マーシャル・プラン 年表

マーシャル・プラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/02 01:14 UTC 版)

年表

前史

ポツダム会談に臨む米英ソの首脳
  • 1946年
    • 1月1日 - イングランド銀行国有化
    • 2月22日 - ケナン、ワシントンに「長文電報」を送信
    • 3月5日 - イギリスのチャーチル首相がウェストミンスター大学で演説。共産主義勢力が鉄のカーテンを越えて西欧への浸透を図っていると警告
    • 3月28日 - 連合国ドイツ管理理事会、ドイツ産業水準計画こと「賠償と戦後ドイツ経済の水準のための計画 (The Plan for Reparations and the Level of Postwar German Economy) 」を発表。ドイツ全体の産業規模を1938年水準の55パーセント以内に留め置くことを規定した。
    • 3月 - 英国、産業国有化を開始( - 1949年5月)
    • 4月8日 - フランス、電力・ガス産業を国有化
    • 4月20日 - 国務省欧州経済安全保障政策部が「アチソン=クレイトン・プラン」をバーンズ国務長官に提出。ヨーロッパ経済の復興と統合を両立するため、全欧州経済機構の設立を提唱
    • 9月6日 - バーンズ、シュトゥットガルトで「ドイツ政策の見直し (Restatement of Policy on Germany) 」と題して演説
    • 9月19日 - チャーチル、チューリッヒ大学で演説。「われわれは、ある種の欧州合衆国を樹立しなければならない」と主張
    • 9月 - ギリシャで内戦開始
    • 12月2日 - アメリカとイギリスがドイツ国内のイギリス・アメリカ占領区域の統合協定を締結。翌年1月1日に統合占領区域(いわゆる「バイゾーンが成立した。
    • 12月21日 - ギリシャのツァルダリス首相がアメリカを訪問し( - 12月24日)、5年間に12億4600万ドルの復興援助を供与するよう要請した。
  • 1947年
    • 1月17日 - 国務長官顧問ジョン・フォスター・ダレスが全米出版協会で演説した。ドイツの戦後処理に関連して、ヨーロッパの経済統合を提唱[注釈 42]
    • 1月17日 - 欧州統合委員会発足。チャーチル、委員長に就任
    • 1月21日 - マーシャル、国務長官に就任
    • 1月22日 - フランスでポール・ラマディエ内閣が成立し、モネ・プランが実施した。
    • 2月21日 - イギリス、対ギリシャ・トルコ援助の停止をアメリカに通告した。
    • 2月24日 - 援助停止通告、正式にマーシャルに通達。同日、国務省内にギリシャ・トルコ援助検討特別委員会を設置
    • 2月25日 - ギリシャ・トルコ援助検討特別委員会、『対ギリシャ・トルコ緊急援助に関する国務省の立場と勧告』をアチソンに提出した。
    • 2月26日 - 国・陸・海3省長官会議を開催
    • 2月27日 - トルーマン、有力議員らと対ギリシャ・トルコ援助について会談
    • 3月1日 - 国際通貨基金 (IMF)、操業を開始
    • 3月5日 - アチソン、世界規模の援助の必要性を3省調整委員会に説明
    • 3月10日 - 米英仏ソ4国外相会談をモスクワで開催( - 4月24日
    • 3月11日 - 第55回3省調整委員会開催。3省調整特別委員会の設置などを決議
    • 3月12日 - トルーマン、上下両院合同会議に出席。トルーマン・ドクトリンを発表
    • 3月14日 - ベネルクスが関税同盟を締結
    • 3月17日 - 米英仏ソ4国外相会談で、ソ連がドイツに200億ドルの賠償を要求
    • 3月18日 - フーヴァー使節団、ドイツ・オーストリア問題に関する報告書「アメリカの納税者を救援負担から解放するためのドイツの輸出促進と、欧州の経済復興とのために必要な諸措置 (The Necessary Steps for Promotion of German Exports, so as to Relieve American Taxpayers of the Burdens of Relief and for Economic Recovery of Europe) 」を提出
    • 3月18日 - 外国政府援助拡充委員会が初の会合を開催
    • 3月21日 - 米英仏ソ4国外相会談で、マーシャルがドイツの政体を連邦制とする構想を発表
    • 3月22日 - 米英仏ソ4国外相会談で、モロトフがドイツの政体を中央集権制とする構想を発表
    • 3月28日 - 国務省、「ギリシャ・トルコ援助法案に関する質問と回答」を議会に提出
    • 4月8日 - 第2回国際貿易雇用会議準備委員会をジュネーヴで開催( - 10月30日:18か国が参加、ソ連は欠席)[96][97]。同時に、多角的関税引き下げ交渉開始(23か国が参加、ソ連は欠席)
    • 4月15日 - マーシャル、スターリンと会談
    • 4月21日 - 3省調整特別委員会、中間報告「米国による対外援助の政策・手続き・費用 (Policies, Procedures and Costs of Assistance by the United States to Foreign Countries) 」を提出
    • 4月22日 - ギリシャ・トルコ援助法、上院で採決。賛成67票、反対23票
    • 4月23日 - 米英仏ソ4国外相会談で、ライヒスマルクドイツ・マルクと交換回収する協定成立。交換比率は10対1
    • 4月28日 - マーシャル、ラジオ放送で4国外相会談の結果を報告
    • 4月29日 - マーシャル、欧州復興計画の策定をケナンに指示
    • 5月2日 - 第1回国際連合ヨーロッパ経済委員会 (ECE)、ジュネーヴで開催( - 5月14日
    • 5月4日 - フランスのラマディエ首相がルノーの労働争議問題に絡み、意見の対立した5名の共産党員閣僚を全員罷免した。
    • 5月5日 - 政策企画本部 (PPS) 発足(7日に公表)。ケナン、本部長に就任
    • 5月6日 - ケナン、国防大学で講演。援助対象を西ヨーロッパ欧に限定するよう主張
    • 5月6日頃 - 投資・経済開発部部長補佐クリーヴランド、通商政策部部長補佐ベン・T・ムーア、ドイツ・オーストリア経済問題部部長キンドルバーガーら経済官僚、西ヨーロッパ援助に関する覚書をケナンに提出。ECEを援助実施機関とし、ヨーロッパの統合を促進させる案を勧告
    • 5月8日 - アチソン、クリーヴランドで「再建の必要条件」と題して演説
    • 5月15日 - ギリシャ・トルコ援助法案、下院で採決。賛成287票、反対108票
    • 5月16日 - PPS、西欧援助計画に関する覚書をアチソンに提出
    • 5月22日 - ギリシャ・トルコ援助法成立
    • 5月23日 - 政策企画本部、報告書「アメリカの西ヨーロッパ援助に関する政策―政策企画本部の見解を提出した。
    • 5月27日 - クレイトン、覚書「ヨーロッパの危機 (The European Crisis) 」を提出
    • 5月28日 - 国務省首脳会議開催
    • 5月29日 - マーシャル、国務長官特別補佐官ボーレンに演説文の起草を下命
    • 5月30日 - イタリアのデ・ガスペリ首相、共産党員を排除した内閣改造を実施。第4次デ・ガスペリ内閣が成立した。
    • 5月31日 - 戦災諸国救済援助法(通称「ポストUNRRA援助法」)成立。被援助国に見返り資金の積み立てを初めて義務付ける

ハーヴァード演説以後

  • 1947年
    • 6月5日 - マーシャル、ハーヴァード大学で演説。マーシャル・プランの構想を発表
    • 6月12日 - マーシャル、6月5日の演説で述べた「欧州」という言葉について、「英国もソ連も含めている」と記者会見で言明
    • 6月12日 - クリーヴランドら経済官僚、最終報告を提出
    • 6月13日 - ヴァンデンバーグ、上院共和党政策委員会 (Senate Republican Policy Committee) で、米国の援助負担を調査するための超党派委員会の設置を提案
    • 6月17日 - 英仏首脳会談をパリで開催( - 6月18日
    • 6月18日 - クレイトン、超党派委員会の設置を呼び掛けるヴァンデンバーグの主張に賛同
    • 6月19日 - 政策企画本部文書第3号 (PPS3) 提出。超党派委員会について、政府内の委員会2つと政府外の委員会1つを設置することを勧告
    • 6月22日 - 米国政府、クルーグ、ノース、ハリマンの3名を長とする3委員会の設置を発表
    • 6月22日 - ウォーレス、記者会見でマーシャル・プランに賛同
    • 6月24日 - クレイトン、ロンドンでアトリーら英国主要閣僚と会談( - 6月26日)。英国の特殊事情を汲んで特別の財政支出をするよう求めるが、クレイトンは拒絶
    • 6月27日 - 英仏ソ3国外相会談をパリで開催( - 7月2日)。7月2日、ソ連がマーシャル・プラン受け入れを拒絶
    • 7月1日 - マーシャル、全米女性記者クラブで会見。マーシャル・プランは欧州支配を目論む米国の帝国主義的政策であるといった見解は誤りであると主張
    • 7月3日 - 英仏両国、共同コミュニケを発表
    • 7月4日 - チェコスロヴァキアが欧州復興会議への参加(マーシャル・プランの受け入れ)を表明
    • 7月9日 - ポーランド、欧州復興会議への不参加を表明
    • 7月10日 - チェコスロヴァキア、マーシャル・プラン受け入れ表明を撤回
    • 7月11日 - 統合参謀本部 (JCS)、マーシャル・プラン発表に伴いドイツと欧州の同時復興を目指すとする、政策指令「JCS1179」を発令
    • 7月12日 - 第1回欧州復興会議をパリで開催、16か国が参加。13日、欧州経済協力委員会 (CEEC) を設立
    • 7月12日 - 米英占領当局、ドイツ新産業水準計画について基本合意。フランスの反発によって公表を延期
    • 7月12日 - ソ連、チェコスロヴァキアとの間に相互通商協定を締結
    • 7月12日 - アメリカがトルコとの間との援助協定に調印した。
    • 7月15日 - イギリスが英米金融協定に基づきポンドの交換性回復を宣言した(8月20日に停止)
    • 7月20日 - ウォーレス、マーシャル・プランへの支持撤回を表明
    • 7月21日 - マーシャル、ドイツ工業復興政策の遂行に関し、フランスとの合意が得られるまで一時延期するとビドーに打電[98]
    • 7月22日[99] - 下院、対外援助特別委員会 (Select Committee on Foreign Aid) を設置。ハーターが委員長に就任
    • 7月23日 - 政策企画本部、報告書「アメリカの立場から見た西ヨーロッパ復興問題の諸様相」を提出した。
    • 7月23日 - 国務省、援助計画からポーランドを除外すると発表
    • 7月23日 - ハリマン委員会、第1回会合を開催( - 7月24日
    • 7月31日 - 『フォーリン・アフェアーズ』誌、ケナンの論文「ソヴィエトの行動の源泉(いわゆる「X論文」)」を掲載
    • 8月14日 - 国務次官ロヴェット、生産問題解決のために援助計画参加諸国が共同で商品の割当てや計画的増産などを行う必要があるとパリのクレイトンらに打電[100](クレイトンは、カルテルなどの強まりを懸念してこれに難色を示した)
    • 8月14日 - 政策企画本部、報告書「欧州復興計画における時間的制約」を提出
    • 8月22日 - 米英仏3国会談、ロンドンで開催。ビドー、ドイツ新産業水準計画を呑む
    • 8月22日 - 国務省首脳会議開催。生産問題解決のための一時的な商品割り当て策に反発したクレイトンの見解について、国務省の総意に反するとの立場を確認。パリのクレイトンの許にケナンを派遣することを決定[101]
    • 8月26日 - ケナン、パリに到着。22日の国務省首脳会議で出された見解を元に、クレイトンと政策調整
    • 8月29日 - 米英占領当局、7月に合意したドイツ新産業水準計画を発表
    • 8月30日 - 国務省・陸軍省首脳会議
    • 8月30日 - ケナン、CEEC首脳と会談。援助要求額の削減と欧州協同組織の設立を要請
    • 9月5日 - 国・陸両省、ドイツの米英統合占領区域の経済計画がCEECで論議されるべきであるとの認識で合意
    • 9月12日 - CEEC、欧州関税同盟創設のための調査団を結成したと発表
    • 9月13日 - フランスの外務官僚アルファン、西欧に関税同盟を創設するようCEECに提案。イタリアが賛同
    • 9月22日 - CEEC、一般報告を欧州復興会議の全体会議に提出、可決
    • 9月25日 - トルーマン、CEEC報告書の一部修正の可能性と、緊急援助の必要性について記者会見で言及
    • 9月27日 - CEEC報告書、ワシントンで公表
    • 10月3日 - 3省調整特別委員会、最終報告を提出
    • 10月19日 - クルーグ委員会、報告書「国家的資源と対外援助」を提出
    • 10月23日 - トルーマン、特別議会を招集
    • 10月30日 - 「欧州復興を支援するためのマーシャル・プラン委員会」設置。スティムソン元陸軍長官が全国委員長に就任した。
    • 10月30日 - 「関税及び貿易に関する一般協定 (GATT) 」成立
    • 10月31日 - 国務省、CEECの専門報告を発表
    • 10月 - ベネルクス関税同盟結成
    • 11月6日 - 政策企画本部、報告書「世界情勢の摘要」をマーシャルに提出[102]
    • 11月7日 - ハリマン委員会、報告書「ヨーロッパ復興とアメリカの援助 (European Recovery and American Aid) 」を発表
    • 11月10日 - 第1回欧州関税同盟調査委員会開催
    • 11月10日 - 国務省がフランス・イタリア・オーストリアへの暫定援助を上下両院外交委員会に提案した。
    • 11月11日 - ノース委員会、報告書「国内経済に及ぼす対外援助の影響 (The Impact of Foreign Aid upon the Domestic Economy) 」を提出
    • 11月13日 - 対外援助特別委員会、報告書を提出
    • 11月17日 - 第26回特別議会開会。トルーマン、5億9700万ドルの暫定援助法案を議会に提出
    • 11月18日 - フランス・イタリア・、ベネルクスの5か国、第1次多角的通貨相殺協定 (First Agreement on Multilateral Monetary Compensation) に調印
    • 11月18日 - マーシャル、シカゴで演説。ドイツの復興なくしてはヨーロッパの復興はあり得ないと発言
    • 11月24日 - 欧州中間援助法案提出
    • 11月24日 - イリノイ州選出下院議員ヴァーゼル、政府が要請する援助だけでは共産主義の欧州浸透を防げないとして、ドイツの工場破壊の即時中止を主張
    • 11月25日 - 米英仏ソ4国外相会談をロンドンで開催( - 12月15日
    • 12月1日 - 欧州中間援助法案、上院で採決。賛成83、反対6、棄権7
    • 12月11日 - 欧州中間援助法案、下院で口頭採決。賛成多数
    • 12月11日 - ソ連とチェコスロヴァキア、通商条約に調印
    • 12月15日 - 上下両院、両院合同委員会の提出した中間援助法調整案を可決
    • 12月16日 - 中間援助支出法案、下院に上程、可決
    • 12月17日 - トルーマン、中間援助法案改め1947年対外援助法 (Foreign Aid Act of 1947) に署名
    • 12月19日 - 第26回特別議会最終日。トルーマン、特別教書「欧州復興計画の概要」を議会に提出
    • 12月19日 - 欧州中間援助法に伴う支出法案、上院に上程、可決
    • 12月19日 - 上下両院、両院合同委員会の提出した中間援助支出法調整案を可決
  • 1948年
    • 1月1日 - ベネルクス関税同盟が発効
    • 1月2日 - 米仏、中間援助に関する双務協定を締結
    • 1月6日 - 第80議会第2会期開会。マーシャル・プランに関する審議を開始
    • 1月7日 - トルーマン、一般教書を議会に提出。対日独墺講和問題の解決に向けて努力すると言明すると共に、15か月間の対西欧援助費68億ドルを要請
    • 1月22日 - イギリスのベヴィン外相、「西欧連合 (Western Union) 」の結成を提唱
    • 1月26日 - ソ連とポーランド、通商協定を締結
    • 2月23日 - 1948年経済協力法案提出
    • 2月23日 - 西側6か国(米、英、仏、ベネルクス)首脳会談(第1会期)をロンドンで開催( - 3月6日)。3月8日、西部ドイツの援助計画参加を承認するコミュニケを発表
    • 2月24日 - ウォーレス、下院外交委員会で証言。マーシャル・プランに反対し、国連機関を通じて10年間に500億ドルの援助を供与するよう主張
    • 3月1日 - ヴァンデンバーグ、上院で演説。ハリマン委員会報告の重要性を指摘
    • 3月10日 - 西欧労働組合会議、ロンドンで開催。マーシャル・プランの是非について審議[103]
    • 3月11日 - トルーマン、仏伊墺への中間援助5500万ドルを議会に要請
    • 3月13日 - 対外援助法案、上院で採決。賛成69、反対19
    • 3月15日 - 第2回欧州復興会議をパリで開催( - 3月16日)。西部ドイツ代表の参加を決定
    • 3月15日 - マーシャル、イタリア総選挙で共産党が勝利した場合、同国への援助を打ち切ると警告
    • 3月17日 - トルーマン、上下両院合同会議に出席し、特別教書を議会に提出。欧州の平和がソ連の妨害によって脅かされているとして、選抜徴兵法の復活や欧州復興計画の早期実施の必要性を主張
    • 3月17日 - 英、仏、ベネルクスが西欧連合条約(ブリュッセル条約:北大西洋条約の母体)に調印
    • 3月19日 - 下院外交委員会、対外援助法案を可決
    • 3月23日 - 国際貿易機関 (ITO) 憲章、ハバナで調印
    • 3月31日 - 対外援助法案、下院で採決。賛成329、反対74
    • 4月1日 - 両院合同委員会、対外援助法調整案を策定
    • 4月1日 - ソ連、西部ドイツと西ベルリンとの陸上交通規制を強化。ベルリン封鎖開始
    • 4月2日 - 上下両院、対外援助法調整案を可決
    • 4月2日 - トルーマン、スペインのマーシャル・プラン参加を拒絶

1948年経済協力法成立以後

  • 1948年
    • 4月3日 - トルーマン、1948年経済協力法に署名
    • 4月5日 - 国際通貨基金、マーシャル・プラン参加国へ融資をしない旨を決定(ERP決定)
    • 4月6日 - 米国、経済協力局(ECA)を設置。ホフマンを長官に任命
    • 4月15日 - ECA、第1回対仏援助を実施
    • 4月16日 - CEEC参加16か国西部ドイツ、欧州経済協力機構 (OEEC) 条約に調印
    • 4月18日 - イタリアで総選挙実施。キリスト教民主党が勝利
    • 4月20日 - 西側6か国首脳会談(第2会期)をロンドンで開催( - 6月1日)。ドイツの米英仏占領区域の統合憲法作成を決議
    • 4月21日 - ハリマン、ECAの欧州組織代表に就任
    • 6月 - 米国、被援助国との間に援助に関する2国間協定を順次締結( - 7月)
    • 6月3日 - 下院歳出委員会、対外援助支出法を可決
    • 6月4日 - 下院、対外援助支出法を可決
    • 6月15日 - 上院、対外援助支出法修正案を可決
    • 6月19日 - 両院合同委員会、対外援助支出法調整案を策定。同日、上下両院で可決
    • 6月20日 - ドイツの米英仏占領区域で通貨改革を実施。ライヒスマルクに替えて、ドイツ・マルクを導入
空輸物資を載せてテンペルホーフ国際空港に降り立つC-54輸送機と、それを迎える西ベルリン市民
    • 6月23日 - ソ連、西部ドイツと西ベルリンとの陸上交通を全面遮断
    • 6月28日 - トルーマン、対外援助支出法に署名
    • 6月28日 - 米仏、援助に関する二国間協定を締結
    • 7月2日 - 米墺、援助に関する二国間協定を締結。援助額420億シリング[104]
    • 7月20日 - ウォーレス、民主党を離党して第3党(のちの進歩党)を結成し、大統領選に出馬すると宣言。マーシャル・プランとの全面対決を表明
    • 7月25日 - 第1回OEEC総会、パリで開催。欧州内決済協定計画を可決
    • 10月16日 - OEEC理事会、第1次欧州域内決済・相殺協定 (Agreement for lntra-European Payments and Compensation for 1948-1949) に調印。域内決済の初年度計画欧州援助の各国別割当案を米国へ提出
    • 10月18日 - 米英仏、ドイツ占領区域の貿易統合で合意。11月1日実施
    • 10月25日 - ホフマン、経済協力法第115条第f項に基づき、「ハンフリー委員会 (Humphrey Committee) 」を設置。製鉄企業M. A. ハンナ (M. A. Hanna Co.) の社長ハンフリー、委員長に就任
    • 11月2日 - トルーマン、大統領選で共和党候補デューイらを破り当選。第81議会のための中間選挙では、上下両院で民主党が勝利
    • 11月10日 - ECA、欧州の為替レート問題に関する討議の必要性を提唱
    • 12月31日 - OEEC理事会、復興4か年計画を策定
  • 1949年
    • 1月7日 - アチソン、国務長官に就任
    • 1月12日 - ハンフリー委員会、廃止が検討されていた西部ドイツ内の381の工場のうち、167工場を存続させるよう勧告
    • 2月16日 - 財務長官スナイダー、上院外交委員会で欧州援助計画参加諸国の平価切下げを提唱
    • 2月17日 - OEEC理事会、「1949-50年度OEEC行動計画」を採択
    • 3月2日 - ECA、国務省、財務省、連邦準備制度、IMF米国理事の代表が会談。欧州通貨の決済について討議
    • 3月3日 - 英仏会談開催。OEEC長期計画について討議
    • 3月17日 - ホフマン、ハリマンに宛てて覚書を送付。欧州諸国の通貨切下げの必要性を主張
    • 3月25日 - フーヴァー委員会、米国の海外属領、占領地域マーシャル・プランの関連事務を一括管掌する組織を新設するよう勧告
    • 4月4日 - 米欧12か国、ワシントンで北大西洋条約に調印。北大西洋条約機構 (NATO) 発足
    • 4月6日 - IMF、OEEC加盟諸国の為替レート調整に関して調査を実施する決議を採択
    • 5月6日 - ドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が成立
    • 5月16日 - トルーマン、ECAの運営状況についての報告書を議会へ送付。欧州援助計画参加諸国が経済自立への第1段階を完了したと報告
    • 6月30日 - OEEC理事会、パリで開催
    • 8月16日 - 米国の駐独高等弁務官マックロイ (John Jay McCloy)、西ベルリンにマーシャル・プランを適用すると表明
    • 9月4日 - フランス、OEEC諸国からの一部輸入物資について、10月1日より輸入割当制限を撤廃すると発表
    • 9月7日 - OEEC理事会、第2次欧州域内決済・相殺協定 (The Agreement for lntra-European Payments and Compensation for 1949-1950) に調印
    • 10月5日 - トルーマン、1949年相互防衛援助法に署名
    • 10月11日 - 米英仏3国の高等弁務官、西ドイツのOEEC加盟を承認
    • 10月31日 - OEEC理事会、パリで開催。ホフマン、欧州に単一市場を創出する構想を表明
    • 12月2日 - OEEC理事会、輸入割当に関する障壁のうち、50%を15日までに撤廃することなどを決議して閉会
    • 12月28日 - OEEC、貿易自由化計画を開始
  • 1950年
    • 1月12日 - トルーマン、ECAの報告書を議会へ提出。マーシャル・プラン参加各国の経済統一を求める
    • 1月27日 - 米国、NATO加盟国との間に相互防衛援助協定を締結
    • 4月9日 - ECA長官ホフマン、上院議員ホフマンへ書簡を送付。マーシャル・プラン参加各国のドル不足解決策として、同諸国が1953年までにドル資金10億ドルの節約と、10億ドルの収入増加を図る必要があると主張
    • 5月9日 - シューマンシューマン・プランを発表
    • 6月6日 - 英国、欧州決済同盟 (EPU) 加盟を決定
    • 6月25日 - 朝鮮戦争勃発
    • 8月18日 - OEEC、自由化コードを採択
    • 9月18日 - 英国、ポンド切下げを実施
    • 9月19日 - OEEC理事会、EPU協定の最終草案を採択
    • 9月25日 - ホフマン、健康問題を理由としてECA長官を辞任。後任としてフォスターが任命される
    • 10月27日 - OEEC理事会、1951年2月1日以降の貿易自由化率引き上げ(60%から75%へ)を決議
    • 12月13日 - 英国蔵相ゲイツケル、英国向けマーシャル援助が12月31日をもって停止すると表明
    • 12月17日 - スウェーデン、マーシャル援助の受け入れ停止の意向を表明
  • 1951年
    • 2月27日 - ドイツ、EPU諸国からの輸入を一時停止
    • 3月22日 - フォスター、セントルイスの世界問題協会で演説。米国が西欧諸国に生産増強10年計画を提示したと発表
    • 6月10日 - フォスター、1951年度追加予算支出法の付帯条項に基づき、ECA諸国にソ連圏向け禁輸商品リスト(170品目)を通告
    • 6月10日 - OEEC、欧州経済発展について、10項目からなる計画を発表
    • 7月20日 - OEEC、新自由化コードを採択
    • 10月10日 - 相互安全保障法 (MSA) 成立
    • 10月26日 - トルーマン、対外援助支出法案に署名。また、同法に基づき相互安全保障局を設置。ECAはこれより60日以内に廃止されることが決定
    • 12月29日 - ECA廃止。相互安全保障局が援助事務を継承


注釈

  1. ^ 欧州経済協力機構1961年に改称して経済協力開発機構(OECD: Organization for Economic Cooperation and Development)となった。
  2. ^ 当時の為替レートは、1ポンド=4.03ドル
  3. ^ ケナンはモスクワのアメリカ大使館で参事官として在勤中の1946年2月22日にソ連の政権が持つ特徴や脆弱性・対外行動原理などを分析した、いわゆる「長文電報」を国務省に打電した。電報は国務省を超えて大反響を呼び、これがきっかけでワシントンに呼び戻されたケナンはこの時、国防大学の外国事情担当副指揮官の任にあった[3]
  4. ^ ヴァンデンバーグは戦時中に民主党が推進する戦争遂行政策や戦後の国際機関設立構想に対し、手放しとはいわないまでも基本的に賛同した。これを契機にヴァンデンバーグは外交問題に関する影響力と民主党に対する交渉力とを獲得し、超党派外交の立役者として躍り出た[4]。マーシャル・プランの発表後も、ヴァンデンバーグは共和党内の意見集約などで存在感を発揮した。
  5. ^ 油井大三郎は、演説で展開された反ソ・反共的言辞は議会や世論を説得するためのレトリックであり、トルーマン・ドクトリンは通常言われるような「対ソ封じ込め政策」の起点ではなく、「革命封じ込め政策」の起点をなすものと評価している[5]
  6. ^ ソ連はこれまで生産設備を移送させる方式での賠償取立てを実施してきたが、移送の不手際が元で設備に不具合が生じる事例が相次いだことから、賠償方式を転換した[8]
  7. ^ この頃フランスは独自の経済再建計画「モネ・プラン (Monnet Plan) 」を実施していたが、それはドイツ炭の供給を前提としており、ドイツの工業水準が引き上げられれば計画に狂いが生じるおそれがあった。結局フランスはマーシャル・プランを受け入れる道を選び、1948年秋にモネ・プランを修正した[9]
  8. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。United States Secretary of State James F. Byrnes Stuttgart speech, September 6, 1946.
  9. ^ この間の動向を追った作品として、ジョーゼフ・ジョーンズが著した『15週間』がある(Jones, Joseph M. The Fifteen Weeks: February 21 - June 5 1947, New York: Harcourt, Brace and Co., 1955.)。日本語文献では、(油井.戦後世界秩序の形成)が詳しい。
  10. ^ 7日前の5月16日に政策企画本部がアチソンに提出した覚書でも、この構想は「欧州のための石炭(Coal for Europe)」計画の名で現れている。Memorandum by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS 1947, Vol. III, p. 222. また、6月2日付文書「欧州石炭生産の増加について」でこれを敷衍している。
  11. ^ クレイトンは帰国後、関税引き上げの法案が通れば準備委員会は失敗に終わるとトルーマンに警告した。農務長官クリントン・アンダーソン拒否権発動に反対したが、トルーマンはクレイトンに従い拒否権を行使し、さらに毛織物の輸入関税を25%引き下げる権限をクレイトンに付与した。こうして準備委員会の決裂は回避された(佐藤信一 1978, p. 126)。
  12. ^ 戦災被害国の救済を目的として発足した連合国救済復興機関 (UNRRA) は、アメリカが活動資金の7割以上を拠出したにもかかわらず、他の参加諸国との調整を図る必要上、アメリカの発言権は抑制された。この結果、既にソ連の衛星国となりつつあった東ヨーロッパに対しても援助がなされたが、これについて「共産勢力を利するのみである」とするUNRRA不用論がアメリカ国内で相次いだ。クレイトンはこの前例を踏まえ、UNRRAの二の舞を演じるのを避けるためにも、アメリカの負担で行う援助の方向性はアメリカ自身が決めることができて然るべきだと主張しているのである。(牧野裕 1993, p. 299-300)。紀平『パクス・アメリカーナへの道』、232頁。
    なお、クレイトン覚書提出の翌月、UNRRAは欧州内での活動を停止した。
  13. ^ アチソンは、「卒業式の演説というものは身を入れて聞くものではなく、我慢するだけの儀礼的儀式であるから」、記念講演で欧州情勢について言及することは避けた方がよいと進言したが、マーシャルは記念講演の席を援助計画の発表の場に選んだ[34]
  14. ^ ここでいう「この数か月の間 (during recent months) 」とはどの程度の期間なのか、即ち、米国が欧州経済の危機を認識したのがいつの時点なのかに関しては、「英国が対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告した1947年2月下旬」とする説(ジョーゼフ・ジョーンズら)と、「モスクワ外相会談が決裂した1947年4月下旬」とする説(ジョン・ギンベル (John Gimbel) ら)とに大別される。本項では前者に従った。
  15. ^ マーシャルは演説の際、プレス・リリースにないくだりを追加している。演説の草稿は トルーマン図書館内資料 や『合衆国の対外関係』 (Press Release Issued by the Department of State, June 4, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 237-239.) を始めとする英語文献で、実際の演説内容は OECDホームページ などで見ることができる。日本語文献では、油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)や『中央公論』(第112巻第8号、1997年)がプレス・リリースを、永田『マーシャル・プラン』(249-253頁)が実際の演説を邦訳している。永田の邦訳では、演説とプレス・リリースとの相違点が示されている。
    演説の原文および邦訳に関しては、ウィキソースも参照。
  16. ^ 援助構想に関する国内世論の醸成ができていないのではと懸念したアメリカ政府は、演説当日にトルーマンの記者会見を設定してアメリカの報道機関の目を逸らした。その一方で、援助対象たるヨーロッパの為政者らには構想が広く伝わることを希望したため、アチソンがイギリスの報道機関の記者らと食事をした際に、会話の中で援助構想の存在について示唆していた。昼食を共にした1人であるBBC特派員レナード・マイオール (Leonard Miall) は、自身の担当する番組「米国寸評 (American Commentary) 」内で、演説のプレス・リリースを代読して放送した。「BBC特派員レナード・マイオールへのインタビュー」 Archived 2007年8月3日, at the Wayback Machine.(マーシャル財団ホームページ内。聞き手:バーバラ・ヴァンデグリフト)。Memorandum by Mr. Charles P. Kindleberger, FRUS 1947, Vol. III, pp. 246-247. Acheson, Present at the Creation, p. 234. (邦訳:287頁)
  17. ^ ジェファーソン・キャフェリー駐フランス大使は会談の前日にマーシャルに宛てて電報を送信した。それによると、ビドーはベヴィンの訪仏について、ショーで良い役を取ろうとするベヴィンの欲求の表れと解釈されるため好ましくないとキャフェリーに語った。しかし、そう語るビドー自身が良い役を取ろうとしているようであったという。The Ambassador in France (Caffery) to the Secretary of State, FRUS 1947, Vol. III, pp. 255-256.
  18. ^ 国際連合安全保障理事会での討議の際、ソビエト連邦は度々拒否権を発動して議論を停滞させた。国際連合創設当初のソビエト連邦の拒否権発動回数は飛び抜けて多く、1946年から1955年までの10年間を見ると、全体(83回)の実に96.3パーセントに当たる80回がソ連によるものであった。苅込照彰 「国連安全保障理事会の拒否権―安保理改革問題に関連して」(『調査と情報―ISSUE BRIEF』第463号、国立国会図書館外交防衛課、2005年)。
  19. ^ 非共産党員のマサリクは「計画は東西欧州の統合に寄与する」として、マーシャル・プランの受け入れを積極的に推進した。しかし共産党員であるゴットヴァルトはこの会談に先立ちスターリンと極秘裡に会合し、マーシャル・プラン不参加の意向を表明していた[44]
  20. ^ スターリンは、回答の最終期限を7月10日午後4時に設定していた[45]
  21. ^ フィンランドは冬戦争(1939年 - 1940年)や継続戦争(1941年 - 1944年)でソ連と交戦し、辛くも独立を維持したが、国土を荒廃させた。この経験を経て、同国は対ソ宥和政策に転じた[46]
  22. ^ 例えばポーランドはマーシャル・プラン拒否と引き換えに、ソ連から4億7790万ドルの借款と30の産業施設の供給を受けた。第二次世界大戦前の時点で約7パーセントであったソ連・東ヨーロッパへの貿易依存度は、1953年には約70パーセントにまで上昇した[47][48]
  23. ^ クレイトンは駐英大使ダグラス駐仏大使キャフェリーとの連携のもとでCEECと接触し、情報収集と米国の意向の伝達を図った[49][50]
  24. ^ クレイトンはこの数字を「極めて困惑を招き、かつ問題外」であるとした[51]。また、ケナンは要請額を知って驚愕し、アメリカの単独行動すら勧告した[52]
  25. ^ イギリスは協定発効から1年以内にポンドの交換性回復を実行する義務を負っていた。
  26. ^ これらは、超党派の諮問委員会の設置を主張するヴァンデンバーグの意向を受けて設置された[54]。また、議会に主導権を奪われることを恐れたアチソンは、先手を打って大統領が主導する委員会を設置する必要があるとトルーマンに進言するようマーシャルに求めていた[55]
  27. ^ ハリマン委員会については、河﨑信樹「マーシャルプランとハリマン委員会の設立」(『経済論叢』第178巻第5・6号に所収)を参照。
  28. ^ こののちウォーレスは民主党を離党して第3党「進歩党」を結成し、1948年7月の全国大会で大銀行の国有化や徴兵制の廃止などと共に、マーシャル・プランの廃止を謳った政策綱領を採択した。さらにトルーマンから政権を奪取すべく1948年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬したが、大敗を喫した。
  29. ^ これについてウォーレスは、マーシャル・プランが自身の考える本来の姿から乖離した一因は、国際連合の機関を経由しない形での援助を強行したことにあると非難した[66]。またECAが大統領直属機関となったことにより、ECAと緊密な関係を保とうとした国務省側の思惑は外れた[67]
  30. ^ 欧州域内の貿易振興策については、菅原歩「ヨーロッパ域内決済機構の発展過程 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、60-66頁、doi:10.14989/44523ISSN 09175393NAID 120000899452 を参照。
  31. ^ ロヴェットはハリマンに宛てた書簡の中で、「北大西洋安全保障協定はマーシャル・プランにとって不可欠の補完物である」と述べている。The Acting Secretary of State to the United States Special Representative in Europe (Harriman), Temporarily at Washington, FRUS 1948, Vol. III, p. 303.
  32. ^ 1952年には米国による対外援助の80%が軍事援助となった。(秋元.菅英(2003), p. 186)。
    ただし川口融によると、1952年の米国の経済援助は24億800万ドル(全体の59.3%)、対して軍事援助は16億5600万ドル(同40.7%)となっており、依然経済援助の方が軍事援助を上回っていることになる[73]
  33. ^ 援助の期間と総額について、大来佐武郎は「1948-1951年末で、合計120億ドル」であるとした(永田.マーシャル・プラン, p. 129)。また、『ブリタニカ百科事典 第15版(第7巻)』の「マーシャル・プラン」の項には、「1948年4月から1951年12月までに約130億ドル」 (The New Encyclopædia Britannica (15th edition) Vol. 7, p. 881.)、マーティン・シェイン編『マーシャル・プラン―50年後』には約127億ドルと記述されている (Schain, Martin, ed. The Marshall Plan: Fifty Years After, New York: Palgrave, 2001.)。
  34. ^ 小麦の25%は小麦粉の形をとることとされた[80]
  35. ^ 別の調査(商務省作成)によると、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、アルバニア、およびソ連に供与された援助の割合は、1945年7月から翌年末までの18か月間には全体の13.7%(約11億2800万ドル)であったが、1948年には0.5%(約2600万ドル)にまで減少した。対して西欧(ギリシャおよびトルコを含む)向け援助は、56.3%(約43億5400万ドル)から77.9%(約42億9800万ドル)に上昇した[83]
  36. ^ ハーヴァード演説を起草した国務長官特別補佐官ボーレンは、「我々は、ソ連を参加させることなく、故に欧州全体を包含できるような、故に我々の威信が得られるような賭けをした」と回想した[84]
  37. ^ トルーマンは、クリーヴランド演説を「マーシャル・プランへの序幕 (the prologue to the Marshall Plan) 」と呼んだ[88]
  38. ^ 演説の内容については、Department of State Bulletin 1947, pp. 991-994.
  39. ^ 1904年にクレイトンらが創業した「アンダーソン=クレイトン商会 (Anderson, Clayton and Co.) 」は、第一次世界大戦後には世界最大の綿花商会に成長した。世界恐慌や農業不況に対処するため採られた関税引き上げや生産制限などの諸政策は同社の利害に合致せず、クレイトンはこれらを推進するフーヴァー、ローズヴェルト両政権に強く反対した[89]
  40. ^ 西欧諸国は対米州貿易で生じた赤字を解消するため、かえって植民地への経済支配を強化した[90]。このことは植民地戦争が頻発する一因となったが、多くの犠牲と引き換えにアジアアフリカの諸地域が独立を達成した。
  41. ^ コーポラティズム論をめぐる議論については、河崎信樹「マーシャルプラン再考:「コーポラティズム論」との関連を中心として」『経済論叢』第169巻5・6、京都大學經濟學會、2002年5月、488-503頁、doi:10.14989/45479ISSN 00130273NAID 120000899090 を参照。
  42. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。Congressional Record, Vol. 93, 80th Congress, 1st Session. A 420-422.

出典

  1. ^ Acheson, Dean, Present at the Creation, p. 217. (邦訳:265頁)
  2. ^ The British Embassy to the Department of State, Foreign Relations of the United States(以下「FRUS」)1947, Vol. V , pp. 32-37.
    国務省が刊行した外交文書集『合衆国の対外関係』には、極秘指定を解除された多数の1次史料が収録されている。マーシャル・プランの立案過程については、1950年代から関係者自身による回顧録が上梓され、詳細が次第に明らかになってきてはいたが、1次史料の公開によってマーシャル・プラン研究は大きく進展した。
  3. ^ Kennan, George F., Memoirs 1925-1950, pp. 294-295, 298.(邦訳:279-280、285頁)
  4. ^ 福田茂夫「戦後世界政治の原点―ヴァンデンバーグと超党派冷戦外交の助走」(川端正久編『1940年代の世界政治』に所収)、6-9頁。
  5. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 220.
  6. ^ 永田実『マーシャル・プラン』、32頁。
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  8. ^ 古内博行「ドル条項問題と西ドイツ経済の復興」(廣田功、森健資編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、107頁。
  9. ^ 菊池孝美「フランスの近代化計画と植民地」(『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、238頁。
  10. ^ Bohlen, Charles E., Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  11. ^ 河崎信樹「H. フーバー(Herbert Hoover)のドイツ報告(1947年3月18日)とその歴史的位置」『経済論叢』第167巻第2号、京都大學經濟學會、2001年2月、127-143頁、doi:10.14989/45397ISSN 00130273NAID 110000421924 。報告書の全文は、ハリー・S・トルーマン大統領図書館・博物館(以下「トルーマン図書館」)内資料 を参照。
    フーヴァー使節団 (Hoover Mission) は、共和党の重鎮である元大統領ハーバート・フーヴァーを団長とする、対独墺経済政策調査団である。1946年11月に実施された中間選挙の結果、共和党が16年振りに上下両院を制した(下院共和党245名、民主党188名、その他1名。上院:共和党51名、民主党45名)ため、トルーマン政権は政策遂行に際して同党との宥和を図る必要に迫られた。使節団はこうした情勢を背景に結成され、主にドイツの食糧事情について調査した。3月18日の報告書は、同使節団が提出した3種の報告のうち最後のものである。
  12. ^ 坂出健、「マーシャルプラン期におけるアメリカの欧州統合政策」(『経済論叢別冊 調査と研究』第22号、2001年)、12頁, doi:10.14989/44520
    なお、国務省はドイツ復興が必要との認識こそフーヴァーやOMGUSと共有していたものの、ドイツ1国の優先的復興という両者の主張には反発した。
  13. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222.
  14. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、238頁。
  15. ^ Hogan, Michael J., The Marshall Plan: America, Britain and the Reconstruction of Western Europe, 1947-1952, New York, Cambridge University Press, 1987, p. 30.
  16. ^ "Policies, Procedures and Costs of Assistance by the United States to Foreign Countries", Report of the Special "Ad Hoc" Committee of the State-War-Navy Coordinating Committee, April 21, 1947, FRUS 1947, Vol. III , pp. 204-207.
  17. ^ Jones, The Fifteen Weeks, p. 206.
  18. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 272-273.
  19. ^ 紀平英作『パクス・アメリカーナへの道』、252-254頁。
  20. ^ 鈴木健人 2002, p. 77.
  21. ^ Department of State Bulletin 1947, p. 919.
  22. ^ "Policy with Respect to American Aid to Western Europe — Views of the Policy Planning Staff", The Director of the Policy Planning Staff (Kennan) to the Under Secretary of State (Acheson), FRUS 1947, Vol. III, pp. 223-230. なお、ハーヴァード演説後の7月23日、政策企画本部は最終報告「米国の立場からみた西欧復興問題の諸様相」を提出している。
  23. ^ FRUS 1947, Vol. III, pp. 225. 訳文はジョージ・ケナン、清水俊雄訳『ジョージ・ケナン回顧録(上)』、317頁より引用。
  24. ^ a b FRUS 1947, Vol. III, p. 228.
  25. ^ FRUS 1947, Vol. III, p. 229. 訳文はケナン『回顧録(上)』、321-322頁より引用。
  26. ^ "The European Crisis", Memorandum by the Under Secretary of State for Economic Affairs (Clayton), FRUS 1947, Vol. III, pp. 230-232.
  27. ^ Summary of Discussion on Problems of Relief, Rehabilitation and Reconstruction of Europe, FRUS 1947, Vol. III, pp. 234-236. 国務省執行事務局のウォード・P・アレン (Ward P. Allen) が残した覚書が、会議の内容を示す公的文書である。これ以外では、ケナン『回顧録(上)』第14章、アチソン『アチソン回顧録』第26章などが会議の様子を断片的ながら伝えている。
  28. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:284頁)
  29. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 290-291.
  30. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291-292.
  31. ^ Kennan, Memoirs 1925-1950, p. 342.(邦訳:321頁)
  32. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291.
  33. ^ Bohlen, Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  34. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:285頁)
  35. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222,293,295.
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    ケナンのドイツ再統一構想、通称「プログラムA」に関しては、佐々木卓也「ジョージ・F・ケナンとドイツ分割・再統一問題 一九四五-四九年」『一橋論叢』第93巻第2号、日本評論社、1985年2月、254-273頁、doi:10.15057/12923ISSN 00182818NAID 110007639907 
  71. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 109.
  72. ^ 川崎晴朗 「欧州共同体が接受した初期の代表部」(『外務省調査月報』2006年第3号)、79頁。
  73. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、19頁。
  74. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁より引用。
  75. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁。
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    この表ではその名が現れていないが、『米国の対外援助 1953年 (W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953) 』によると、ユーゴスラヴィアも約0.5億ドルの援助を受けていた(奥村「マーシャル・プラン」、213頁)。ソ連と対立してコミンフォルムから除名された同国は、他の東欧諸国とは異なりワルシャワ条約機構に加盟せず、またOEECにはオブザーヴァーを派遣していた。
  77. ^ 秋元、菅『アメリカ20世紀史』、184頁。
  78. ^ (板垣.佐藤(1960), p. 103)。なお、この一覧で示されている割合は、「1948年から1952年6月までに131億5000万ドルが支出された」とする積算に基づく値であり、上記の国別援助額の表とは援助総額の算定方法が異なる。
  79. ^ 宮崎礼二 1998.
  80. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 97.
  81. ^ ECA長官は、米国内で不足している物資の調達を抑制し、余剰物資の調達を奨励することとされた。(板垣.佐藤(1960), p. 97)。
  82. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、20頁より引用。
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  86. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、243頁。
  87. ^ 西本憲次 1949, p. 19.
  88. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 228. (邦訳:279頁)
  89. ^ 佐藤信一 1978, p. 86-88.
  90. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 303.
  91. ^ Minutes of a Meeting of the United States Delegation, Geneva, Switzerland, July 2, 1947, FRUS 1947, Vol. I, pp. 960-961.
  92. ^ (佐藤信一 1978, p. 139-140)
    ITO憲章(通称「ハバナ憲章」)の一部は「関税および貿易に関する一般協定 (GATT) 」として暫定的に発効し、約半世紀に及ぶ曲折を経て世界貿易機関 (WTO) 設立へと繋がった。
  93. ^ 陸井三郎「マーシャル・プラン」(『世界大百科事典 第20巻』(平凡社、1967年)に所収)、805頁。
  94. ^ 山極潔「現代のフランス」(『フランス史』(山川出版社)に所収)、522-523頁。対して廣田功は、マーシャル・プランは「危機的状態にあったモネ・プランを救い、近代化政策を軌道に乗せ」たと肯定的に評価している。廣田功「フランスの近代化政策とヨーロッパ統合」(廣田、森編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、142頁。
  95. ^ Milward, Alan S., The Reconstruction of Western Europe 1945-1951, London, 1983. ミルウォードとホーガンの主張の相違点については、河崎信樹, 坂出健「マーシャルプランと戦後世界秩序の形成 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、1-9頁、doi:10.14989/44518ISSN 09175393NAID 120000899357 を参照。
  96. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 287.
  97. ^ 『索引政治経済大年表 年表編(下巻)』(108頁)には、「4月10日 - 8月23日」とある。
  98. ^ The Secretary of State to French Foreign Minister (Bidault), FRUS 1947, Vol. II, pp. 1003-1004.
  99. ^ (油井.戦後世界秩序の形成, p. 305)。(板垣.佐藤(1960))には、「7月29日」とある。
  100. ^ The Acting Secretary of State to the Embassy in France, FRUS 1947, Vol. III, pp. 356-360.
  101. ^ Minutes of Meeting on Marshall "Plan" 3:00 P. M., August 22, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 369-372.
  102. ^ "Resume of the World Situation", Report by the Policy Planning Staff, FRUS 1947, Vol. I, pp. 770-777.
  103. ^ 法政大学大原社会問題研究所『社会・労働運動大年表』、481頁。
  104. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『社会・労働運動大年表』、491頁。






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