やすだ‐ゆきひこ【安田靫彦】
安田靫彦
安田 靫彦 (やすだ ゆきひこ)
1884〜1978 (明治17年〜昭和53年) |
【日本画家】 歴史画の傑作を残す。「飛鳥の春の額田王」は、日本画写実の一つの頂点。 |
大正・昭和期の日本画家。東京都出身。本名新三郎。14歳で小堀鞆音(ともと)に師事。門下生と結成した紫紅会を、1901年(明治34)紅児会に改称して東京美術学校中退。1914年(大正3)日本美術院再興に参加。日本画の伝統的技法とモダンなスタイルで歴史画の傑作を残した。帝国美術院会長、東京美術学校教授。法隆寺金堂壁画模写、同再現模写を監修。作品「風神雷神」「飛鳥の春の額田王」。 |
年(和暦) |
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●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 5才 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 10才 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 19才 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 20才 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 23才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 26才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 34才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 39才 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 44才 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 48才 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 | 52才 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 | 57才 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 | 61才 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 | 62才 |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 | 67才 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 | 69才 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 | 72才 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 | 76才 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 | 76才 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック | 80才 |
●1968年 (昭和43年) | ■GNP世界第2位に | 84才 |
●1970年 (昭和45年) | ■大阪で万国博覧会 | 86才 |
●1971年 (昭和46年) | ■環境庁設置 | 87才 |
●1973年 (昭和48年) | ■第1次オイルショック | 89才 |
●1976年 (昭和51年) | ■ロッキード事件 | 92才 |
●1978年 (昭和53年) | ■日中平和友好条約 | 94才 |
●1978年 (昭和53年) | ■成田空港開港 | 94才 |
・寺田 寅彦 | 1878年〜1935年 (明治11年〜昭和10年) | +6 |
・大河内 正敏 | 1878年〜1952年 (明治11年〜昭和27年) | +6 |
・吉田 茂 | 1878年〜1967年 (明治11年〜昭和42年) | +6 |
・有島 武郎 | 1878年〜1923年 (明治11年〜大正12年) | +6 |
・鏑木 清方 | 1878年〜1972年 (明治11年〜昭和47年) | +6 |
・永井 荷風 | 1879年〜1959年 (明治12年〜昭和34年) | +5 |
・大正天皇 | 1879年〜1926年 (明治12年〜昭和元年) | +5 |
・市川 左団次二世 | 1880年〜1940年 (明治13年〜昭和15年) | +4 |
・石井 柏亭 | 1882年〜1958年 (明治15年〜昭和33年) | +2 |
・福原 信三 | 1883年〜1948年 (明治16年〜昭和23年) | +1 |
・高村 光太郎 | 1883年〜1956年 (明治16年〜昭和31年) | +1 |
・鳩山 一郎 | 1883年〜1959年 (明治16年〜昭和34年) | +1 |
・石橋 湛山 | 1884年〜1973年 (明治17年〜昭和48年) | 0 |
・東条 英機 | 1884年〜1948年 (明治17年〜昭和23年) | 0 |
・三浦 環 | 1884年〜1946年 (明治17年〜昭和21年) | 0 |
・武者小路 実篤 | 1885年〜1976年 (明治18年〜昭和51年) | -1 |
・平塚 らいてう | 1886年〜1971年 (明治19年〜昭和46年) | -2 |
・山田 耕筰 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | -2 |
・谷崎 潤一郎 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | -2 |
・松旭斎 天勝 | 1886年〜1944年 (明治19年〜昭和19年) | -2 |
・柳 宗悦 | 1889年〜1961年 (明治22年〜昭和36年) | -5 |
・古今亭 志ん生 | 1890年〜1973年 (明治23年〜昭和48年) | -6 |
・山川 菊栄 | 1890年〜1980年 (明治23年〜昭和55年) | -6 |
安田靫彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/02 01:05 UTC 版)
安田 靫彦 | |
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![]() 1953年頃の安田 | |
生誕 |
安田 新三郎 1884年2月16日 ![]() |
死没 |
1978年4月29日(94歳没)![]() |
国籍 | 日本 |
教育 | 小堀鞆音 |
著名な実績 | 日本画、能書 |
受賞 | 朝日文化賞『黄瀬川の陣』(1940年)、文化勲章(1948年)、文化功労者(1951年) |
安田 靫彦(やすだ ゆきひこ、本名:安田 新三郎、1884年〈明治17年〉2月16日 - 1978年〈昭和53年〉4月29日)は、大正から昭和期にかけての日本画家、能書家。東京美術学校教授。東京府出身。日本芸術院会員。文化勲章受章。文化功労者。
靫彦は前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。また靫彦自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫した。
略歴
靫彦は1884年、東京日本橋の料亭「百尺」の四男として生まれた。1897年、帝室博物館で法隆寺金堂壁画等の模写を見、日本絵画協会絵画共進会にて横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品に感動し、画業を決意した。1898年より小堀鞆音に師事する。青邨らと共に紫紅会(後、偶々同じ「紫紅」を名乗っていた今村紫紅も参加し紅児会)を結成、東京美術学校に進むも中退した。後に岡倉覚三(天心)に認められ、1907年に日本美術院に招かれた。院展の初回より作品を出品し、再興院展にても尽力。肺病に悩まされながらも晩年まで制作を続けた。1974年(昭和49年)の『鞍馬寺参籠の牛若』が靫彦の院展出品の最後になった。 1978年神奈川県大磯町にて没し、墓所は大磯の大運寺にある。
1934年(昭和9年)12月3日帝室技芸員となる[1]。1935年から多摩美術大学美術学部で教授、顧問として教えていた。[2][3]
1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出。しかし翌年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーらとともに会員を辞す[4]。 1937年(昭和12年)には帝国美術院が発展的改組した帝国芸術院の会員となり、 この年から始まった新文展の審査員に就任[5]。 1944年(昭和19年)東京美術学校教授となり、1948年(昭和23年)に文化勲章を受章。1958年、財団法人となった日本美術院の初代理事長となった。1959年(昭和34年)宮中歌会始の召人(勅題「窓」を詠進)。1965年(昭和40年)東京芸術大学名誉教授となる。東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任した。なお靫彦の門下に小倉遊亀、森田曠平、益井三重子、岩橋英遠らがいた。
初代中村吉右衛門とは同年で親しく、実兄に吉右衛門一座に在籍した五代目中村七三郎がいる。墓所は大磯町大運寺。
代表作品
- 「夢殿」(1912)(東京国立博物館) 聖徳太子の瞑想に取材。
- 「御産の祷」(1914)(東京国立博物館) 紫式部日記の中宮藤原彰子の安産祈祷場面を描く。再興院展の第一回に出品。
- 「五合庵の春」(1920)(東京国立博物館) 良寛にちなんだ作品。
- 「月の兎」(1934)(愛知県美術館) 孫武の婦人兵を鍛える場面を描く。第二回新文展に出品。
- 「孫子勒姫兵」 (1938) (霊友会妙一記念館)
- 「黄瀬川陣」(1940-41)(東京国立近代美術館) 黄瀬川の陣における頼朝義経兄弟の再会の場面を描く。まず左隻の義経が、翌年右隻の頼朝が描かれ六曲一双の大作として完成した。これらの中でも一番の代表作で、2011年重要文化財に指定された。
- 「王昭君」 (1947)
- 「窓」(1951)(横浜美術館)
- 「黎明富士」(1962)(川崎市市民ミュージアム)
- 「飛鳥の春の額田王」(1964)(滋賀県立近代美術館)
- 「卑弥呼」(1968)(滋賀県立近代美術館)
- 「草薙の剣」(1973)(川崎市市民ミュージアム)
画集
- 『靫彦』小高根太郎編集並解説 講談社版アート・ブックス 1955
- 『安田靫彦画集』中央公論美術出版 1965
- 『自選安田靫彦画集』朝日新聞社 1971
- 『現代日本美術全集 14 安田靫彦』今泉篤男解説 集英社 1974
- 『日本の名画 25 安田靫彦』水沢澄夫編著 講談社 1974
- 『安田靫彦』三彩社 1975
- 『川端康成全集装画帖』中央公論美術出版 1976
- 『日本の名画 14 安田靫彦』編集:久富貢 中央公論社 1976
- 『安田靫彦写生集』正続 中央公論美術出版 1979
- 『安田靫彦の書』中央公論美術出版 1979
- 『現代日本絵巻全集 8 小林古径・安田靫彦』竹田道太郎解説 小学館 1983
- 『日本画素描大観 4 安田靫彦』佐々木直比古編集解説 講談社 1984
- 『巨匠の日本画 安田靫彦 永遠の女性像』橋秀文編 学習研究社 1994
- 『安田靫彦』新潮日本美術文庫 1998
著作
- 『小堀鞆音歴史画素描集』美術思潮社 1943
- 『高麗集 自筆歌帖』中央公論美術出版 1975
- 『画想』中央公論美術出版 1982
- 『安田靫彦の書簡』加藤僖一編著 創作舎 1983
- 重田哲三『座談五十年 靫彦先生の話』中央公論美術出版 1989
関連書籍
- 竹田道太郎『安田靫彦 清新な美を求め続けた日本画家』中央公論美術出版 1988
脚注
- ^ 『官報』第2378号、昭和9年12月4日。
- ^ http://www.shiro1000.jp/tau-history/1935/professor.html
- ^ http://www.shiro1000.jp/tau-history/kaminoge/professor.html
- ^ 再改組に反対の大観ら銃四人が辞任『東京日日新聞』昭和11年6月13日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p414-415 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 審査員の顔ぶれ内定『東京朝日新聞』昭和12年7月27日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p665)
資料
『安田靫彦』新潮日本美術文庫34 ISBN 4-10-601554-4 本稿略歴の底本
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