九州王朝説論者の間の論争点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)
「九州王朝説」の記事における「九州王朝説論者の間の論争点」の解説
九州王朝説論者は古田が主唱者ではあるが、学術論文の形をとっていないアマチュアの研究発表を含めると数々の異説が存在する。その主な論点を記す。 神武東征説話の信憑性 古田は「神話はリアルである」と述べて、神武東征伝承は基本的に信用できるとした。そして九州王朝の王子であった神武天皇が弥生後期に大和盆地に侵入し、九州王朝の分王朝としての近畿天皇家の創始者となったとしている。 これについて、九州王朝説論者の中には神武天皇非実在説や神武・崇神同一人物説を唱える者もいる。古田史学の会の代表である古賀達也は神武天皇の実在は認めつつ、その説話の中には九州王朝の天孫降臨説話からの盗用があるとしている。 近畿天皇家の存在について 古田の九州王朝説は多元王朝説の一環として主張されたものであり、近畿天皇家の存在自体を否定するものではなかった。むしろ神武天皇や欠史八代、神功皇后の実在を認める点では戦後の津田史学よりも古田史学の方が記紀の伝承を尊重しているとさえ言えた。 だが、近畿天皇家の伝承のほぼすべてを九州王朝(や、豊前の分王朝)からの盗用とする主張や、応神天皇以降の歴史のみが近畿天皇家の歴史であるというもの、景行天皇・応神天皇・仁徳天皇・継体天皇・欽明天皇等の数多くの天皇が実際には九州王朝の天皇であったとするものも存在している。なお、近畿天皇家の天皇の一部が実際には近畿ではなく九州に存在していたとする説は九州王朝説論者以外に水野祐や坂田隆も主張していたが、こうした主張を古田は否定していた(水野の主張は『盗まれた神話』で、坂田の主張は「記・紀批判の方法 --坂田隆氏の問いに答える」で、それぞれ批判している)。 いき一郎は日本書紀は藤原不比等による創作であり、関西に存在したのは近畿天皇家ではなく扶桑国であると述べている。これについて古田は対案として「扶桑国関東説」を示唆しつつ、近畿天皇家自体が存在しなかったという主張には同意することはなかった。 狗奴国の位置 古田は当初狗奴国讃岐説を主張していたが、後に狗奴国近畿説に転向した。こうした古田自身の主張の変遷もあり、狗奴国の位置については九州王朝説論者の間でも意見が分かれる。 従来の邪馬台国九州説論者同様、狗奴国の位置を邪馬台国(邪馬壱国)の南方である南九州に比定する論者も存在する。 前期難波宮の位置付け 前期難波宮は7世紀における太宰府と並ぶ条坊都市である。古田は前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないことを主張していたが、では前期難波宮は何の遺跡であるのか、については明確な答えを出さなかった(古田は難波長柄豊碕宮は博多湾岸にあり、そこに白村江の戦い直前に九州王朝の呼びかけに応じてその分王朝である近畿天皇家のメンバーも終結していた、とした)。 古賀達也は前期難波宮は前後の時代の近畿天皇家の宮殿との連続性が見られないこと、むしろ太宰府と似ている部分があること、前期難波宮の造営・焼失の年代と九州年号の改元が一致していること、等を根拠に「前期難波宮九州王朝副都説」を提唱した。これについは古田史学の会の内部でも議論がある。 聖徳太子について 古田は聖徳太子架空説を述べていないが、一般に聖徳太子の業績とされる遣隋使は実際には九州王朝が派遣したものであること(聖徳太子は遣唐使を派遣した)、法華義疏は聖徳太子の真筆ではなく九州王朝の上宮法皇が「収集」したものであること(聖徳太子と同年代の作であれば天台大師等の6世紀末・7世紀初頭の僧侶の説が反映されていない、法華義疏の奥付に切り取られた跡がある、等の不審な点を説明できない)、を始め聖徳太子の伝承の多くは後世による造作であったり別人物の業績からの盗用であるとした。 これを受けて聖徳太子関連の業績のほぼ全てを九州王朝からの盗用とする論者や、聖徳太子架空説を主張する論者も存在する。
※この「九州王朝説論者の間の論争点」の解説は、「九州王朝説」の解説の一部です。
「九州王朝説論者の間の論争点」を含む「九州王朝説」の記事については、「九州王朝説」の概要を参照ください。
- 九州王朝説論者の間の論争点のページへのリンク