マーシャル・プラン ヨーロッパの反応

マーシャル・プラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/25 14:13 UTC 版)

ヨーロッパの反応

英仏首脳会談

マーシャルの演説内容はBBCラジオ放送によってイギリスにもたらされた[注釈 16]。ラジオを聞いたイギリスの外務大臣アーネスト・ベヴィンは直ちに行動を開始した。ベヴィンは翌日に首相クレメント・アトリーと面会し、援助の受け入れについて協議した。この時点では、ハーヴァード演説がアメリカの国策としてなされた提案なのか否かすらも明確でなかったが、アトリーは援助受け入れを即断し、本件に関する事務をベヴィンに一任した。これを受けてベヴィンは駐フランス大使ダフ・クーパーに電報を打ち、フランスの外相ジョルジュ・ビドーとの会談の段取りを整えるよう命じた。

英仏首脳会談は6月17日からパリで開催された。両国は共に援助の詳細を決めるに当たって主導権を掌握し、自国の存在感を高めたいとの思惑を持ちながら会談に臨んだ[注釈 17]

イギリス大使館で開催された初日の会談で両国はマーシャルの提案を受け入れることで合意し、作業委員会を早急に設置することとした。同時にベヴィンは国際連合の組織を通じて援助を実施するように見せつつ、実際には国際連合を迂回することが必要だと主張し、ビドーもこれに同意した。援助実施機関を国際連合の組織とすれば、国際連合加盟国であるソビエト連邦が妨害工作を行うのではと懸念した為であった[注釈 18]

2日目の会談は場所をフランス外務省に移して行われた。この日の主要な議題は、ソ連に対する扱いをどうするかであった。フランスのポール・ラマディエ首相とビドーは、議論を進めるためにはソ連との協議が必要であると語り、ベヴィンも反対しなかった。続けてビドーが、次回の会談をモスクワで行うことを提案したところ、ソ連の協力に懐疑的なベヴィンは「クレムリンから肘鉄を食らうためにモスクワに行くのは御免被りたい」[39] と難色を示した。

この結果、英仏はソ連をパリに招いて会談を行うことで合意した。しかし新聞発表の際には開催地を明かさず、英仏外相の連名でソ連に宛てて書簡を送り、ロンドンかパリかをソ連に選ばせることにした。同時にベヴィンはソ連が不参加もしくは日和見の態度を表明した場合、直ちに準備委員会の設立に着手することを提案した。

英仏ソ外相会談

ソ連は英仏の求めに応じ、外相ヴャチェスラフ・モロトフをパリへ派遣することが決定した。これを受けてイギリス・フランス・ソビエト連邦の3か国による外相会談が6月27日からパリで開催された。会談前日にパリに到着したモロトフは、英仏がソ連のあずかり知らぬところで如何なる合意に到達しているのかとビドーに尋ねた。モロトフは会談初日にも、ハーヴァード演説以上の内容を英仏が入手しているのではないかと質問した。ベヴィンとビドーはモロトフが知っている以上のことは何も無いとして、疑念の払拭に努めた。

だがモロトフの疑惑は必ずしも故無きものでは無かった。アメリカは外相会談直前にクレイトンをロンドンへ派遣し、アトリーとベヴィンを始めとする与党の労働党首脳と事前協議を行っていた。クレイトンは、対イギリス援助はヨーロッパの共同計画の中で扱われること、対ソ援助はソ連が大幅な政策転換をしない限り行われないであろうことを言明していた[40]

続いてモロトフは、アメリカが用意している援助額は正確にはいくらなのか・この援助をアメリカ議会が可決するか否かについて問うた。これに対してベヴィンは、「借り手である我々がアメリカに対して条件を付すことは出来ない」「民主主義社会では行政府は立法府に関与することは出来ない」と切り返した。その後3者は以下の諸点を巡って議論を戦わせた。

  • 計画の作成方法について。英仏がハーヴァード演説の趣旨に基づき、全ヨーロッパが共同で計画を作成することを求めたのに対し、ソ連は「小国が大国に従属する結果を招く」として反対し、ヨーロッパ各国が必要な援助額を個別に算定し、その合計額をアメリカに提示する方法を主張した。
  • 情報の開示について。共同計画の策定を主張する英仏は、その前提として各国が保有する資源の現況を調査する必要があるとしたが、ソ連はこれを経済主権の侵害であるとして頑強に反対した。
  • 参加国の範囲について。英仏はフランコ独裁政権下のスペインを除く全ヨーロッパを援助対象とする案を提示したが、ソ連はヨーロッパの「連合国」に限定すべきであるとした。

援助計画を大いに警戒していたソ連は、東ヨーロッパ諸国が援助を切望している状況をも認識していた。ビドーによれば、モロトフの発言には曖昧なところがあったという。しかし3日目の会議の席上でスターリンからの指令と思しきメモがモロトフの元に届けられると、モロトフは共同計画に繰り返し反対の意を示した。

最終日にモロトフは、この援助計画はヨーロッパ諸国に対する内政干渉であり、計画執行のために設置される委員会は各国を支配するための道具に過ぎないと指弾した。ベヴィンはヨーロッパ各国に招請状を出すつもりであることを告げた。

こうして3国外相会談は決裂した。英仏両国はヨーロッパ側の受け入れ態勢の確立に向け動き出した。なおソ連が計画を拒絶した理由として、以下の諸点が挙げられる[41]

  • 共同計画は一国単位での経済政策を進めるソ連の方針と相容れなかった。加えてソ連は極度の統制経済を奉じており、諸外国との貿易は国家が独占的に行うと共に、金や外貨の準備高を始めとする重要な統計資料を秘匿していた。全ヨーロッパが共同で計画を策定するためにはこうした情報の開示が不可欠であるが、これを公開すればソ連経済の厳しい内情が露見するおそれがあった。
  • ソ連は緩衝地帯を出来るだけモスクワから離れたところに置くために、東ヨーロッパを勢力圏として抱える必要があった。また経済再建を順調に進めるためには東ヨーロッパ諸国(とりわけチェコスロヴァキアやポーランド)の存在は重要であった。援助計画に東ヨーロッパが参加すれば、ソ連と東ヨーロッパとの紐帯は弱まり、また西部ドイツからの賠償も停止するおそれがあった。
  • ソ連は援助計画がヨーロッパに対するアメリカの影響力強化を招くことを懸念した。これまでアメリカはモンロー・ドクトリンに基づき、ヨーロッパ情勢には積極的に関与しなかったが、今回の援助が実施されれば、ヨーロッパに対して大きな恩を売ることになり、ヨーロッパ進出に向けた橋頭堡を築くことができる。それはソ連の経済や安全保障に悪影響を及ぼすと考えられた。

東ヨーロッパの離脱(モロトフ・プラン)

3国外相会談後に英仏両国は分割占領下のドイツ・フランコ統治下のスペインと、アンドラリヒテンシュタインモナコサンマリノといった小国家群を除くヨーロッパ22か国に対し、ヨーロッパ復興会議への招請状を発した。東ヨーロッパからはチェコスロヴァキア・ハンガリー・ポーランドが参加を希望した。

ソ連は東ヨーロッパ諸国に対し、この会議に参加した上でアメリカの意図を批判し、可能な限り多くの諸国を翻意させる戦術を採るよう指示した[42]が、西ヨーロッパ諸国との関係が深かったチェコスロヴァキアは、7月7日の閣議でマーシャル・プランの受け入れを決定した。ソ連は先の方針を撤回し、受諾会議への参加をしないよう東ヨーロッパ諸国に訓令した。同時に、ソ連はチェコスロヴァキア首脳との会談を要求した。チェコスロヴァキアの首相ゴットヴァルト(Klement Gottwald)・外相マサリク・内相ドルティナは急遽モスクワへ飛んだ。

会談は7月10日の深夜0時半という遅い時間に始まった。当初スターリンはチェコスロヴァキアの置かれた状況に理解を示すかのような態度を見せ、ソ連が会議に参加する可能性をも示唆した。しかし話が進むにつれてその態度は硬化し、ゴットヴァルトに対して「あなたがたはソ連を孤立化させる企てに参画するのか」と詰問するに至った。

ゴットヴァルトは、チェコスロヴァキアが原材料輸入の6割から7割を西ヨーロッパに依存している現状を挙げながら外貨不足について説明し、ソ連側の理解を求めた。これに対してスターリンは、傍らのモロトフに目をやりながら「あなたがたには十分あるでしょう」と笑ったという[43]。会談はソ連側の思惑通りに進み、ゴットヴァルトらは当初の閣議決定を曲げることとなった[注釈 19]

この会談を受けて、プラハでは10日午後1時から緊急会議が開催された。国民党などは会議への参加を強硬に主張したが、ゴットヴァルトはモスクワから再三にわたって電話を入れ、早急に会議不参加の政府決定を下すよう指示した[注釈 20]。午後8時、ゴットヴァルトの指示通り不参加の方針が正式に決まった。この結果既ににヨーロッパ復興会議参加のために出発していた代表団は、パリに降り立った直後に帰国命令を受け、蜻蛉返りをせざるを得なかった。

またソ連はハンガリーに対して「ハンガリーが会議に出席した場合、ソ連はハンガリーへの賠償請求額を吊り上げる。またソ連領内に残るハンガリー人捕虜の送還を中止する」と通告した。同様にソ連の圧力を受けた東ヨーロッパ諸国や、国境を接するソ連と微妙な関係にあったフィンランドも参加しなかった[注釈 21]

ソ連は東ヨーロッパ各国との間に相互通商協定である通称「モロトフ・プラン」を締結して東ヨーロッパとの紐帯を強化し、アメリカや西ヨーロッパに対抗した[注釈 22]。なお、ユーゴスラヴィアはソ連と決別後の1949年以降アメリカから援助を受けている。

CEEC設置

フランス外務省本庁舎。欧州復興会議の舞台となった大会議場は、第一次世界大戦講和会議が開催された由緒ある場所である

東ヨーロッパ諸国の不参加の結果、最終的に会議への参加を表明したのは14か国となった(オーストリア、ベルギー、デンマーク、ギリシャ、アイスランドアイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデンスイス、トルコ)。

これら14か国に発起人の英仏両国を加えた16か国の参加の下、7月12日に第1回ヨーロッパ復興会議がフランス外務省庁舎内の大会議場で開催された。ソ連や東ヨーロッパ諸国が参加しなかったことにより、ヨーロッパの東西分裂を強く印象付ける会議となった。

同会議は参加16か国をもって構成国とする欧州経済協力委員会(Committee for European Economic Co-operation, CEEC)の設置を決議した。委員長には、イギリスの外交官オリヴァー・フランクスOriver Franks)が就任した。

また、復興会議はCEECの任務や性格について、次のような決議をした。

  • CEEC内には執行委員会と専門委員会を置く。執行委員会はイギリス、フランス、イタリア、オランダ、ノルウェーの5か国からなる。また専門委員会は食糧、農業、鉄鋼、輸送、燃料、動力の各分野に関する小委員会からなる(後に木材・労働力の分野を追加)。
  • CEECは国連機関を始めとする既存の国際機関との関係を緊密にする。
  • CEECは報告書作成のためにアメリカの助力を求める[注釈 23]

CEECは9月1日までに報告書を策定することを期して、必要とする援助額の算定を開始した。アメリカとも頻繁に事前協議を行ったが、調整作業は難航した。アメリカはドイツの潜在的経済力をヨーロッパ復興のために活用することを考えていた。イギリス・アメリカ占領区域の統合を進めることで合意していた米英両国は、同区域内での通貨統合を実現した。7月12日には、前年3月に連合国ドイツ管理理事会が設定していた、「西部ドイツの工業水準の上限を1936年時点の70パーセントから75パーセントに制限する」との規定を撤廃し、上限を100パーセントに引き上げることで米英間の合意がなされていた。しかしフランスは国内にドイツの軍事力強化を懸念する声が強く、また賠償に充てられる資金の削減を招く可能性があることから、保守・革新を問わず反対が予想されるとして、この合意案に強く反発した。アメリカは8月22日から開催された米英仏3国会談で、ドイツの工業水準引き上げの代償としてフランスに発言権を付与することで妥協した。

議論は援助を必要とする額の算定を巡っても紛糾した。CEECは西部ドイツや属領をも含めた全参加国のアメリカ大陸全体に対する貿易赤字は、1948年から1951年までの間に282億ドル、うち対アメリカ赤字は199億ドルになると試算した。しかしこれはアメリカ側の予想をはるかに上回る額であった[注釈 24]。ここに至ってアメリカはヨーロッパの自主性尊重という建前を破り、計画策定作業に直接介入した。

9月上旬にアメリカはCEEC参加各国に対して共同で不足額を削減することと、またITO憲章の理念に違背する貿易障壁を打破し、かつ国内通貨を安定させる方策を盛り込むことを要求した。さらにイギリスには、ドイツの英米統合占領区域を確実に復興計画に含めるよう求めたのである。この為OEECは復興計画の練り直しを余儀無くされた。結局報告書は当初の期日である9月1日には間に合わず、9月22日に完成をみた。

CEEC報告書

報告書は前文および本文8章からなり、参加16か国・西部ドイツ・各国の植民地保護領を対象とした4か年計画として策定された。その要旨は以下の通りである。

ヨーロッパ内の食糧・木材供給地域の壊滅・貿易の中断・財政の不均衡・東南アジアからの食料・工業用原料供給の不足などにより、ヨーロッパは疲弊している。これらが第二次大戦によってもたらされたのは明らかである。大戦は世界第2位の富を有するヨーロッパに深刻な打撃を与え、巨額のドル不足を招いた(第1章)。

故に各国が自国産業を戦前の水準以上に回復させる一方で、域内での経済協力を推進して輸出競争力を拡大し、ドル不足を是正する必要がある。より具体的には、既存の物的・人的資源の活用、生産設備の近代化、インフレ抑制などの対策を講じることが重要である。これらの施策により国内の財政安定に努め、将来的には各国通貨の交換性回復を目指す。また、現在は域内の通商が制限されているが、生産回復などによって条件が整った時にはこれを遅滞無く撤廃し、多角的貿易体制を確立する。ヨーロッパ関税同盟については今後可能性を検討する。

参加各国は輸入の45パーセントをアメリカ州に依存していたが、東南アジアや東ヨーロッパからの供給減少によって今後対米依存度が高まり、ドル不足を拡大させるおそれがある。これを改善させるためには、アメリカからの援助が必要である。特に、初年度の援助が決定的に重要な意味を持つ。そして9月22日にCEECの報告書はヨーロッパ復興委員会の全体会議に提出された。全体会議は報告書を承認し、国務省に送付した。アメリカとの対立がみられた不足額の算定に関しては、4年間で224億4000万ドル(1948年80億4000万ドル・1949年63億5000万ドル・1950年46億5000万ドル・1951年34億ドル)と推計し、国際機関からの援助を除くと193億1000万ドルになるとした[53]。なお、通貨の交換性回復に関しては、7月にイギリスが英米金融協定の規定に基づきポンドの交換性回復を宣言した[注釈 25]しかし多額の資本流出を招き、わずか1ヶ月余りで交換性の再凍結を余儀無くされた。対してベネルクス3国は10月に逸早く関税同盟を結成し、翌年発効に漕ぎ着けた。


注釈

  1. ^ 欧州経済協力機構1961年に改称して経済協力開発機構(OECD: Organization for Economic Cooperation and Development)となった。
  2. ^ 当時の為替レートは、1ポンド=4.03ドル
  3. ^ ケナンはモスクワのアメリカ大使館で参事官として在勤中の1946年2月22日にソ連の政権が持つ特徴や脆弱性・対外行動原理などを分析した、いわゆる「長文電報」を国務省に打電した。電報は国務省を超えて大反響を呼び、これがきっかけでワシントンに呼び戻されたケナンはこの時、国防大学の外国事情担当副指揮官の任にあった[3]
  4. ^ ヴァンデンバーグは戦時中に民主党が推進する戦争遂行政策や戦後の国際機関設立構想に対し、手放しとはいわないまでも基本的に賛同した。これを契機にヴァンデンバーグは外交問題に関する影響力と民主党に対する交渉力とを獲得し、超党派外交の立役者として躍り出た[4]。マーシャル・プランの発表後も、ヴァンデンバーグは共和党内の意見集約などで存在感を発揮した。
  5. ^ 油井大三郎は、演説で展開された反ソ・反共的言辞は議会や世論を説得するためのレトリックであり、トルーマン・ドクトリンは通常言われるような「対ソ封じ込め政策」の起点ではなく、「革命封じ込め政策」の起点をなすものと評価している[5]
  6. ^ ソ連はこれまで生産設備を移送させる方式での賠償取立てを実施してきたが、移送の不手際が元で設備に不具合が生じる事例が相次いだことから、賠償方式を転換した[8]
  7. ^ この頃フランスは独自の経済再建計画「モネ・プラン (Monnet Plan) 」を実施していたが、それはドイツ炭の供給を前提としており、ドイツの工業水準が引き上げられれば計画に狂いが生じるおそれがあった。結局フランスはマーシャル・プランを受け入れる道を選び、1948年秋にモネ・プランを修正した[9]
  8. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。United States Secretary of State James F. Byrnes Stuttgart speech, September 6, 1946.
  9. ^ この間の動向を追った作品として、ジョーゼフ・ジョーンズが著した『15週間』がある(Jones, Joseph M. The Fifteen Weeks: February 21 - June 5 1947, New York: Harcourt, Brace and Co., 1955.)。日本語文献では、(油井.戦後世界秩序の形成)が詳しい。
  10. ^ 7日前の5月16日に政策企画本部がアチソンに提出した覚書でも、この構想は「欧州のための石炭(Coal for Europe)」計画の名で現れている。Memorandum by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS 1947, Vol. III, p. 222. また、6月2日付文書「欧州石炭生産の増加について」でこれを敷衍している。
  11. ^ クレイトンは帰国後、関税引き上げの法案が通れば準備委員会は失敗に終わるとトルーマンに警告した。農務長官クリントン・アンダーソン拒否権発動に反対したが、トルーマンはクレイトンに従い拒否権を行使し、さらに毛織物の輸入関税を25%引き下げる権限をクレイトンに付与した。こうして準備委員会の決裂は回避された(佐藤信一 1978, p. 126)。
  12. ^ 戦災被害国の救済を目的として発足した連合国救済復興機関 (UNRRA) は、アメリカが活動資金の7割以上を拠出したにもかかわらず、他の参加諸国との調整を図る必要上、アメリカの発言権は抑制された。この結果、既にソ連の衛星国となりつつあった東ヨーロッパに対しても援助がなされたが、これについて「共産勢力を利するのみである」とするUNRRA不用論がアメリカ国内で相次いだ。クレイトンはこの前例を踏まえ、UNRRAの二の舞を演じるのを避けるためにも、アメリカの負担で行う援助の方向性はアメリカ自身が決めることができて然るべきだと主張しているのである。(牧野裕 1993, p. 299-300)。紀平『パクス・アメリカーナへの道』、232頁。
    なお、クレイトン覚書提出の翌月、UNRRAは欧州内での活動を停止した。
  13. ^ アチソンは、「卒業式の演説というものは身を入れて聞くものではなく、我慢するだけの儀礼的儀式であるから」、記念講演で欧州情勢について言及することは避けた方がよいと進言したが、マーシャルは記念講演の席を援助計画の発表の場に選んだ[34]
  14. ^ ここでいう「この数か月の間 (during recent months) 」とはどの程度の期間なのか、即ち、米国が欧州経済の危機を認識したのがいつの時点なのかに関しては、「英国が対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告した1947年2月下旬」とする説(ジョーゼフ・ジョーンズら)と、「モスクワ外相会談が決裂した1947年4月下旬」とする説(ジョン・ギンベル (John Gimbel) ら)とに大別される。本項では前者に従った。
  15. ^ マーシャルは演説の際、プレス・リリースにないくだりを追加している。演説の草稿は トルーマン図書館内資料 や『合衆国の対外関係』 (Press Release Issued by the Department of State, June 4, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 237-239.) を始めとする英語文献で、実際の演説内容は OECDホームページ などで見ることができる。日本語文献では、油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)や『中央公論』(第112巻第8号、1997年)がプレス・リリースを、永田『マーシャル・プラン』(249-253頁)が実際の演説を邦訳している。永田の邦訳では、演説とプレス・リリースとの相違点が示されている。
    演説の原文および邦訳に関しては、ウィキソースも参照。
  16. ^ 援助構想に関する国内世論の醸成ができていないのではと懸念したアメリカ政府は、演説当日にトルーマンの記者会見を設定してアメリカの報道機関の目を逸らした。その一方で、援助対象たるヨーロッパの為政者らには構想が広く伝わることを希望したため、アチソンがイギリスの報道機関の記者らと食事をした際に、会話の中で援助構想の存在について示唆していた。昼食を共にした1人であるBBC特派員レナード・マイオール (Leonard Miall) は、自身の担当する番組「米国寸評 (American Commentary) 」内で、演説のプレス・リリースを代読して放送した。「BBC特派員レナード・マイオールへのインタビュー」 Archived 2007年8月3日, at the Wayback Machine.(マーシャル財団ホームページ内。聞き手:バーバラ・ヴァンデグリフト)。Memorandum by Mr. Charles P. Kindleberger, FRUS 1947, Vol. III, pp. 246-247. Acheson, Present at the Creation, p. 234. (邦訳:287頁)
  17. ^ ジェファーソン・キャフェリー駐フランス大使は会談の前日にマーシャルに宛てて電報を送信した。それによると、ビドーはベヴィンの訪仏について、ショーで良い役を取ろうとするベヴィンの欲求の表れと解釈されるため好ましくないとキャフェリーに語った。しかし、そう語るビドー自身が良い役を取ろうとしているようであったという。The Ambassador in France (Caffery) to the Secretary of State, FRUS 1947, Vol. III, pp. 255-256.
  18. ^ 国際連合安全保障理事会での討議の際、ソビエト連邦は度々拒否権を発動して議論を停滞させた。国際連合創設当初のソビエト連邦の拒否権発動回数は飛び抜けて多く、1946年から1955年までの10年間を見ると、全体(83回)の実に96.3パーセントに当たる80回がソ連によるものであった。苅込照彰 「国連安全保障理事会の拒否権―安保理改革問題に関連して」(『調査と情報―ISSUE BRIEF』第463号、国立国会図書館外交防衛課、2005年)。
  19. ^ 非共産党員のマサリクは「計画は東西欧州の統合に寄与する」として、マーシャル・プランの受け入れを積極的に推進した。しかし共産党員であるゴットヴァルトはこの会談に先立ちスターリンと極秘裡に会合し、マーシャル・プラン不参加の意向を表明していた[44]
  20. ^ スターリンは、回答の最終期限を7月10日午後4時に設定していた[45]
  21. ^ フィンランドは冬戦争(1939年 - 1940年)や継続戦争(1941年 - 1944年)でソ連と交戦し、辛くも独立を維持したが、国土を荒廃させた。この経験を経て、同国は対ソ宥和政策に転じた[46]
  22. ^ 例えばポーランドはマーシャル・プラン拒否と引き換えに、ソ連から4億7790万ドルの借款と30の産業施設の供給を受けた。第二次世界大戦前の時点で約7パーセントであったソ連・東ヨーロッパへの貿易依存度は、1953年には約70パーセントにまで上昇した[47][48]
  23. ^ クレイトンは駐英大使ダグラス駐仏大使キャフェリーとの連携のもとでCEECと接触し、情報収集と米国の意向の伝達を図った[49][50]
  24. ^ クレイトンはこの数字を「極めて困惑を招き、かつ問題外」であるとした[51]。また、ケナンは要請額を知って驚愕し、アメリカの単独行動すら勧告した[52]
  25. ^ イギリスは協定発効から1年以内にポンドの交換性回復を実行する義務を負っていた。
  26. ^ これらは、超党派の諮問委員会の設置を主張するヴァンデンバーグの意向を受けて設置された[54]。また、議会に主導権を奪われることを恐れたアチソンは、先手を打って大統領が主導する委員会を設置する必要があるとトルーマンに進言するようマーシャルに求めていた[55]
  27. ^ ハリマン委員会については、河﨑信樹「マーシャルプランとハリマン委員会の設立」(『経済論叢』第178巻第5・6号に所収)を参照。
  28. ^ こののちウォーレスは民主党を離党して第3党「進歩党」を結成し、1948年7月の全国大会で大銀行の国有化や徴兵制の廃止などと共に、マーシャル・プランの廃止を謳った政策綱領を採択した。さらにトルーマンから政権を奪取すべく1948年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬したが、大敗を喫した。
  29. ^ これについてウォーレスは、マーシャル・プランが自身の考える本来の姿から乖離した一因は、国際連合の機関を経由しない形での援助を強行したことにあると非難した[66]。またECAが大統領直属機関となったことにより、ECAと緊密な関係を保とうとした国務省側の思惑は外れた[67]
  30. ^ 欧州域内の貿易振興策については、菅原歩「ヨーロッパ域内決済機構の発展過程 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、60-66頁、doi:10.14989/44523ISSN 09175393NAID 120000899452 を参照。
  31. ^ ロヴェットはハリマンに宛てた書簡の中で、「北大西洋安全保障協定はマーシャル・プランにとって不可欠の補完物である」と述べている。The Acting Secretary of State to the United States Special Representative in Europe (Harriman), Temporarily at Washington, FRUS 1948, Vol. III, p. 303.
  32. ^ 1952年には米国による対外援助の80%が軍事援助となった。(秋元.菅英(2003), p. 186)。
    ただし川口融によると、1952年の米国の経済援助は24億800万ドル(全体の59.3%)、対して軍事援助は16億5600万ドル(同40.7%)となっており、依然経済援助の方が軍事援助を上回っていることになる[73]
  33. ^ 援助の期間と総額について、大来佐武郎は「1948-1951年末で、合計120億ドル」であるとした(永田.マーシャル・プラン, p. 129)。また、『ブリタニカ百科事典 第15版(第7巻)』の「マーシャル・プラン」の項には、「1948年4月から1951年12月までに約130億ドル」 (The New Encyclopædia Britannica (15th edition) Vol. 7, p. 881.)、マーティン・シェイン編『マーシャル・プラン―50年後』には約127億ドルと記述されている (Schain, Martin, ed. The Marshall Plan: Fifty Years After, New York: Palgrave, 2001.)。
  34. ^ 小麦の25%は小麦粉の形をとることとされた[80]
  35. ^ 別の調査(商務省作成)によると、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、アルバニア、およびソ連に供与された援助の割合は、1945年7月から翌年末までの18か月間には全体の13.7%(約11億2800万ドル)であったが、1948年には0.5%(約2600万ドル)にまで減少した。対して西欧(ギリシャおよびトルコを含む)向け援助は、56.3%(約43億5400万ドル)から77.9%(約42億9800万ドル)に上昇した[83]
  36. ^ ハーヴァード演説を起草した国務長官特別補佐官ボーレンは、「我々は、ソ連を参加させることなく、故に欧州全体を包含できるような、故に我々の威信が得られるような賭けをした」と回想した[84]
  37. ^ トルーマンは、クリーヴランド演説を「マーシャル・プランへの序幕 (the prologue to the Marshall Plan) 」と呼んだ[88]
  38. ^ 演説の内容については、Department of State Bulletin 1947, pp. 991-994.
  39. ^ 1904年にクレイトンらが創業した「アンダーソン=クレイトン商会 (Anderson, Clayton and Co.) 」は、第一次世界大戦後には世界最大の綿花商会に成長した。世界恐慌や農業不況に対処するため採られた関税引き上げや生産制限などの諸政策は同社の利害に合致せず、クレイトンはこれらを推進するフーヴァー、ローズヴェルト両政権に強く反対した[89]
  40. ^ 西欧諸国は対米州貿易で生じた赤字を解消するため、かえって植民地への経済支配を強化した[90]。このことは植民地戦争が頻発する一因となったが、多くの犠牲と引き換えにアジアアフリカの諸地域が独立を達成した。
  41. ^ コーポラティズム論をめぐる議論については、河崎信樹「マーシャルプラン再考:「コーポラティズム論」との関連を中心として」『経済論叢』第169巻5・6、京都大學經濟學會、2002年5月、488-503頁、doi:10.14989/45479ISSN 00130273NAID 120000899090 を参照。
  42. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。Congressional Record, Vol. 93, 80th Congress, 1st Session. A 420-422.

出典

  1. ^ Acheson, Dean, Present at the Creation, p. 217. (邦訳:265頁)
  2. ^ The British Embassy to the Department of State, Foreign Relations of the United States(以下「FRUS」)1947, Vol. V , pp. 32-37.
    国務省が刊行した外交文書集『合衆国の対外関係』には、極秘指定を解除された多数の1次史料が収録されている。マーシャル・プランの立案過程については、1950年代から関係者自身による回顧録が上梓され、詳細が次第に明らかになってきてはいたが、1次史料の公開によってマーシャル・プラン研究は大きく進展した。
  3. ^ Kennan, George F., Memoirs 1925-1950, pp. 294-295, 298.(邦訳:279-280、285頁)
  4. ^ 福田茂夫「戦後世界政治の原点―ヴァンデンバーグと超党派冷戦外交の助走」(川端正久編『1940年代の世界政治』に所収)、6-9頁。
  5. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 220.
  6. ^ 永田実『マーシャル・プラン』、32頁。
  7. ^ Jones, Joseph M. The Fifteen Weeks, p. 155. Kennan, Memoirs 1925-1950, pp. 315-324.(邦訳:298-306頁)
  8. ^ 古内博行「ドル条項問題と西ドイツ経済の復興」(廣田功、森健資編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、107頁。
  9. ^ 菊池孝美「フランスの近代化計画と植民地」(『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、238頁。
  10. ^ Bohlen, Charles E., Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  11. ^ 河崎信樹「H. フーバー(Herbert Hoover)のドイツ報告(1947年3月18日)とその歴史的位置」『経済論叢』第167巻第2号、京都大學經濟學會、2001年2月、127-143頁、doi:10.14989/45397ISSN 00130273NAID 110000421924 。報告書の全文は、ハリー・S・トルーマン大統領図書館・博物館(以下「トルーマン図書館」)内資料 を参照。
    フーヴァー使節団 (Hoover Mission) は、共和党の重鎮である元大統領ハーバート・フーヴァーを団長とする、対独墺経済政策調査団である。1946年11月に実施された中間選挙の結果、共和党が16年振りに上下両院を制した(下院共和党245名、民主党188名、その他1名。上院:共和党51名、民主党45名)ため、トルーマン政権は政策遂行に際して同党との宥和を図る必要に迫られた。使節団はこうした情勢を背景に結成され、主にドイツの食糧事情について調査した。3月18日の報告書は、同使節団が提出した3種の報告のうち最後のものである。
  12. ^ 坂出健、「マーシャルプラン期におけるアメリカの欧州統合政策」(『経済論叢別冊 調査と研究』第22号、2001年)、12頁, doi:10.14989/44520
    なお、国務省はドイツ復興が必要との認識こそフーヴァーやOMGUSと共有していたものの、ドイツ1国の優先的復興という両者の主張には反発した。
  13. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222.
  14. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、238頁。
  15. ^ Hogan, Michael J., The Marshall Plan: America, Britain and the Reconstruction of Western Europe, 1947-1952, New York, Cambridge University Press, 1987, p. 30.
  16. ^ "Policies, Procedures and Costs of Assistance by the United States to Foreign Countries", Report of the Special "Ad Hoc" Committee of the State-War-Navy Coordinating Committee, April 21, 1947, FRUS 1947, Vol. III , pp. 204-207.
  17. ^ Jones, The Fifteen Weeks, p. 206.
  18. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 272-273.
  19. ^ 紀平英作『パクス・アメリカーナへの道』、252-254頁。
  20. ^ 鈴木健人 2002, p. 77.
  21. ^ Department of State Bulletin 1947, p. 919.
  22. ^ "Policy with Respect to American Aid to Western Europe — Views of the Policy Planning Staff", The Director of the Policy Planning Staff (Kennan) to the Under Secretary of State (Acheson), FRUS 1947, Vol. III, pp. 223-230. なお、ハーヴァード演説後の7月23日、政策企画本部は最終報告「米国の立場からみた西欧復興問題の諸様相」を提出している。
  23. ^ FRUS 1947, Vol. III, pp. 225. 訳文はジョージ・ケナン、清水俊雄訳『ジョージ・ケナン回顧録(上)』、317頁より引用。
  24. ^ a b FRUS 1947, Vol. III, p. 228.
  25. ^ FRUS 1947, Vol. III, p. 229. 訳文はケナン『回顧録(上)』、321-322頁より引用。
  26. ^ "The European Crisis", Memorandum by the Under Secretary of State for Economic Affairs (Clayton), FRUS 1947, Vol. III, pp. 230-232.
  27. ^ Summary of Discussion on Problems of Relief, Rehabilitation and Reconstruction of Europe, FRUS 1947, Vol. III, pp. 234-236. 国務省執行事務局のウォード・P・アレン (Ward P. Allen) が残した覚書が、会議の内容を示す公的文書である。これ以外では、ケナン『回顧録(上)』第14章、アチソン『アチソン回顧録』第26章などが会議の様子を断片的ながら伝えている。
  28. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:284頁)
  29. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 290-291.
  30. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291-292.
  31. ^ Kennan, Memoirs 1925-1950, p. 342.(邦訳:321頁)
  32. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291.
  33. ^ Bohlen, Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  34. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:285頁)
  35. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222,293,295.
  36. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 72-74.
  37. ^ 鈴木『「封じ込め」構想と米国世界戦略』、71-72頁。
  38. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 285-28,288.
  39. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 85.
  40. ^ Memorandum of the Conversation, by the First Secretary of Embassy in the United Kingdom (Peterson), FRUS 1947, Vol. III, pp. 268-284.
  41. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 91-93.
  42. ^ トニー・ジャット (著)、森本醇(訳)『ヨーロッパ戦後史 (上) 1945-1971』(みすず書房、2008年)、119-120頁。
  43. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 99.
  44. ^ 読売新聞社編『20世紀 大戦後の日本と世界』、114-115頁。
  45. ^ 読売新聞社編『20世紀 大戦後の日本と世界』、116頁。
  46. ^ 石垣泰司 「戦後の欧州情勢の変化とフィンランドの中立政策の変貌」(『外務省調査月報』2000年第2号)、94-96頁。
  47. ^ 矢田俊隆編『世界各国史13 東欧史』(山川出版社、1977年)、462頁。
  48. ^ Carnations(『タイム』1948年2月9日号)。
  49. ^ 佐藤信一 1978, p. 129.
  50. ^ 鈴木『「封じ込め」構想と米国世界戦略』、73-74頁。
  51. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 106.
  52. ^ "Situation With Respect to European Recovery Program", Memorandum by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS 1947, Vol. III, pp. 397-405.
  53. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 107.
  54. ^ 佐藤信一 1978, p. 140.
  55. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 235. (邦訳:288頁)
  56. ^ 山極晃「1948年中国援助法の成立過程」(斎藤真、深谷満雄編『アメリカの対外政策決定と議会』に所収)、104頁。
  57. ^ 西本憲次 1949, p. 20.
  58. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 117.
  59. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、242頁。
  60. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 306.
  61. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 122-123.
  62. ^ 川口融『アメリカの対外援助政策』、15頁。
  63. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、15頁。
  64. ^ 佐藤信一 1978, p. 138.
  65. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 124.
  66. ^ 安藤次男「戦後アメリカの対外政策とヘンリー・A・ウォーレスの外交論」(『立命館法學』第127号、1976年)、274頁。
  67. ^ 佐藤信一 1978, p. 139.
  68. ^ 有田圭輔 1949, p. 20.
  69. ^ 奥村茂次「マーシャル・プラン」、213頁。
  70. ^ 佐々木卓也「ポ-ル・H.ニッツィと封じ込め政策の転換,1950-53年」『一橋論叢』第100巻第1号、日本評論社、1988年7月、97頁、doi:10.15057/12657ISSN 00182818NAID 110000315370 
    ケナンのドイツ再統一構想、通称「プログラムA」に関しては、佐々木卓也「ジョージ・F・ケナンとドイツ分割・再統一問題 一九四五-四九年」『一橋論叢』第93巻第2号、日本評論社、1985年2月、254-273頁、doi:10.15057/12923ISSN 00182818NAID 110007639907 
  71. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 109.
  72. ^ 川崎晴朗 「欧州共同体が接受した初期の代表部」(『外務省調査月報』2006年第3号)、79頁。
  73. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、19頁。
  74. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁より引用。
  75. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁。
  76. ^ United States Department of Commerce "A Supplement to the Survey of Current Business", Foreign Aid 1940-1951. 経済企画庁 『平成3年 年次世界経済報告』
    この表ではその名が現れていないが、『米国の対外援助 1953年 (W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953) 』によると、ユーゴスラヴィアも約0.5億ドルの援助を受けていた(奥村「マーシャル・プラン」、213頁)。ソ連と対立してコミンフォルムから除名された同国は、他の東欧諸国とは異なりワルシャワ条約機構に加盟せず、またOEECにはオブザーヴァーを派遣していた。
  77. ^ 秋元、菅『アメリカ20世紀史』、184頁。
  78. ^ (板垣.佐藤(1960), p. 103)。なお、この一覧で示されている割合は、「1948年から1952年6月までに131億5000万ドルが支出された」とする積算に基づく値であり、上記の国別援助額の表とは援助総額の算定方法が異なる。
  79. ^ 宮崎礼二 1998.
  80. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 97.
  81. ^ ECA長官は、米国内で不足している物資の調達を抑制し、余剰物資の調達を奨励することとされた。(板垣.佐藤(1960), p. 97)。
  82. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、20頁より引用。
  83. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 270-271.
  84. ^ Bohlen, Charles E., The Transformation of American Foreign Policy, New York, W. W. Norton & Co., 1969, p. 91.
  85. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 155-156.
  86. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、243頁。
  87. ^ 西本憲次 1949, p. 19.
  88. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 228. (邦訳:279頁)
  89. ^ 佐藤信一 1978, p. 86-88.
  90. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 303.
  91. ^ Minutes of a Meeting of the United States Delegation, Geneva, Switzerland, July 2, 1947, FRUS 1947, Vol. I, pp. 960-961.
  92. ^ (佐藤信一 1978, p. 139-140)
    ITO憲章(通称「ハバナ憲章」)の一部は「関税および貿易に関する一般協定 (GATT) 」として暫定的に発効し、約半世紀に及ぶ曲折を経て世界貿易機関 (WTO) 設立へと繋がった。
  93. ^ 陸井三郎「マーシャル・プラン」(『世界大百科事典 第20巻』(平凡社、1967年)に所収)、805頁。
  94. ^ 山極潔「現代のフランス」(『フランス史』(山川出版社)に所収)、522-523頁。対して廣田功は、マーシャル・プランは「危機的状態にあったモネ・プランを救い、近代化政策を軌道に乗せ」たと肯定的に評価している。廣田功「フランスの近代化政策とヨーロッパ統合」(廣田、森編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、142頁。
  95. ^ Milward, Alan S., The Reconstruction of Western Europe 1945-1951, London, 1983. ミルウォードとホーガンの主張の相違点については、河崎信樹, 坂出健「マーシャルプランと戦後世界秩序の形成 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、1-9頁、doi:10.14989/44518ISSN 09175393NAID 120000899357 を参照。
  96. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 287.
  97. ^ 『索引政治経済大年表 年表編(下巻)』(108頁)には、「4月10日 - 8月23日」とある。
  98. ^ The Secretary of State to French Foreign Minister (Bidault), FRUS 1947, Vol. II, pp. 1003-1004.
  99. ^ (油井.戦後世界秩序の形成, p. 305)。(板垣.佐藤(1960))には、「7月29日」とある。
  100. ^ The Acting Secretary of State to the Embassy in France, FRUS 1947, Vol. III, pp. 356-360.
  101. ^ Minutes of Meeting on Marshall "Plan" 3:00 P. M., August 22, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 369-372.
  102. ^ "Resume of the World Situation", Report by the Policy Planning Staff, FRUS 1947, Vol. I, pp. 770-777.
  103. ^ 法政大学大原社会問題研究所『社会・労働運動大年表』、481頁。
  104. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『社会・労働運動大年表』、491頁。






マーシャル・プランと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マーシャル・プラン」の関連用語

マーシャル・プランのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マーシャル・プランのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマーシャル・プラン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2023 GRAS Group, Inc.RSS