都を置いたという想像をすれば、倭国の中心部であったと考えられる。さらに想像を広げれば、応神天皇、仁徳天皇、欽明天皇、孝徳天皇など歴代の天皇が都を置いたかもしれない。
- 日羅は難波で暗殺され小郡の西畔丘に一旦仮埋葬されたとされる。仮埋葬地の小郡は難波から遠くない所であったと考えられるが、河内国には小郡は存在しない。小郡市があるのは筑後平野である。ただし小郡の地名は当時からあったわけではない。
- 「壬申の乱」終息時に「大伴吹負」が「難波小郡」で「難波以西の国司」達から「官鑰驛鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収している。「壬申の乱」は20日程度で終息しており、もし難波が上町台地であったなら20日程度で遠く離れた九州等の国司達に命令を伝えて上町台地へ集めることは不可能であり、その目的も不明である。しかし、この「難波小郡」が筑後の「小郡」のことなら「難波以西の国」は九州内だけの国司達のこととなり筑後の「小郡」へ集めることが可能であると考えられれば、一応はその目的も敵に協力した国司達の解任との推測が成り立つ。
- 古代筑後川は海が内陸まで入り込み船で中流域まで遡上できたと考えられている。
- 古代難波には八十島といわれるほど、島が多くあったとされるが、河内湖は上町台地に遮られており、島が形成される余地は少なかったと考えられることとする。一方、筑後河口は巨大な三角州であり、陸化の過程で数多くの中州が形成され、有明海は潮の干満の差の大きな海であることから潮が引いた状態では更に多くの州が出現する。
壬申の乱は、易姓革命
以下のことから壬申の乱により、王朝交代(易姓革命)があったと考えられる[16]。
- 『古事記』や『日本書紀』には、同父同母の天智天皇が「兄」で天武天皇が「弟」と書かれているが、天智天皇は天智天皇10年(671年)に46歳で崩御し、天武天皇は天武天皇15年/朱鳥元年(686年)に65歳で崩御しているので天武天皇のほうが4歳天智天皇よりも年上である。また天武天皇は天智天皇の娘を4人も妃にしているので、天武天皇と天智天皇が兄弟であることはない。
- 天武天皇は壬申の乱のおりに、自分を百姓(侠客)上がりの漢の高祖劉邦になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。
- 「天智天皇」は、(殷)最後の暴君とされる(紂王)の愛した「天智玉」に由来し、「天武天皇」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智天皇」・「天武天皇」の諡号は、殷王朝から周王朝への易姓革命を意識して付けられたものである(森鷗外『帝謚考』)。
〈史書の国号改称記事〉
- 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
- 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
- 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
- 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」
- 『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国と畿内日本とは別の国であり、九州が畿内により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである[注 30][注 35]。つまり、倭(九州)と日本(畿内)とは別の国であり、九州倭国が畿内日本により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたと考えられる[注 36]。
- 天皇家の最も重要な祭祀である大嘗祭は、天武天皇2年(673年)まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである。
- 天武天皇2年(673年)8月条に、「詔耽羅使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。
- 漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武天皇10年(681年)である。
- 日本書紀によると天武は、三種の神器の一つである草薙剣に祟られているので、天武は、本来正当な後継者ではなかったと考えられる。
8世紀のヤマト王権
8世紀は異常に多くの反乱やクーデターが発生しており、ヤマト王権は政権が安定していない。
- 神亀6年(729年)長屋王の変(長屋王を藤原氏が暗殺した事件)
- 天平12年(740年)藤原広嗣の乱(藤原四兄弟が天然痘の流行によって全滅。鈴鹿王、橘諸兄が台頭し、失脚した藤原広嗣は大宰府において反乱を起し討伐された。)
- 天平勝宝9歳(757年)橘奈良麻呂の乱(孝謙天皇が藤原仲麻呂を利用して橘諸兄の子奈良麻呂等443人を粛清。)
- 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱(孝謙上皇・道鏡が邪魔になった藤原仲麻呂を粛清しようとした。仲麻呂は軍事力をもって対抗しようとしたが失敗。)
- 神護景雲3年(769年)宇佐八幡宮神託事件(称徳天皇(孝謙天皇)は宇佐八幡宮の託宣により道鏡に皇位を継がせようとしたが、和気清麻呂の妨害で失敗。)
- 神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は天智天皇の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。
- 天応元年(781年)氷上川継の乱(天武天皇の曾孫が計画したクーデタ未遂事件。)
九州倭国の抵抗
九州倭国の抵抗は723年頃まで続いていたと推測できることとする。
防人
防人の配置は、九州倭国制圧のために東国の蝦夷を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられるということにする。
太宰府(倭京)
太宰府は、九州倭国の首都(倭京)であったと考えられることとする[注 37]。
名称
- 「太宰」の本来の意味は宰相(総理大臣)であり、「太宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に解釈することもできなくはない。宋に朝貢していた倭王武は皇帝の最高位の臣(太宰)を自称していた[注 38]。
- 太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていたが、「遠の朝廷」とは「遠くにある首都」という意味であり、遠くとは距離的に遠いだけでなく時間的に遠い、昔の首都という意味である[注 39][注 40]。
- 太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる[注 41]。
- 太宰府政庁跡は2022年でも都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり本来は都督府と呼ばれていた[17]。都督府とは中国の官職である都督に任ぜられた者が居る場所である。7世紀までは全国各地に評督が置かれていたことが判明しているが、評督とは都督の支配管理下にいる者である。
記録の空白
- 『日本書紀』などのヤマト王権の史書に太宰府を何時設置したか記録がない。また都城本体の建設の記録もない。
- 古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が畿内特に大和ではなく、太宰府であった事は明らかである(水城や所在の明瞭な古代山城は、北九州に多い。またヤマト王権に築城の記録が無い古代山城「神籠石(こうごいし)式山城」が北九州から瀬戸内沿岸に存在するが、神籠石式山城の大半も北九州に集中している)。
- 魏志倭人伝によれば、九州には女王国とともに伊都国があり、女王国と大陸との貿易中継点として一大率が置かれ、「京都(魏)・帯方郡・韓諸国への使者、および帯方郡より倭国への使者を取り調べ、その文書・賜物を錯りなく女王に伝送する機能も果たした」ていたとされる。伊都国の地域では大陸との交易が盛んであったことを示す出土品が見つかっており、また帯方郡以前の紀元前1世紀の王墓も見つかっている。
- また一大率は、現在の福岡県西部(糸島)に常駐していたとされ、「女王国以北の周辺諸国の検察を行い諸国に畏憚されたとされている」[18]。女王国が相当に広い範囲を治めることができたにも拘らず滅びたとすれば、交易先の帯方郡が5世紀頃百済に滅ぼされたため、戦馬などが得られなくなって大和国に制圧されたということも考えうる(大和朝廷が豊国を豊前国と豊後国に分割した理由も、良馬がおらず遠距離移動が困難になったためである可能性がある)。
- また、一大率の「率」が大陸の用字であること、のちの豊後国の初代国司陽侯真身が漢語の専門家であることを考えると、律令制以前には、豊国(大分県)に至る地域の言語にも魏(帯方郡)の影響が強かったことが考えられる。
都城
日本最古の都市
- 下記のことから大宰府は、ヤマト王権最古の条坊制都城である藤原京(持統天皇8年(694年))より古い、本格的な計画都市である。
- 条坊の建設は単なる区画化した都市計画事業に過ぎず、城砦や城壁を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である大野城・水城等が築城されたとされる天智天皇3年(664年)には、既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたことになる。
- 7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはなく、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる。
- 竈門神社の社伝では、天智天皇の代に大宰府が現在地に遷された際、鬼門(東北)に位置する宝満山に大宰府鎮護のため八百万の神々を祀ったのが竈門神社の始まりとされる。つまり大宰府は天智天皇の代(天智天皇7年(668年) - 弘文天皇元年/天武天皇元年(672年))にはあったことになる。
- 新羅が西暦250年 - 300年頃には金城を整備し、高句麗も427年に都を平壌に遷している。更に百済は538年に 泗沘都城を建設している。宋の皇帝から安東大将軍に任命され、隋・唐朝時代には天子を自称した倭王が、7世紀末まで都城を建設しなかったとは考えられない。また博多では日本最古の計画都市(奴国)が発掘されている。
- 九州年号に倭京元年(618年)とあることから、この年に建設されたと考えられる。
唐の首都(長安)をモデルとした都市
- 都市の区画割が明らかに唐の長安を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる)。
- ヤマト王権でこのように北に政庁を配置した条坊制の都は、平城京(710年)以降であり、これより46年 - 92年早い。
- ヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったと考えられている。
『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録
- 和銅4年(711年) - 延暦19年(800年)の蓄銭叙位令などが示すように畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『続日本紀』769年(神護景雲3年)10月の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。 この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように太宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。
- 『魏志倭人伝』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。また畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。 国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
- 「新唐書・日本伝」に、「其の王の姓は阿毎氏。自ら言う、初めの主は天御中主と号し、・・・筑紫城に居す。」とあり、 筑紫城 = 大宰府(都府楼)である。
- 『日本書紀』壬申の乱(672年)の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内地方には未だ京と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。
- 『万葉集』に大宰小弐小野老朝臣が天平元年(729年)大宰府に着任した時、饗宴で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府の繁栄を詠ったものであり、大宰府の繁栄を示すものである「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有 あをによし ねいらのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり 万3-238」
測定調査・発掘
- 通説では、約300年にも亘って当初の計画に基づき建設され続けたことになるが、単なる区画整理事業に過ぎず「数か月から数年で可能な条坊の建設に何故300年も要したのか?」「300年にも亘って計画を維持する事が可能か?」・「実施した者の正体は何か?」・「目的は何か?」などの疑問や矛盾が発生する。
- 現在[いつ?]の太宰府の年代測定は、年輪年代測定や放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。水城の築城は、理科学的測定によれば下部は西暦240年、中部は西暦430年、上部は西暦660年で、水城の排水口の木部も西暦430年であったので『日本書紀』の記述等よりも古くなり、太宰府本体も古くなる可能性がある。鴻臚館の便所からはトイレットペーパー代わりに使われた西暦430年の木片も見つかっている。
- 学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、1968年(昭和43年)に太宰府遺跡で竹内理三教授等が発見した焼土層は1600年ほど前の物である。
官僚機構
7世紀末に突如として畿内地方に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。
- 養老律令によれば9,000人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとされるが、飛鳥京には9,000人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も無い。
- ヤマト王権は持統天皇8年(694年)に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、文武天皇5年(701年)に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、7世紀まで日本(畿内)には文字が無かったとされている。
- 奈良時代の下級官僚は薄給であり誤字等に対する罰金制度等があり、妻を質入れするほど困窮する者もあったと記録されている。知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の扱いは極めて劣悪である。
- 下記のとおり『続日本紀』神護景雲3年(769年)10月甲辰の記事にあるように8世紀になっても大宰府では学問で身を立てようと志す者が多かった。
- 大宰府言 此府人物殷繁 天下之一都会也 子弟之徒 学者稍衆 而府庫但蓄五経 未有三史正本 渉猟之人 其道不広 伏乞 列代諸史 各給一本 伝習管内 以興学業 詔賜史記 漢書 後漢書 三国志 晋書各一部
- 大宰府の役人が「この府は人の行き来や交易が盛んで日本で一番大きい都会ですが、府庫には五経しかなく三史がないので、学生や学者が、本が読みたくても本が読めません。伏してお願いします。学業のために列代の諸史を各1冊下さい。」と言上してきたので、天皇の命令で史記、漢書、後漢書、三国志、晋書各一部を賜った。
通貨貨幣経済
次のことから、7世紀以前に無文銀銭や富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和開同珎(和同開珎)等の貨幣を発行したと考えられる。古田史学会報「二つの確証について」
- 西日本を中心に弥生時代の遺跡から秦や前漢の通貨である半両銭、前漢から隋の通貨である五銖銭、新の通貨である貨泉等が多数出土している。
- 魏志倭人伝に「乘船南北市糴(船に乗って南北に出かけて米の買い付けを行う)」・「國國有市、交易有無、使大倭監之(町々には市場があり、交易の有無を位の高い者に監視させている)」とあり倭は交易が盛んであったと記されている。
- 『続日本紀』769年の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也(この府は人の行き来や交易が盛んで、日本一の都会である)」と報告しているように北部九州では8世紀既に経済活動が活発であった。
- 『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の貨幣は和開同珎(慶雲5年/和銅元年(708年))である。しかし、古代日本には和開同珎より以前に無文銀銭や富本銭(天武天皇12年(683年))などの貨幣が存在している。
- 和開同珎等の銅銭でさえ周防国(山口県山口市鋳銭司・下関市長府安養寺町)等の西日本でその多くが鋳造されていた。
- 和同開珎の私鋳銭が蔓延した716年には、朝廷は大宰府に対して材料取引の取り締まりを命じている[19]。
- 九州には古代から博多港・坊津・八代港などがあったが、畿内地方には、外洋航海ができるような大型商船が着岸できる貿易港は、平清盛が12世紀に大輪田泊(神戸港)を整備するまで無かった。
- 蓄銭叙位令(和銅4年(711年) - 延暦19年(800年))などが示すように畿内地方では8世紀になっても通貨経済は未発達であった。畿内地方で通貨経済が発展するのは、12世紀に平清盛によって多量の宋銭が輸入されてからである。
万葉集
『万葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである[20]。代表的歌人でありながら正体不明な「柿本人麻呂」や「額田王」等は九州倭国縁の人物である。山上憶良等も元は九州倭国の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。
九州の歌である
万葉集の古い歌の殆どは九州で詠まれたものである。
- 7世紀以前の畿内ヤマトでは文字が普及しておらず、歌などの記録の保存が難しかったと考えられる。
- 太宰府(九州倭国)の花は梅、畿内日本の花は桜や菊である、万葉集では梅118首、桜40首が詠まれ、菊は1首も詠まれていない。
- 万葉集では北朝で使われた「紅葉」ではなく九州倭国が朝貢した南朝で使われた「黄葉」が多く使われている。
- 古代の河内地域には、巨大な河内湖(草香江)があり雄大な景色が広かってたと考えられるが、7世紀頃には陸化により消滅したといわれている。河内湖は瀬戸内海から大和への通り道であり古代人は頻繁にこれを通ったと考えられ、これを観たり通った古代人が歌を詠まないはずが無いが、万葉集にはこの雄大な河内湖そのものを詠んだ歌や船で河内湖を行く歌が存在しない。
- 万葉集には「白村江の戦」に関する歌が無い。「白村江の戦」は九州倭国が主体として戦ったものであることを隠すために残されなったものである。
香具山
- 万葉歌では香具山から見える鴎を詠った歌(万1-2)があるが、奈良県の香具山からは海は見えない。また標高が152.4メートルしかなく奈良県の山々の中で際立っているとは言い難い。
吉野山
万葉集の吉野山は吉野ヶ里背面の山。
- 『日本書紀』によれば持統天皇は、持統3年(689年)1月から持統11年(697年)4月までの間に、31回も吉野に行幸している。これは、34年前の白村江の戦直前の九州倭国の天子の軍事的目的を持った佐賀県吉野への視察記事から盗用されたものである(部隊は機密保持のため有明海に集結し、有明海 → 五島列島 → 韓のコースを辿ったと考えられる)[21]。
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