マーシャル・プラン マーシャル・プランの概要

マーシャル・プラン

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マーシャル・プランに基づく援助物資を識別するために使用されたロゴ。「欧州復興のために、アメリカ合衆国により供給」と記されている。

概要

マーシャル・プランの受益国を示す地図。青いグラフは、各国が受けた援助の相対量を示す
西ベルリン復興工事の様子。背後の看板には「マーシャル・プラン援助による」とある

1947年6月5日、ハーバード大学の学位授与式に臨席したマーシャルは記念講演の中で、アメリカがヨーロッパに対して大規模な復興援助を供与する用意がある旨を表明した。これに応じた西ヨーロッパ16か国は、復興4か年計画と援助所要額をまとめた報告書を共同で作成してアメリカの援助を仰ぐと共に、援助受け入れ機関として欧州経済協力機構(OEEC) を設置した[注釈 1]。一方アメリカは援助政策の根拠法たる「1948年対外援助法」を制定し、実施機関として経済協力局(ECA)を設置した。援助は旧敵国(枢軸国)にも供与され、イタリアオーストリアが原参加国に名を連ねた他、アメリカ・イギリスフランス3か国の占領下にあったドイツ西部(のち西ドイツとなる)も援助対象として認められた。

マーシャル・プランは西ヨーロッパ諸国の戦後復興に一定の貢献をし、またアメリカ企業には巨大なヨーロッパ市場を提供した。ソ連および東ヨーロッパ諸国はモロトフ・プランで対抗したため、ヨーロッパの東西分断が加速したが、その一方で西ヨーロッパ諸国間の統合への動きは進展した。アメリカは無償贈与を中心に100億ドルを超える援助を供与したが、後半期には軍事援助に重点が移り、1951年10月に施行された相互安全保障法に基づく援助に吸収された。

マーシャル・プランはアメリカ史上屈指の成功を収めた対外政策と見做され、マーシャルは計画を推進した功績によってノーベル平和賞を受賞した。しかし、経済史の分野ではその経済効果を疑問視する見解が出され、議論を呼んでいる。外交史的見地からは、従来は反共政策としての側面が強調される傾向にあったが、新たな視点からの研究成果も現れている。

一方、アメリカは中華民国大韓民国にも工業および農業改革の復興を援助する計画をしていた。そのためアメリカは蔣介石に対し内戦を回避して中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立と共産党軍の国民党軍への編入を要求したが、蔣介石がマーシャルの調停した国共停戦協定を無視して中国共産党への軍事攻勢を行ったことにより、アメリカの大統領ハリー・S・トルーマンが「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとして中国に派遣していたマーシャルの召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明し、結果として1949年10月に中華人民共和国が建国されることになり、計画は破綻した。同時に大韓民国への援助計画も朝鮮半島情勢の悪化により頓挫した。

前史

援助停止通告

1947年2月21日(金曜日)の午後遅く、駐アメリカ合衆国大使を務めるアーチボルド・クラーク・カー男爵の一等書記官であるM・H・サイチェルが国務省を訪れた。大使から覚書を託された書記官は、応対した国務次官ディーン・アチソンに対し、国務長官ジョージ・マーシャルとの面会を求めた。しかし、当のマーシャルはプリンストン大学創立200年祭で記念講演を行うため、国務省を発ったばかりであった。覚書は緊急の検討を要したが、国務長官宛の正式文書を他の者が受け取ることは出来ないため、応急処置として覚書の写しを国務省近東・アフリカ局長ロイ・ウェズリー・ヘンダーソンに手渡し、正本は後日マーシャルに渡すことにした[1]

サイチェルは覚書を2通携えていた。1通目はギリシャに関するもので、イギリスが3月31日を限りにギリシャに対する援助を打ち切らざるを得ないとして、年間6000万から7000万ポンド[注釈 2]の肩代わりをアメリカに求めた。もう1通はトルコに関するもので、軍の近代化と経済発展の両立が困難であること、トルコの戦略的・軍事的位置について英米連合参謀本部で協議する用意があることや、トルコ軍拡充の為の財政援助をアメリカが行うよう期待することが記されていた[2]

ギリシャ・トルコ情勢

大戦後のギリシャ・トルコ両国は、以下のような情勢下にあった。

ギリシャでは第二次世界大戦中、共産党系の民族解放戦線(Ethnikon Apelefyherotikon Metpon, EAM)とその軍事組織であるギリシャ人民解放軍(Elinikos Laikos Apeleftherotikos Stratos, ELAS)が枢軸国に対するレジスタンス運動を展開していたが、1944年のドイツ軍撤退後にカイロパパンドレウ亡命政府が首都のアテネ入りを果たすと、同政府の中心である右派・王党派勢力とEAMとの間で衝突が起こった(ギリシャ内戦)。

イギリスは王党派を援助してきたが、これに対して内外から批判が挙がった。加えて1946年から翌年にかけての冬は実に66年ぶりの厳冬となったため、国内では深刻な燃料危機が発生した。イギリスは大戦で経済が疲弊した上、巨額の対アメリカ借款を抱えており、援助政策の再考を迫られていた。

経済情勢も深刻で、工業生産は戦前の40パーセント程度に留まっていた。1946年末にアメリカを訪問したギリシャのツァルダリス首相はギリシャ経済の窮状を説明し、今後5年間に12億4600万ドルの援助が必要であると訴えた。

一方トルコでは、ボスポラスダーダネルス両海峡の管理を巡る問題が発生した。両海峡は1936年11月以来モントルー条約に則って管理されてきたが、1946年中に改訂することがポツダム会談で合意されていた。これを受けて1946年8月7日にソ連はトルコに覚書を送付し、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛などを提案した。トルコはこれに反発し、アメリカ合衆国・イギリスもトルコに同調した。

援助決定

1947年2月24日(月曜日)の早朝に覚書は正式にマーシャルに手渡された。同日に国務省内にはヘンダーソンを長とする「ギリシャ・トルコ援助検討特別委員会」が設置され、「長文電報」でソ連通としての知名度を高めていたジョージ・F・ケナンもこれに参加した[注釈 3]。特別委員会は翌25日に「対ギリシャ・トルコ緊急援助に関する国務省の立場と勧告」をアチソンに提出した。報告書は安易にソ連との妥協を行わないとの言質をイギリスから取ることを条件に、援助肩代わりの要請を受け入れることを勧告した。

さらに2月26日、国務省・陸軍省海軍省の3省長官会議が開催された。陸軍長官ロバート・ポーター・パターソン海軍長官ジェームズ・フォレスタルは、同様の事態は南朝鮮中国など他の諸地域でも発生しているためにこれらの地域への援助も必要であると考えた。しかし議会で多数を占める共和党が財政支出の削減を強く求めていることに配慮し、対象をギリシャ・トルコに限定した国務省の勧告に基本的に賛同した。会議後にマーシャルはギリシャ・トルコ援助案を大統領ハリー・S・トルーマンに伝達し、了承を得た。トルーマンはアーサー・ヴァンデンバーグ[注釈 4]ら有力議員8名を招き、対ギリシャ・トルコ援助への協力を事前に取り付けた。

トルーマン・ドクトリン

同年3月12日、上下両院合同会議の場においてトルーマンは特別教書を発表した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。トルーマンは、イギリスが対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告したことに触れ、ギリシャおよびトルコの現状について説き起こした。

この教書の中でトルーマンは、世界のほぼ全ての国々が否応なく「2つの生活様式」即ち自由主義全体主義の選択を迫られているという二元論的な外交理念を提示すると同時に、「武装した少数者や外部からの圧力による征服の試みに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならないと信じる」と語った。そして、ギリシャやトルコが全体主義者の手に落ちればその影響は両国のみに留まらないと主張し、両国に対する経済的・軍事的援助として、1948年6月末までに4億ドルの支出と民間人・軍人の派遣を認めるよう議会に要請した。

4億ドルという額についてトルーマンは、アメリカが大戦中に支出した戦費(3410億ドル)の0.1パーセント強に過ぎないと語り、負担に充分耐え得ることを強調した。そして、自由主義世界を全体主義体制から守る責務を全うできる国家は今やアメリカをおいて他にないとして、上記の提案に賛同することを議会に求めたのである。

この演説は名指しこそ避けたものの、ソ連の影響力が地中海沿岸地域にまで及ぶことを警戒する内容となっていた。ギリシャ・トルコ危機という地域問題はこの演説によって世界規模の問題として捉えられ、その背後にはアメリカとソ連の対立という図式が潜んでいるとする認識が同時に示されたのである[注釈 5]

この演説は広汎な支持の獲得に成功したという。しかし国務省からは演説内容に対する驚きの声が上がった。反共的な主張の並んだ草稿に驚いたマーシャルは、事態を過大に言い過ぎているとの電報をトルーマンに宛てて送信した[6]。また、ケナンは草稿を読んで「これはまずいな」と懸念した。ケナンはギリシャへの経済・技術援助には賛同しつつも、軍事援助には消極的であった。また、局地的問題を普遍化するかのような言辞にも反対した[7]

モスクワ外相会談

4か国分割占領下のドイツ。1947年時点では、このうちイギリスとアメリカの占領区域が経済統合を実現していた

この頃、モスクワではアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4か国の外相による会談が進行中であった。

枢軸国のうち、イタリアハンガリーブルガリアなどとの講和は1946年11月のニューヨーク外相会談で決着し、翌年初頭に講和条約調印を実現した。残るドイツオーストリアとの講和問題を議題として開催されたのが、モスクワ外相会談である。4か国は1947年3月10日から4月24日まで45日間にわたって議論を交わしたが、各国の利害が鋭く対立し、とりわけドイツの処理問題は困難を極めた。主な争点は以下の諸点である。

  • ドイツ臨時政府の政治体制について。アメリカとイギリスは連邦制を採るべきであると主張したが、ソ連は中央集権制を主張した。フランスはドイツの復活が自国の安全保障に及ぼす影響を懸念し、臨時政府の早期樹立自体に難色を示した。
  • ドイツの経済復興について。ソ連は200億ドル(うち対ソ連分として100億ドル)相当の経常生産物賠償[注釈 6]をドイツに要求する賠償20年案を提示するとともに、先に米英両国が取り交わした両国占領区域間の経済統合協定の撤廃およびルール地域の4か国共同管理を主張した。対してアメリカとイギリスは、ドイツの賠償支払能力は10年間に30億ドル程度であるとして、賠償請求よりも経済力の回復を図るためにポツダム協定によって制限されている工業水準の引き上げおよび各占領区域の経済統合を求めた。一方、ドイツが持つ資源を極力自国のために利用したいフランスは、ドイツの石炭をフランスへ優先的に供給するよう主張した[注釈 7]

対オーストリア講和問題も、一定の前進こそあったものの結論は先送りされた。こうして会談は見るべき成果の無いまま、議題を次回に持ち越して閉幕した。会談に出席したマーシャルは、ドイツ処理問題におけるソ連の強硬姿勢の背後には「問題の長期化はヨーロッパ経済に悪影響を及ぼす。それはソ連にとって有利に働く」との意図があるとみた。その確信は、国務長官特別補佐官チャールズ・ボーレンを伴ってヨシフ・スターリンを表敬訪問した際、いよいよ強固なものとなった。ドイツ問題の早期解決を訴えるマーシャルに対し、スターリンは無関心であるかのような回答を返した。曰く「我々は、次回には合意に至るであろう。その時でなければその次には」[10]。モスクワからの帰途、マーシャルはボーレンに対して西ヨーロッパの完全崩壊を防止する手立てを考えねばならないと語った。

1944年9月に当時の財務長官ヘンリー・モーゲンソーが主唱したモーゲンソー・プランは、ドイツの軍需産業を徹底破壊して同国を農業国化するという懲罰的なドイツ政策を志向したが、この案は国務省・陸軍省・イギリスの猛反対を受けて影響力を失った。2年後の1946年9月に当時の国務長官ジェームズ・バーンズシュトゥットガルトで行った演説「ドイツ政策の見直し」では、ドイツはヨーロッパの一部であって、ドイツの復興はヨーロッパ復興の一部をなすものであるとの認識の下、ドイツの経済的自立の重要性が謳われた[注釈 8]。1947年3月18日にはフーヴァー使節団が、ドイツの工業力を基礎とした西ヨーロッパ復興を大統領に勧告する報告書を提出した[11]。在独合衆国軍政当局(Office of Military Government for Germany, United States, OMGUS)も占領経費削減という見地からドイツ復興を推進した[12]。議会もこうした路線に賛意を示していた。しかし「強いドイツ」の復活にはフランスの反発が大いに予想された。この難題を乗り切るため、ヨーロッパの共同復興という案が浮上したのである。

大戦の影響

空襲で壊滅したハンブルク市街。同市はのちに「ドイツのヒロシマHiroshima of Germany)」と呼ばれた

トルーマン演説以来、議員たちの間から400を超える質問が噴出した。これに答えるため国務省は、「ギリシャ・トルコ援助法案に関する質問と回答」と題する文書を作成し、議会に提出した。同文書はギリシャ・トルコ援助に類する援助を他の地域にまで拡大する予定は現時点では無いと回答していた[13]。だがそれは、援助支出の増大を渋る議員らに対する便法に過ぎなかった。実際には、演説が行われた時点で既に、緊急の援助を必要とする国々を洗い出す作業は始められていたのである。

6年間に及んだ大戦はヨーロッパ全体に深刻な影響を及ぼしていた。1946年時点の鉱工業生産はイギリスが大戦前(1937年)の90パーセント、フランスが同じく73パーセントに留まり、敗戦国のドイツ(ソ連占領区域を除く)に至っては戦前の3分の1にまで落ち込んでいた[14]。ヨーロッパ全体を見ると、1947年時点の農業生産は1938年水準の83パーセント、工業生産は88パーセントであり、輸出はわずか59パーセントに過ぎなかった[15]

1941年3月、アメリカは武器貸与法を成立させ、大規模対外援助への道を開いた。戦災地域の救済のため1943年11月に設立された連合国救済復興機関 (UNRRA) に対しては、アメリカは活動資金(約36億6000万ドル)の大半を拠出し、大戦終結後は英米金融協定に基づき37億5000万ドルをイギリスに貸し付けた。これらは暫定的な援助としてなされたものであり、国際通貨基金 (IMF) や国際復興開発銀行 (IBRD) を中心としたブレトン・ウッズ体制へ早期に移行できると期待されていた。しかし、これらの援助だけではヨーロッパ復興は覚束無いとする悲観的認識が次第に広がった。


注釈

  1. ^ 欧州経済協力機構1961年に改称して経済協力開発機構(OECD: Organization for Economic Cooperation and Development)となった。
  2. ^ 当時の為替レートは、1ポンド=4.03ドル
  3. ^ ケナンはモスクワのアメリカ大使館で参事官として在勤中の1946年2月22日にソ連の政権が持つ特徴や脆弱性・対外行動原理などを分析した、いわゆる「長文電報」を国務省に打電した。電報は国務省を超えて大反響を呼び、これがきっかけでワシントンに呼び戻されたケナンはこの時、国防大学の外国事情担当副指揮官の任にあった[3]
  4. ^ ヴァンデンバーグは戦時中に民主党が推進する戦争遂行政策や戦後の国際機関設立構想に対し、手放しとはいわないまでも基本的に賛同した。これを契機にヴァンデンバーグは外交問題に関する影響力と民主党に対する交渉力とを獲得し、超党派外交の立役者として躍り出た[4]。マーシャル・プランの発表後も、ヴァンデンバーグは共和党内の意見集約などで存在感を発揮した。
  5. ^ 油井大三郎は、演説で展開された反ソ・反共的言辞は議会や世論を説得するためのレトリックであり、トルーマン・ドクトリンは通常言われるような「対ソ封じ込め政策」の起点ではなく、「革命封じ込め政策」の起点をなすものと評価している[5]
  6. ^ ソ連はこれまで生産設備を移送させる方式での賠償取立てを実施してきたが、移送の不手際が元で設備に不具合が生じる事例が相次いだことから、賠償方式を転換した[8]
  7. ^ この頃フランスは独自の経済再建計画「モネ・プラン (Monnet Plan) 」を実施していたが、それはドイツ炭の供給を前提としており、ドイツの工業水準が引き上げられれば計画に狂いが生じるおそれがあった。結局フランスはマーシャル・プランを受け入れる道を選び、1948年秋にモネ・プランを修正した[9]
  8. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。United States Secretary of State James F. Byrnes Stuttgart speech, September 6, 1946.
  9. ^ この間の動向を追った作品として、ジョーゼフ・ジョーンズが著した『15週間』がある(Jones, Joseph M. The Fifteen Weeks: February 21 - June 5 1947, New York: Harcourt, Brace and Co., 1955.)。日本語文献では、(油井.戦後世界秩序の形成)が詳しい。
  10. ^ 7日前の5月16日に政策企画本部がアチソンに提出した覚書でも、この構想は「欧州のための石炭(Coal for Europe)」計画の名で現れている。Memorandum by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS 1947, Vol. III, p. 222. また、6月2日付文書「欧州石炭生産の増加について」でこれを敷衍している。
  11. ^ クレイトンは帰国後、関税引き上げの法案が通れば準備委員会は失敗に終わるとトルーマンに警告した。農務長官クリントン・アンダーソン拒否権発動に反対したが、トルーマンはクレイトンに従い拒否権を行使し、さらに毛織物の輸入関税を25%引き下げる権限をクレイトンに付与した。こうして準備委員会の決裂は回避された(佐藤信一 1978, p. 126)。
  12. ^ 戦災被害国の救済を目的として発足した連合国救済復興機関 (UNRRA) は、アメリカが活動資金の7割以上を拠出したにもかかわらず、他の参加諸国との調整を図る必要上、アメリカの発言権は抑制された。この結果、既にソ連の衛星国となりつつあった東ヨーロッパに対しても援助がなされたが、これについて「共産勢力を利するのみである」とするUNRRA不用論がアメリカ国内で相次いだ。クレイトンはこの前例を踏まえ、UNRRAの二の舞を演じるのを避けるためにも、アメリカの負担で行う援助の方向性はアメリカ自身が決めることができて然るべきだと主張しているのである。(牧野裕 1993, p. 299-300)。紀平『パクス・アメリカーナへの道』、232頁。
    なお、クレイトン覚書提出の翌月、UNRRAは欧州内での活動を停止した。
  13. ^ アチソンは、「卒業式の演説というものは身を入れて聞くものではなく、我慢するだけの儀礼的儀式であるから」、記念講演で欧州情勢について言及することは避けた方がよいと進言したが、マーシャルは記念講演の席を援助計画の発表の場に選んだ[34]
  14. ^ ここでいう「この数か月の間 (during recent months) 」とはどの程度の期間なのか、即ち、米国が欧州経済の危機を認識したのがいつの時点なのかに関しては、「英国が対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告した1947年2月下旬」とする説(ジョーゼフ・ジョーンズら)と、「モスクワ外相会談が決裂した1947年4月下旬」とする説(ジョン・ギンベル (John Gimbel) ら)とに大別される。本項では前者に従った。
  15. ^ マーシャルは演説の際、プレス・リリースにないくだりを追加している。演説の草稿は トルーマン図書館内資料 や『合衆国の対外関係』 (Press Release Issued by the Department of State, June 4, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 237-239.) を始めとする英語文献で、実際の演説内容は OECDホームページ などで見ることができる。日本語文献では、油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)や『中央公論』(第112巻第8号、1997年)がプレス・リリースを、永田『マーシャル・プラン』(249-253頁)が実際の演説を邦訳している。永田の邦訳では、演説とプレス・リリースとの相違点が示されている。
    演説の原文および邦訳に関しては、ウィキソースも参照。
  16. ^ 援助構想に関する国内世論の醸成ができていないのではと懸念したアメリカ政府は、演説当日にトルーマンの記者会見を設定してアメリカの報道機関の目を逸らした。その一方で、援助対象たるヨーロッパの為政者らには構想が広く伝わることを希望したため、アチソンがイギリスの報道機関の記者らと食事をした際に、会話の中で援助構想の存在について示唆していた。昼食を共にした1人であるBBC特派員レナード・マイオール (Leonard Miall) は、自身の担当する番組「米国寸評 (American Commentary) 」内で、演説のプレス・リリースを代読して放送した。「BBC特派員レナード・マイオールへのインタビュー」 Archived 2007年8月3日, at the Wayback Machine.(マーシャル財団ホームページ内。聞き手:バーバラ・ヴァンデグリフト)。Memorandum by Mr. Charles P. Kindleberger, FRUS 1947, Vol. III, pp. 246-247. Acheson, Present at the Creation, p. 234. (邦訳:287頁)
  17. ^ ジェファーソン・キャフェリー駐フランス大使は会談の前日にマーシャルに宛てて電報を送信した。それによると、ビドーはベヴィンの訪仏について、ショーで良い役を取ろうとするベヴィンの欲求の表れと解釈されるため好ましくないとキャフェリーに語った。しかし、そう語るビドー自身が良い役を取ろうとしているようであったという。The Ambassador in France (Caffery) to the Secretary of State, FRUS 1947, Vol. III, pp. 255-256.
  18. ^ 国際連合安全保障理事会での討議の際、ソビエト連邦は度々拒否権を発動して議論を停滞させた。国際連合創設当初のソビエト連邦の拒否権発動回数は飛び抜けて多く、1946年から1955年までの10年間を見ると、全体(83回)の実に96.3パーセントに当たる80回がソ連によるものであった。苅込照彰 「国連安全保障理事会の拒否権―安保理改革問題に関連して」(『調査と情報―ISSUE BRIEF』第463号、国立国会図書館外交防衛課、2005年)。
  19. ^ 非共産党員のマサリクは「計画は東西欧州の統合に寄与する」として、マーシャル・プランの受け入れを積極的に推進した。しかし共産党員であるゴットヴァルトはこの会談に先立ちスターリンと極秘裡に会合し、マーシャル・プラン不参加の意向を表明していた[44]
  20. ^ スターリンは、回答の最終期限を7月10日午後4時に設定していた[45]
  21. ^ フィンランドは冬戦争(1939年 - 1940年)や継続戦争(1941年 - 1944年)でソ連と交戦し、辛くも独立を維持したが、国土を荒廃させた。この経験を経て、同国は対ソ宥和政策に転じた[46]
  22. ^ 例えばポーランドはマーシャル・プラン拒否と引き換えに、ソ連から4億7790万ドルの借款と30の産業施設の供給を受けた。第二次世界大戦前の時点で約7パーセントであったソ連・東ヨーロッパへの貿易依存度は、1953年には約70パーセントにまで上昇した[47][48]
  23. ^ クレイトンは駐英大使ダグラス駐仏大使キャフェリーとの連携のもとでCEECと接触し、情報収集と米国の意向の伝達を図った[49][50]
  24. ^ クレイトンはこの数字を「極めて困惑を招き、かつ問題外」であるとした[51]。また、ケナンは要請額を知って驚愕し、アメリカの単独行動すら勧告した[52]
  25. ^ イギリスは協定発効から1年以内にポンドの交換性回復を実行する義務を負っていた。
  26. ^ これらは、超党派の諮問委員会の設置を主張するヴァンデンバーグの意向を受けて設置された[54]。また、議会に主導権を奪われることを恐れたアチソンは、先手を打って大統領が主導する委員会を設置する必要があるとトルーマンに進言するようマーシャルに求めていた[55]
  27. ^ ハリマン委員会については、河﨑信樹「マーシャルプランとハリマン委員会の設立」(『経済論叢』第178巻第5・6号に所収)を参照。
  28. ^ こののちウォーレスは民主党を離党して第3党「進歩党」を結成し、1948年7月の全国大会で大銀行の国有化や徴兵制の廃止などと共に、マーシャル・プランの廃止を謳った政策綱領を採択した。さらにトルーマンから政権を奪取すべく1948年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬したが、大敗を喫した。
  29. ^ これについてウォーレスは、マーシャル・プランが自身の考える本来の姿から乖離した一因は、国際連合の機関を経由しない形での援助を強行したことにあると非難した[66]。またECAが大統領直属機関となったことにより、ECAと緊密な関係を保とうとした国務省側の思惑は外れた[67]
  30. ^ 欧州域内の貿易振興策については、菅原歩「ヨーロッパ域内決済機構の発展過程 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、60-66頁、doi:10.14989/44523ISSN 09175393NAID 120000899452 を参照。
  31. ^ ロヴェットはハリマンに宛てた書簡の中で、「北大西洋安全保障協定はマーシャル・プランにとって不可欠の補完物である」と述べている。The Acting Secretary of State to the United States Special Representative in Europe (Harriman), Temporarily at Washington, FRUS 1948, Vol. III, p. 303.
  32. ^ 1952年には米国による対外援助の80%が軍事援助となった。(秋元.菅英(2003), p. 186)。
    ただし川口融によると、1952年の米国の経済援助は24億800万ドル(全体の59.3%)、対して軍事援助は16億5600万ドル(同40.7%)となっており、依然経済援助の方が軍事援助を上回っていることになる[73]
  33. ^ 援助の期間と総額について、大来佐武郎は「1948-1951年末で、合計120億ドル」であるとした(永田.マーシャル・プラン, p. 129)。また、『ブリタニカ百科事典 第15版(第7巻)』の「マーシャル・プラン」の項には、「1948年4月から1951年12月までに約130億ドル」 (The New Encyclopædia Britannica (15th edition) Vol. 7, p. 881.)、マーティン・シェイン編『マーシャル・プラン―50年後』には約127億ドルと記述されている (Schain, Martin, ed. The Marshall Plan: Fifty Years After, New York: Palgrave, 2001.)。
  34. ^ 小麦の25%は小麦粉の形をとることとされた[80]
  35. ^ 別の調査(商務省作成)によると、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、アルバニア、およびソ連に供与された援助の割合は、1945年7月から翌年末までの18か月間には全体の13.7%(約11億2800万ドル)であったが、1948年には0.5%(約2600万ドル)にまで減少した。対して西欧(ギリシャおよびトルコを含む)向け援助は、56.3%(約43億5400万ドル)から77.9%(約42億9800万ドル)に上昇した[83]
  36. ^ ハーヴァード演説を起草した国務長官特別補佐官ボーレンは、「我々は、ソ連を参加させることなく、故に欧州全体を包含できるような、故に我々の威信が得られるような賭けをした」と回想した[84]
  37. ^ トルーマンは、クリーヴランド演説を「マーシャル・プランへの序幕 (the prologue to the Marshall Plan) 」と呼んだ[88]
  38. ^ 演説の内容については、Department of State Bulletin 1947, pp. 991-994.
  39. ^ 1904年にクレイトンらが創業した「アンダーソン=クレイトン商会 (Anderson, Clayton and Co.) 」は、第一次世界大戦後には世界最大の綿花商会に成長した。世界恐慌や農業不況に対処するため採られた関税引き上げや生産制限などの諸政策は同社の利害に合致せず、クレイトンはこれらを推進するフーヴァー、ローズヴェルト両政権に強く反対した[89]
  40. ^ 西欧諸国は対米州貿易で生じた赤字を解消するため、かえって植民地への経済支配を強化した[90]。このことは植民地戦争が頻発する一因となったが、多くの犠牲と引き換えにアジアアフリカの諸地域が独立を達成した。
  41. ^ コーポラティズム論をめぐる議論については、河崎信樹「マーシャルプラン再考:「コーポラティズム論」との関連を中心として」『経済論叢』第169巻5・6、京都大學經濟學會、2002年5月、488-503頁、doi:10.14989/45479ISSN 00130273NAID 120000899090 を参照。
  42. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。Congressional Record, Vol. 93, 80th Congress, 1st Session. A 420-422.

出典

  1. ^ Acheson, Dean, Present at the Creation, p. 217. (邦訳:265頁)
  2. ^ The British Embassy to the Department of State, Foreign Relations of the United States(以下「FRUS」)1947, Vol. V , pp. 32-37.
    国務省が刊行した外交文書集『合衆国の対外関係』には、極秘指定を解除された多数の1次史料が収録されている。マーシャル・プランの立案過程については、1950年代から関係者自身による回顧録が上梓され、詳細が次第に明らかになってきてはいたが、1次史料の公開によってマーシャル・プラン研究は大きく進展した。
  3. ^ Kennan, George F., Memoirs 1925-1950, pp. 294-295, 298.(邦訳:279-280、285頁)
  4. ^ 福田茂夫「戦後世界政治の原点―ヴァンデンバーグと超党派冷戦外交の助走」(川端正久編『1940年代の世界政治』に所収)、6-9頁。
  5. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 220.
  6. ^ 永田実『マーシャル・プラン』、32頁。
  7. ^ Jones, Joseph M. The Fifteen Weeks, p. 155. Kennan, Memoirs 1925-1950, pp. 315-324.(邦訳:298-306頁)
  8. ^ 古内博行「ドル条項問題と西ドイツ経済の復興」(廣田功、森健資編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、107頁。
  9. ^ 菊池孝美「フランスの近代化計画と植民地」(『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、238頁。
  10. ^ Bohlen, Charles E., Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  11. ^ 河崎信樹「H. フーバー(Herbert Hoover)のドイツ報告(1947年3月18日)とその歴史的位置」『経済論叢』第167巻第2号、京都大學經濟學會、2001年2月、127-143頁、doi:10.14989/45397ISSN 00130273NAID 110000421924 。報告書の全文は、ハリー・S・トルーマン大統領図書館・博物館(以下「トルーマン図書館」)内資料 を参照。
    フーヴァー使節団 (Hoover Mission) は、共和党の重鎮である元大統領ハーバート・フーヴァーを団長とする、対独墺経済政策調査団である。1946年11月に実施された中間選挙の結果、共和党が16年振りに上下両院を制した(下院共和党245名、民主党188名、その他1名。上院:共和党51名、民主党45名)ため、トルーマン政権は政策遂行に際して同党との宥和を図る必要に迫られた。使節団はこうした情勢を背景に結成され、主にドイツの食糧事情について調査した。3月18日の報告書は、同使節団が提出した3種の報告のうち最後のものである。
  12. ^ 坂出健、「マーシャルプラン期におけるアメリカの欧州統合政策」(『経済論叢別冊 調査と研究』第22号、2001年)、12頁, doi:10.14989/44520
    なお、国務省はドイツ復興が必要との認識こそフーヴァーやOMGUSと共有していたものの、ドイツ1国の優先的復興という両者の主張には反発した。
  13. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222.
  14. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、238頁。
  15. ^ Hogan, Michael J., The Marshall Plan: America, Britain and the Reconstruction of Western Europe, 1947-1952, New York, Cambridge University Press, 1987, p. 30.
  16. ^ "Policies, Procedures and Costs of Assistance by the United States to Foreign Countries", Report of the Special "Ad Hoc" Committee of the State-War-Navy Coordinating Committee, April 21, 1947, FRUS 1947, Vol. III , pp. 204-207.
  17. ^ Jones, The Fifteen Weeks, p. 206.
  18. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 272-273.
  19. ^ 紀平英作『パクス・アメリカーナへの道』、252-254頁。
  20. ^ 鈴木健人 2002, p. 77.
  21. ^ Department of State Bulletin 1947, p. 919.
  22. ^ "Policy with Respect to American Aid to Western Europe — Views of the Policy Planning Staff", The Director of the Policy Planning Staff (Kennan) to the Under Secretary of State (Acheson), FRUS 1947, Vol. III, pp. 223-230. なお、ハーヴァード演説後の7月23日、政策企画本部は最終報告「米国の立場からみた西欧復興問題の諸様相」を提出している。
  23. ^ FRUS 1947, Vol. III, pp. 225. 訳文はジョージ・ケナン、清水俊雄訳『ジョージ・ケナン回顧録(上)』、317頁より引用。
  24. ^ a b FRUS 1947, Vol. III, p. 228.
  25. ^ FRUS 1947, Vol. III, p. 229. 訳文はケナン『回顧録(上)』、321-322頁より引用。
  26. ^ "The European Crisis", Memorandum by the Under Secretary of State for Economic Affairs (Clayton), FRUS 1947, Vol. III, pp. 230-232.
  27. ^ Summary of Discussion on Problems of Relief, Rehabilitation and Reconstruction of Europe, FRUS 1947, Vol. III, pp. 234-236. 国務省執行事務局のウォード・P・アレン (Ward P. Allen) が残した覚書が、会議の内容を示す公的文書である。これ以外では、ケナン『回顧録(上)』第14章、アチソン『アチソン回顧録』第26章などが会議の様子を断片的ながら伝えている。
  28. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:284頁)
  29. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 290-291.
  30. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291-292.
  31. ^ Kennan, Memoirs 1925-1950, p. 342.(邦訳:321頁)
  32. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291.
  33. ^ Bohlen, Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  34. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:285頁)
  35. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222,293,295.
  36. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 72-74.
  37. ^ 鈴木『「封じ込め」構想と米国世界戦略』、71-72頁。
  38. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 285-28,288.
  39. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 85.
  40. ^ Memorandum of the Conversation, by the First Secretary of Embassy in the United Kingdom (Peterson), FRUS 1947, Vol. III, pp. 268-284.
  41. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 91-93.
  42. ^ トニー・ジャット (著)、森本醇(訳)『ヨーロッパ戦後史 (上) 1945-1971』(みすず書房、2008年)、119-120頁。
  43. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 99.
  44. ^ 読売新聞社編『20世紀 大戦後の日本と世界』、114-115頁。
  45. ^ 読売新聞社編『20世紀 大戦後の日本と世界』、116頁。
  46. ^ 石垣泰司 「戦後の欧州情勢の変化とフィンランドの中立政策の変貌」(『外務省調査月報』2000年第2号)、94-96頁。
  47. ^ 矢田俊隆編『世界各国史13 東欧史』(山川出版社、1977年)、462頁。
  48. ^ Carnations(『タイム』1948年2月9日号)。
  49. ^ 佐藤信一 1978, p. 129.
  50. ^ 鈴木『「封じ込め」構想と米国世界戦略』、73-74頁。
  51. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 106.
  52. ^ "Situation With Respect to European Recovery Program", Memorandum by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS 1947, Vol. III, pp. 397-405.
  53. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 107.
  54. ^ 佐藤信一 1978, p. 140.
  55. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 235. (邦訳:288頁)
  56. ^ 山極晃「1948年中国援助法の成立過程」(斎藤真、深谷満雄編『アメリカの対外政策決定と議会』に所収)、104頁。
  57. ^ 西本憲次 1949, p. 20.
  58. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 117.
  59. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、242頁。
  60. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 306.
  61. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 122-123.
  62. ^ 川口融『アメリカの対外援助政策』、15頁。
  63. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、15頁。
  64. ^ 佐藤信一 1978, p. 138.
  65. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 124.
  66. ^ 安藤次男「戦後アメリカの対外政策とヘンリー・A・ウォーレスの外交論」(『立命館法學』第127号、1976年)、274頁。
  67. ^ 佐藤信一 1978, p. 139.
  68. ^ 有田圭輔 1949, p. 20.
  69. ^ 奥村茂次「マーシャル・プラン」、213頁。
  70. ^ 佐々木卓也「ポ-ル・H.ニッツィと封じ込め政策の転換,1950-53年」『一橋論叢』第100巻第1号、日本評論社、1988年7月、97頁、doi:10.15057/12657ISSN 00182818NAID 110000315370 
    ケナンのドイツ再統一構想、通称「プログラムA」に関しては、佐々木卓也「ジョージ・F・ケナンとドイツ分割・再統一問題 一九四五-四九年」『一橋論叢』第93巻第2号、日本評論社、1985年2月、254-273頁、doi:10.15057/12923ISSN 00182818NAID 110007639907 
  71. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 109.
  72. ^ 川崎晴朗 「欧州共同体が接受した初期の代表部」(『外務省調査月報』2006年第3号)、79頁。
  73. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、19頁。
  74. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁より引用。
  75. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁。
  76. ^ United States Department of Commerce "A Supplement to the Survey of Current Business", Foreign Aid 1940-1951. 経済企画庁 『平成3年 年次世界経済報告』
    この表ではその名が現れていないが、『米国の対外援助 1953年 (W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953) 』によると、ユーゴスラヴィアも約0.5億ドルの援助を受けていた(奥村「マーシャル・プラン」、213頁)。ソ連と対立してコミンフォルムから除名された同国は、他の東欧諸国とは異なりワルシャワ条約機構に加盟せず、またOEECにはオブザーヴァーを派遣していた。
  77. ^ 秋元、菅『アメリカ20世紀史』、184頁。
  78. ^ (板垣.佐藤(1960), p. 103)。なお、この一覧で示されている割合は、「1948年から1952年6月までに131億5000万ドルが支出された」とする積算に基づく値であり、上記の国別援助額の表とは援助総額の算定方法が異なる。
  79. ^ 宮崎礼二 1998.
  80. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 97.
  81. ^ ECA長官は、米国内で不足している物資の調達を抑制し、余剰物資の調達を奨励することとされた。(板垣.佐藤(1960), p. 97)。
  82. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、20頁より引用。
  83. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 270-271.
  84. ^ Bohlen, Charles E., The Transformation of American Foreign Policy, New York, W. W. Norton & Co., 1969, p. 91.
  85. ^ 永田.マーシャル・プラン, p. 155-156.
  86. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、243頁。
  87. ^ 西本憲次 1949, p. 19.
  88. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 228. (邦訳:279頁)
  89. ^ 佐藤信一 1978, p. 86-88.
  90. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 303.
  91. ^ Minutes of a Meeting of the United States Delegation, Geneva, Switzerland, July 2, 1947, FRUS 1947, Vol. I, pp. 960-961.
  92. ^ (佐藤信一 1978, p. 139-140)
    ITO憲章(通称「ハバナ憲章」)の一部は「関税および貿易に関する一般協定 (GATT) 」として暫定的に発効し、約半世紀に及ぶ曲折を経て世界貿易機関 (WTO) 設立へと繋がった。
  93. ^ 陸井三郎「マーシャル・プラン」(『世界大百科事典 第20巻』(平凡社、1967年)に所収)、805頁。
  94. ^ 山極潔「現代のフランス」(『フランス史』(山川出版社)に所収)、522-523頁。対して廣田功は、マーシャル・プランは「危機的状態にあったモネ・プランを救い、近代化政策を軌道に乗せ」たと肯定的に評価している。廣田功「フランスの近代化政策とヨーロッパ統合」(廣田、森編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、142頁。
  95. ^ Milward, Alan S., The Reconstruction of Western Europe 1945-1951, London, 1983. ミルウォードとホーガンの主張の相違点については、河崎信樹, 坂出健「マーシャルプランと戦後世界秩序の形成 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、1-9頁、doi:10.14989/44518ISSN 09175393NAID 120000899357 を参照。
  96. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 287.
  97. ^ 『索引政治経済大年表 年表編(下巻)』(108頁)には、「4月10日 - 8月23日」とある。
  98. ^ The Secretary of State to French Foreign Minister (Bidault), FRUS 1947, Vol. II, pp. 1003-1004.
  99. ^ (油井.戦後世界秩序の形成, p. 305)。(板垣.佐藤(1960))には、「7月29日」とある。
  100. ^ The Acting Secretary of State to the Embassy in France, FRUS 1947, Vol. III, pp. 356-360.
  101. ^ Minutes of Meeting on Marshall "Plan" 3:00 P. M., August 22, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 369-372.
  102. ^ "Resume of the World Situation", Report by the Policy Planning Staff, FRUS 1947, Vol. I, pp. 770-777.
  103. ^ 法政大学大原社会問題研究所『社会・労働運動大年表』、481頁。
  104. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『社会・労働運動大年表』、491頁。






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