マーシャル・プラン 始動

マーシャル・プラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/05 14:09 UTC 版)

始動

OEECとECA

ECAが作成したマーシャル・プランの宣伝ポスターの1つ。羽根に参加各国の国旗が描かれた風車が、各国の結束を表す(青地に白のフルール・ド・リスはトリエステ旗)。惹句は「いかなる天候であれども、我々は動かねばならない、共に」

ヨーロッパ諸国は3月に第2回ヨーロッパ復興会議をパリで開催し、ドイツのうちソ連占領区域を除く部分を援助対象とすることを決議した。同時に援助の受け入れ体制を整えるためにCEECの改組に着手し、翌月16日にCEEC参加16か国と西部ドイツ(英米統合占領区域とフランス占領区域のそれぞれを1か国として数える)の計18か国を原加盟国とする新機構の欧州経済協力機構の設立を決議した。初代理事長には、ベルギー首相兼外相のポール=アンリ・スパークが選出された。

OEECはCEECに引き続いてパリに本部を置き、加盟各国の援助計画策定を支援すると共に、アメリカの承認を受けることを条件として、援助資金を加盟各国に分配する任務を負った。

援助実施機関たるECAは議論の結果、国際連合に加盟していない西部ドイツが援助対象に加わったことを理由として、国際連合の機関ではなく大統領直属の機関とし、議会内に監視委員会を置くことを決定した[注釈 29]。ECA長官にはクレイトンが就任する可能性も取り沙汰されたが、ハリマン委員会委員でもあったステュードベーカー社長ポール・ホフマンが最終的に選ばれた。また、在ヨーロッパECAの代表にはハリマンが、同特別代表代理にはウィリアム・フォスター商務次官が任命された。

ECAはワシントンに事務所を置き、OEECやその参加各国が作成した援助計画について審査と最終決定を成した。外国政府や企業への融資に協力する銀行に対しては、ECAによる償還を保証する「約束状」を発行した。また参加各国には大使に準ずる地位を持つ使節が駐在した。アメリカはイタリアとの間に経済協力協定を締結したのを皮切りに、ヨーロッパ各国と順次2国間協定を締結した。その際、援助物資の50%はアメリカの船舶によって輸送すること、援助物資を元に生産した商品を共産圏に輸出しないことなどが定められた。

被援助国は、受け取った直接贈与による援助額と同額の自国通貨を、自国の中央銀行に政府名義で開設した特別勘定に積み立てることが義務付けられた。この積立金を見返り資金英語版と呼び、アメリカが金額を通告すると同時に積み立てることとされた。積立額のうち95%はアメリカの承認を得た場合にのみ使用を許され、財政健全化や生産促進のために支出された。残る5%はアメリカが使用することを前提として留保され、ECAの海外行政費や戦略物資購入費、情報収集費に充てられた[68]

1951年6月30日までに、見返り資金の総額は約70億ドルに達し、次のように支出された。

  • 生産促進 56%
  • 国債償還 31%
  • その他 13%

見返り資金の使途に関する各国の対応を見ると、イギリス、オランダ、ノルウェーなどでは大部分が国債の償還のためにフランス、西ドイツ、イタリアでは設備投資のために資金が充当された[69]

貿易促進政策

大戦直後の西ヨーロッパでは停滞していた域内貿易の活発化を図るために自国通貨の交換性回復が望まれ、アメリカも地域統合と通商自由化の連動を期待した。しかし上述の通り、イギリスがポンド交換性回復宣言を直後に撤回するなど、実施には多大な困難が伴った。1947年10月にOEEC内に設置された決済協定委員会は会合を開き、多国間決済を促進する為の新制度を導入する必要性があることを確認した。これを受けて11月18日にフランス・イタリア・ベネルクスの5か国が第1次多角的通貨相殺協定に調印した。マーシャル・プラン参加国の多くもこれに加わり、協定は1947年末に実施段階に入った。

協定の成立により、加盟国同士が域内貿易で得た黒字を域外貿易での決済に利用することが出来る仕組みが整えられ、ドル不足の状態でも各国は通貨の交換性回復を行わずに多角的決済を行うことが可能となった。運営資金はマーシャル・プランの資金から繰り入れられ、国際決済銀行(BIS)が決済代理事務を担当した。協定は1948年と1949年の2度にわたって改められ、1950年には欧州決済同盟が設立された。EPU協定の有効期間は当初2年間と定められたが、その後毎年更新され、マーシャル・プラン終了後の1958年まで機能した[注釈 30]


注釈

  1. ^ 欧州経済協力機構1961年に改称して経済協力開発機構(OECD: Organization for Economic Cooperation and Development)となった。
  2. ^ 当時の為替レートは、1ポンド=4.03ドル
  3. ^ ケナンはモスクワのアメリカ大使館で参事官として在勤中の1946年2月22日にソ連の政権が持つ特徴や脆弱性・対外行動原理などを分析した、いわゆる「長文電報」を国務省に打電した。電報は国務省を超えて大反響を呼び、これがきっかけでワシントンに呼び戻されたケナンはこの時、国防大学の外国事情担当副指揮官の任にあった[3]
  4. ^ ヴァンデンバーグは戦時中に民主党が推進する戦争遂行政策や戦後の国際機関設立構想に対し、手放しとはいわないまでも基本的に賛同した。これを契機にヴァンデンバーグは外交問題に関する影響力と民主党に対する交渉力とを獲得し、超党派外交の立役者として躍り出た[4]。マーシャル・プランの発表後も、ヴァンデンバーグは共和党内の意見集約などで存在感を発揮した。
  5. ^ 油井大三郎は、演説で展開された反ソ・反共的言辞は議会や世論を説得するためのレトリックであり、トルーマン・ドクトリンは通常言われるような「対ソ封じ込め政策」の起点ではなく、「革命封じ込め政策」の起点をなすものと評価している[5]
  6. ^ ソ連はこれまで生産設備を移送させる方式での賠償取立てを実施してきたが、移送の不手際が元で設備に不具合が生じる事例が相次いだことから、賠償方式を転換した[8]
  7. ^ この頃フランスは独自の経済再建計画「モネ・プラン (Monnet Plan) 」を実施していたが、それはドイツ炭の供給を前提としており、ドイツの工業水準が引き上げられれば計画に狂いが生じるおそれがあった。結局フランスはマーシャル・プランを受け入れる道を選び、1948年秋にモネ・プランを修正した[9]
  8. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。United States Secretary of State James F. Byrnes Stuttgart speech, September 6, 1946.
  9. ^ この間の動向を追った作品として、ジョーゼフ・ジョーンズが著した『15週間』がある(Jones, Joseph M. The Fifteen Weeks: February 21 - June 5 1947, New York: Harcourt, Brace and Co., 1955.)。日本語文献では、(油井.戦後世界秩序の形成)が詳しい。
  10. ^ 7日前の5月16日に政策企画本部がアチソンに提出した覚書でも、この構想は「欧州のための石炭(Coal for Europe)」計画の名で現れている。Memorandum by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS 1947, Vol. III, p. 222. また、6月2日付文書「欧州石炭生産の増加について」でこれを敷衍している。
  11. ^ クレイトンは帰国後、関税引き上げの法案が通れば準備委員会は失敗に終わるとトルーマンに警告した。農務長官クリントン・アンダーソン拒否権発動に反対したが、トルーマンはクレイトンに従い拒否権を行使し、さらに毛織物の輸入関税を25%引き下げる権限をクレイトンに付与した。こうして準備委員会の決裂は回避された(佐藤信一 1978, p. 126)。
  12. ^ 戦災被害国の救済を目的として発足した連合国救済復興機関 (UNRRA) は、アメリカが活動資金の7割以上を拠出したにもかかわらず、他の参加諸国との調整を図る必要上、アメリカの発言権は抑制された。この結果、既にソ連の衛星国となりつつあった東ヨーロッパに対しても援助がなされたが、これについて「共産勢力を利するのみである」とするUNRRA不用論がアメリカ国内で相次いだ。クレイトンはこの前例を踏まえ、UNRRAの二の舞を演じるのを避けるためにも、アメリカの負担で行う援助の方向性はアメリカ自身が決めることができて然るべきだと主張しているのである。(牧野裕 1993, p. 299-300)。紀平『パクス・アメリカーナへの道』、232頁。
    なお、クレイトン覚書提出の翌月、UNRRAは欧州内での活動を停止した。
  13. ^ アチソンは、「卒業式の演説というものは身を入れて聞くものではなく、我慢するだけの儀礼的儀式であるから」、記念講演で欧州情勢について言及することは避けた方がよいと進言したが、マーシャルは記念講演の席を援助計画の発表の場に選んだ[34]
  14. ^ ここでいう「この数か月の間 (during recent months) 」とはどの程度の期間なのか、即ち、米国が欧州経済の危機を認識したのがいつの時点なのかに関しては、「英国が対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告した1947年2月下旬」とする説(ジョーゼフ・ジョーンズら)と、「モスクワ外相会談が決裂した1947年4月下旬」とする説(ジョン・ギンベル (John Gimbel) ら)とに大別される。本項では前者に従った。
  15. ^ マーシャルは演説の際、プレス・リリースにないくだりを追加している。演説の草稿は トルーマン図書館内資料 や『合衆国の対外関係』 (Press Release Issued by the Department of State, June 4, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 237-239.) を始めとする英語文献で、実際の演説内容は OECDホームページ などで見ることができる。日本語文献では、油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)や『中央公論』(第112巻第8号、1997年)がプレス・リリースを、永田『マーシャル・プラン』(249-253頁)が実際の演説を邦訳している。永田の邦訳では、演説とプレス・リリースとの相違点が示されている。
    演説の原文および邦訳に関しては、ウィキソースも参照。
  16. ^ 援助構想に関する国内世論の醸成ができていないのではと懸念したアメリカ政府は、演説当日にトルーマンの記者会見を設定してアメリカの報道機関の目を逸らした。その一方で、援助対象たるヨーロッパの為政者らには構想が広く伝わることを希望したため、アチソンがイギリスの報道機関の記者らと食事をした際に、会話の中で援助構想の存在について示唆していた。昼食を共にした1人であるBBC特派員レナード・マイオール (Leonard Miall) は、自身の担当する番組「米国寸評 (American Commentary) 」内で、演説のプレス・リリースを代読して放送した。「BBC特派員レナード・マイオールへのインタビュー」 Archived 2007年8月3日, at the Wayback Machine.(マーシャル財団ホームページ内。聞き手:バーバラ・ヴァンデグリフト)。Memorandum by Mr. Charles P. Kindleberger, FRUS 1947, Vol. III, pp. 246-247. Acheson, Present at the Creation, p. 234. (邦訳:287頁)
  17. ^ ジェファーソン・キャフェリー駐フランス大使は会談の前日にマーシャルに宛てて電報を送信した。それによると、ビドーはベヴィンの訪仏について、ショーで良い役を取ろうとするベヴィンの欲求の表れと解釈されるため好ましくないとキャフェリーに語った。しかし、そう語るビドー自身が良い役を取ろうとしているようであったという。The Ambassador in France (Caffery) to the Secretary of State, FRUS 1947, Vol. III, pp. 255-256.
  18. ^ 国際連合安全保障理事会での討議の際、ソビエト連邦は度々拒否権を発動して議論を停滞させた。国際連合創設当初のソビエト連邦の拒否権発動回数は飛び抜けて多く、1946年から1955年までの10年間を見ると、全体(83回)の実に96.3パーセントに当たる80回がソ連によるものであった。苅込照彰 「国連安全保障理事会の拒否権―安保理改革問題に関連して」(『調査と情報―ISSUE BRIEF』第463号、国立国会図書館外交防衛課、2005年)。
  19. ^ 非共産党員のマサリクは「計画は東西欧州の統合に寄与する」として、マーシャル・プランの受け入れを積極的に推進した。しかし共産党員であるゴットヴァルトはこの会談に先立ちスターリンと極秘裡に会合し、マーシャル・プラン不参加の意向を表明していた[44]
  20. ^ スターリンは、回答の最終期限を7月10日午後4時に設定していた[45]
  21. ^ フィンランドは冬戦争(1939年 - 1940年)や継続戦争(1941年 - 1944年)でソ連と交戦し、辛くも独立を維持したが、国土を荒廃させた。この経験を経て、同国は対ソ宥和政策に転じた[46]
  22. ^ 例えばポーランドはマーシャル・プラン拒否と引き換えに、ソ連から4億7790万ドルの借款と30の産業施設の供給を受けた。第二次世界大戦前の時点で約7パーセントであったソ連・東ヨーロッパへの貿易依存度は、1953年には約70パーセントにまで上昇した[47][48]
  23. ^ クレイトンは駐英大使ダグラス駐仏大使キャフェリーとの連携のもとでCEECと接触し、情報収集と米国の意向の伝達を図った[49][50]
  24. ^ クレイトンはこの数字を「極めて困惑を招き、かつ問題外」であるとした[51]。また、ケナンは要請額を知って驚愕し、アメリカの単独行動すら勧告した[52]
  25. ^ イギリスは協定発効から1年以内にポンドの交換性回復を実行する義務を負っていた。
  26. ^ これらは、超党派の諮問委員会の設置を主張するヴァンデンバーグの意向を受けて設置された[54]。また、議会に主導権を奪われることを恐れたアチソンは、先手を打って大統領が主導する委員会を設置する必要があるとトルーマンに進言するようマーシャルに求めていた[55]
  27. ^ ハリマン委員会については、河﨑信樹「マーシャルプランとハリマン委員会の設立」(『経済論叢』第178巻第5・6号に所収)を参照。
  28. ^ こののちウォーレスは民主党を離党して第3党「進歩党」を結成し、1948年7月の全国大会で大銀行の国有化や徴兵制の廃止などと共に、マーシャル・プランの廃止を謳った政策綱領を採択した。さらにトルーマンから政権を奪取すべく1948年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬したが、大敗を喫した。
  29. ^ これについてウォーレスは、マーシャル・プランが自身の考える本来の姿から乖離した一因は、国際連合の機関を経由しない形での援助を強行したことにあると非難した[66]。またECAが大統領直属機関となったことにより、ECAと緊密な関係を保とうとした国務省側の思惑は外れた[67]
  30. ^ 欧州域内の貿易振興策については、菅原歩「ヨーロッパ域内決済機構の発展過程 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、60-66頁、doi:10.14989/44523ISSN 09175393NAID 120000899452 を参照。
  31. ^ ロヴェットはハリマンに宛てた書簡の中で、「北大西洋安全保障協定はマーシャル・プランにとって不可欠の補完物である」と述べている。The Acting Secretary of State to the United States Special Representative in Europe (Harriman), Temporarily at Washington, FRUS 1948, Vol. III, p. 303.
  32. ^ 1952年には米国による対外援助の80%が軍事援助となった。(秋元.菅英(2003), p. 186)。
    ただし川口融によると、1952年の米国の経済援助は24億800万ドル(全体の59.3%)、対して軍事援助は16億5600万ドル(同40.7%)となっており、依然経済援助の方が軍事援助を上回っていることになる[73]
  33. ^ 援助の期間と総額について、大来佐武郎は「1948-1951年末で、合計120億ドル」であるとした(永田.マーシャル・プラン, p. 129)。また、『ブリタニカ百科事典 第15版(第7巻)』の「マーシャル・プラン」の項には、「1948年4月から1951年12月までに約130億ドル」 (The New Encyclopædia Britannica (15th edition) Vol. 7, p. 881.)、マーティン・シェイン編『マーシャル・プラン―50年後』には約127億ドルと記述されている (Schain, Martin, ed. The Marshall Plan: Fifty Years After, New York: Palgrave, 2001.)。
  34. ^ 小麦の25%は小麦粉の形をとることとされた[80]
  35. ^ 別の調査(商務省作成)によると、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、アルバニア、およびソ連に供与された援助の割合は、1945年7月から翌年末までの18か月間には全体の13.7%(約11億2800万ドル)であったが、1948年には0.5%(約2600万ドル)にまで減少した。対して西欧(ギリシャおよびトルコを含む)向け援助は、56.3%(約43億5400万ドル)から77.9%(約42億9800万ドル)に上昇した[83]
  36. ^ ハーヴァード演説を起草した国務長官特別補佐官ボーレンは、「我々は、ソ連を参加させることなく、故に欧州全体を包含できるような、故に我々の威信が得られるような賭けをした」と回想した[84]
  37. ^ トルーマンは、クリーヴランド演説を「マーシャル・プランへの序幕 (the prologue to the Marshall Plan) 」と呼んだ[88]
  38. ^ 演説の内容については、Department of State Bulletin 1947, pp. 991-994.
  39. ^ 1904年にクレイトンらが創業した「アンダーソン=クレイトン商会 (Anderson, Clayton and Co.) 」は、第一次世界大戦後には世界最大の綿花商会に成長した。世界恐慌や農業不況に対処するため採られた関税引き上げや生産制限などの諸政策は同社の利害に合致せず、クレイトンはこれらを推進するフーヴァー、ローズヴェルト両政権に強く反対した[89]
  40. ^ 西欧諸国は対米州貿易で生じた赤字を解消するため、かえって植民地への経済支配を強化した[90]。このことは植民地戦争が頻発する一因となったが、多くの犠牲と引き換えにアジアアフリカの諸地域が独立を達成した。
  41. ^ コーポラティズム論をめぐる議論については、河崎信樹「マーシャルプラン再考:「コーポラティズム論」との関連を中心として」『経済論叢』第169巻5・6、京都大學經濟學會、2002年5月、488-503頁、doi:10.14989/45479ISSN 00130273NAID 120000899090 を参照。
  42. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。Congressional Record, Vol. 93, 80th Congress, 1st Session. A 420-422.

出典

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  2. ^ The British Embassy to the Department of State, Foreign Relations of the United States(以下「FRUS」)1947, Vol. V , pp. 32-37.
    国務省が刊行した外交文書集『合衆国の対外関係』には、極秘指定を解除された多数の1次史料が収録されている。マーシャル・プランの立案過程については、1950年代から関係者自身による回顧録が上梓され、詳細が次第に明らかになってきてはいたが、1次史料の公開によってマーシャル・プラン研究は大きく進展した。
  3. ^ Kennan, George F., Memoirs 1925-1950, pp. 294-295, 298.(邦訳:279-280、285頁)
  4. ^ 福田茂夫「戦後世界政治の原点―ヴァンデンバーグと超党派冷戦外交の助走」(川端正久編『1940年代の世界政治』に所収)、6-9頁。
  5. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 220.
  6. ^ 永田実『マーシャル・プラン』、32頁。
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  8. ^ 古内博行「ドル条項問題と西ドイツ経済の復興」(廣田功、森健資編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、107頁。
  9. ^ 菊池孝美「フランスの近代化計画と植民地」(『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、238頁。
  10. ^ Bohlen, Charles E., Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  11. ^ 河崎信樹「H. フーバー(Herbert Hoover)のドイツ報告(1947年3月18日)とその歴史的位置」『経済論叢』第167巻第2号、京都大學經濟學會、2001年2月、127-143頁、doi:10.14989/45397ISSN 00130273NAID 110000421924 。報告書の全文は、ハリー・S・トルーマン大統領図書館・博物館(以下「トルーマン図書館」)内資料 を参照。
    フーヴァー使節団 (Hoover Mission) は、共和党の重鎮である元大統領ハーバート・フーヴァーを団長とする、対独墺経済政策調査団である。1946年11月に実施された中間選挙の結果、共和党が16年振りに上下両院を制した(下院共和党245名、民主党188名、その他1名。上院:共和党51名、民主党45名)ため、トルーマン政権は政策遂行に際して同党との宥和を図る必要に迫られた。使節団はこうした情勢を背景に結成され、主にドイツの食糧事情について調査した。3月18日の報告書は、同使節団が提出した3種の報告のうち最後のものである。
  12. ^ 坂出健、「マーシャルプラン期におけるアメリカの欧州統合政策」(『経済論叢別冊 調査と研究』第22号、2001年)、12頁, doi:10.14989/44520
    なお、国務省はドイツ復興が必要との認識こそフーヴァーやOMGUSと共有していたものの、ドイツ1国の優先的復興という両者の主張には反発した。
  13. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222.
  14. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、238頁。
  15. ^ Hogan, Michael J., The Marshall Plan: America, Britain and the Reconstruction of Western Europe, 1947-1952, New York, Cambridge University Press, 1987, p. 30.
  16. ^ "Policies, Procedures and Costs of Assistance by the United States to Foreign Countries", Report of the Special "Ad Hoc" Committee of the State-War-Navy Coordinating Committee, April 21, 1947, FRUS 1947, Vol. III , pp. 204-207.
  17. ^ Jones, The Fifteen Weeks, p. 206.
  18. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 272-273.
  19. ^ 紀平英作『パクス・アメリカーナへの道』、252-254頁。
  20. ^ 鈴木健人 2002, p. 77.
  21. ^ Department of State Bulletin 1947, p. 919.
  22. ^ "Policy with Respect to American Aid to Western Europe — Views of the Policy Planning Staff", The Director of the Policy Planning Staff (Kennan) to the Under Secretary of State (Acheson), FRUS 1947, Vol. III, pp. 223-230. なお、ハーヴァード演説後の7月23日、政策企画本部は最終報告「米国の立場からみた西欧復興問題の諸様相」を提出している。
  23. ^ FRUS 1947, Vol. III, pp. 225. 訳文はジョージ・ケナン、清水俊雄訳『ジョージ・ケナン回顧録(上)』、317頁より引用。
  24. ^ a b FRUS 1947, Vol. III, p. 228.
  25. ^ FRUS 1947, Vol. III, p. 229. 訳文はケナン『回顧録(上)』、321-322頁より引用。
  26. ^ "The European Crisis", Memorandum by the Under Secretary of State for Economic Affairs (Clayton), FRUS 1947, Vol. III, pp. 230-232.
  27. ^ Summary of Discussion on Problems of Relief, Rehabilitation and Reconstruction of Europe, FRUS 1947, Vol. III, pp. 234-236. 国務省執行事務局のウォード・P・アレン (Ward P. Allen) が残した覚書が、会議の内容を示す公的文書である。これ以外では、ケナン『回顧録(上)』第14章、アチソン『アチソン回顧録』第26章などが会議の様子を断片的ながら伝えている。
  28. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:284頁)
  29. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 290-291.
  30. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291-292.
  31. ^ Kennan, Memoirs 1925-1950, p. 342.(邦訳:321頁)
  32. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291.
  33. ^ Bohlen, Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  34. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:285頁)
  35. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222,293,295.
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  63. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、15頁。
  64. ^ 佐藤信一 1978, p. 138.
  65. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 124.
  66. ^ 安藤次男「戦後アメリカの対外政策とヘンリー・A・ウォーレスの外交論」(『立命館法學』第127号、1976年)、274頁。
  67. ^ 佐藤信一 1978, p. 139.
  68. ^ 有田圭輔 1949, p. 20.
  69. ^ 奥村茂次「マーシャル・プラン」、213頁。
  70. ^ 佐々木卓也「ポ-ル・H.ニッツィと封じ込め政策の転換,1950-53年」『一橋論叢』第100巻第1号、日本評論社、1988年7月、97頁、doi:10.15057/12657ISSN 00182818NAID 110000315370 
    ケナンのドイツ再統一構想、通称「プログラムA」に関しては、佐々木卓也「ジョージ・F・ケナンとドイツ分割・再統一問題 一九四五-四九年」『一橋論叢』第93巻第2号、日本評論社、1985年2月、254-273頁、doi:10.15057/12923ISSN 00182818NAID 110007639907 
  71. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 109.
  72. ^ 川崎晴朗 「欧州共同体が接受した初期の代表部」(『外務省調査月報』2006年第3号)、79頁。
  73. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、19頁。
  74. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁より引用。
  75. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁。
  76. ^ United States Department of Commerce "A Supplement to the Survey of Current Business", Foreign Aid 1940-1951. 経済企画庁 『平成3年 年次世界経済報告』
    この表ではその名が現れていないが、『米国の対外援助 1953年 (W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953) 』によると、ユーゴスラヴィアも約0.5億ドルの援助を受けていた(奥村「マーシャル・プラン」、213頁)。ソ連と対立してコミンフォルムから除名された同国は、他の東欧諸国とは異なりワルシャワ条約機構に加盟せず、またOEECにはオブザーヴァーを派遣していた。
  77. ^ 秋元、菅『アメリカ20世紀史』、184頁。
  78. ^ (板垣.佐藤(1960), p. 103)。なお、この一覧で示されている割合は、「1948年から1952年6月までに131億5000万ドルが支出された」とする積算に基づく値であり、上記の国別援助額の表とは援助総額の算定方法が異なる。
  79. ^ 宮崎礼二 1998.
  80. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 97.
  81. ^ ECA長官は、米国内で不足している物資の調達を抑制し、余剰物資の調達を奨励することとされた。(板垣.佐藤(1960), p. 97)。
  82. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、20頁より引用。
  83. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 270-271.
  84. ^ Bohlen, Charles E., The Transformation of American Foreign Policy, New York, W. W. Norton & Co., 1969, p. 91.
  85. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 155-156.
  86. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、243頁。
  87. ^ 西本憲次 1949, p. 19.
  88. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 228. (邦訳:279頁)
  89. ^ 佐藤信一 1978, p. 86-88.
  90. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 303.
  91. ^ Minutes of a Meeting of the United States Delegation, Geneva, Switzerland, July 2, 1947, FRUS 1947, Vol. I, pp. 960-961.
  92. ^ (佐藤信一 1978, p. 139-140)
    ITO憲章(通称「ハバナ憲章」)の一部は「関税および貿易に関する一般協定 (GATT) 」として暫定的に発効し、約半世紀に及ぶ曲折を経て世界貿易機関 (WTO) 設立へと繋がった。
  93. ^ 陸井三郎「マーシャル・プラン」(『世界大百科事典 第20巻』(平凡社、1967年)に所収)、805頁。
  94. ^ 山極潔「現代のフランス」(『フランス史』(山川出版社)に所収)、522-523頁。対して廣田功は、マーシャル・プランは「危機的状態にあったモネ・プランを救い、近代化政策を軌道に乗せ」たと肯定的に評価している。廣田功「フランスの近代化政策とヨーロッパ統合」(廣田、森編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、142頁。
  95. ^ Milward, Alan S., The Reconstruction of Western Europe 1945-1951, London, 1983. ミルウォードとホーガンの主張の相違点については、河崎信樹, 坂出健「マーシャルプランと戦後世界秩序の形成 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、1-9頁、doi:10.14989/44518ISSN 09175393NAID 120000899357 を参照。
  96. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 287.
  97. ^ 『索引政治経済大年表 年表編(下巻)』(108頁)には、「4月10日 - 8月23日」とある。
  98. ^ The Secretary of State to French Foreign Minister (Bidault), FRUS 1947, Vol. II, pp. 1003-1004.
  99. ^ (油井.戦後世界秩序の形成, p. 305)。(板垣.佐藤(1960))には、「7月29日」とある。
  100. ^ The Acting Secretary of State to the Embassy in France, FRUS 1947, Vol. III, pp. 356-360.
  101. ^ Minutes of Meeting on Marshall "Plan" 3:00 P. M., August 22, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 369-372.
  102. ^ "Resume of the World Situation", Report by the Policy Planning Staff, FRUS 1947, Vol. I, pp. 770-777.
  103. ^ 法政大学大原社会問題研究所『社会・労働運動大年表』、481頁。
  104. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『社会・労働運動大年表』、491頁。






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