2005年-2010年
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「アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン」の記事における「2005年-2010年」の解説
2005年初頭、サポーター向けとは別の新プロジェクト「Musterhaus」を開始。 neubauten.orgにて定期購入者を集った。Musterhausプロジェクトは「より実験的かつ冒険的な、従来の活動では取り上げられなかった試みをバンドにもたらす」意図があり、ノイズミュージック的な大音量の作品から、長年にわたってバンドで用いられてきた卓上のスプリング楽器「バス・スプリング」をメンバーが思い思いに使うもの、オーケストラとの競演やテープコラージュなど多岐に渡った。プロジェクト最初のアルバム『Anarchitektur』は2005年5月に発表され、以後およそ3ヶ月おきにアルバムを発表。2007年3月、8枚目のアルバム『Weingeister』の発表をもって終了した。これらのアルバムは基本的には定期購入でしか手に入らなかったが、のちにneubauten.orgの通信販売で販売されるようになった。 2006年2月10日、サポーター向けプロジェクトPhase IIIが始動。neubauten.orgの中に設けられたサポーター専用のページからMP3形式ないしWAVE形式の音楽ファイルをダウンロードするという方法をとった。このアルバム『Jewels』は15曲で構成されており、2006年3月15日発表の『Ich komme davon』を皮切りに、2007年8月15日の『I Kissed Glen Gould』まで、ほぼ毎月15日(ないし16日)に1曲ずつ追加されていった。『Jewels』のコンセプトはブリクサの見た夢を題材にしたものであり、「メンバーがランダムに引いた3枚以上のカードに書かれたキーワードをもとに」楽器や音源を構築するという試みも行われ、実験的要素はもとより、これまでのノイバウテンの作品とは一線を画したミニマル・ミュージック的要素を強く持った作品となった。『Jewels』はのちにCDとして発売されている。なお、サポーター向けプロジェクトPhase IIIは2007年10月7日のサポーター・フォーラムの凍結と公開フォーラムへの移行をもって終了となり、サポーター向けコンテンツについても随時閉鎖となった。 2007年2月にはneubauten.orgにて小規模かつ「広域な」イギリスツアーを4月に実施することを発表。ハノーファーを皮切りにロックフェスティバルへの参加を含め4公演が行われた。 そして、2004年の『Perpetuum Mobile』以来4年ぶりの公式アルバム 『アレス・ヴィーダー・オッフェン(原題:"Alles wieder offen")を10月に発表した。『アレス・ヴィーダー・オッフェン』はツアー活動を通して制作された楽曲を主に収録する為、サポーターに対して作られた『Jewels』とは関連性のない作品である。また、発表は従来どおり個人レーベルである「Potomak」から行ったが、世界的な流通は(ミュート・レコードとの契約が終了したため)従来の流通経路を通さず小規模なレーベルからの発売となった。さらに後日、サポーター向けプロジェクトPhase IIIで配布されるアルバムが、この『アレス・ヴィーダー・オッフェン』に数曲の追加トラックを織り交ぜたものだということが判明した。『アレス・ヴィーダー・オッフェン』からはビデオクリップ『ナゴルノ・カラバフ(原題:"Nagorny Karabach")』が製作されている。サポーター向けプロジェクトPhase IIIに関連して、前述の『アレス・ヴィーダー・オッフェン』サポーター限定バージョンの他に、希望者に対しては『Jewels』の製作風景を収めたDVDが配布されている。日本では『アレス・ヴィーダー・オッフェン』と、80年代の5作品がCD化され発売された。 2007年11月にはブリクサがプロモーションの為来日。インタビューの中でブリクサは、ノイバウテンは『アレス・ヴィーダー・オッフェン』に続く新作を既に手がけており、完成に近づいていることを明かしたが、2014年の『LAMENT』の発表(後述)までスタジオアルバムは一切発表されなかった。 その後2008年3月から断続的にツアーを行っており、活動30周年となる2010年も欧州を中心にツアーを行っていた。2010年10月には『Strategies Against Architecture IV』が発売された。2002年から2010年までの活動を総括したこの作品も、2枚組という容量になった。なお、ミュート・レコード時代の音源(『Perpetuum Mobile』)が含まれているため、発売はミュート・レコードからとなっている。
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2005年 - 2010年
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「ソニック・スクリュードライバー」の記事における「2005年 - 2010年」の解説
2005年からの新シリーズでは音を出しつつ青色の光を放つソニック・ドライバーが登場し、主に9代目ドクターと10代目ドクターが使用した。ソニック・ドライバーは非常に破損しやすく、玩具職人アラスデアは新たなソニック・ドライバーの模型と金型を製作するようシリーズの制作陣に依頼されている。持ち手は銀色であったが、シリーズ4からはクリーム色に変更され、最終的に破損するまではこのバージョンが使用された。ソニック・ドライバーを万能な道具として使うべきではないとしたネイサン・ターナーとは対照的に、新シリーズの製作総指揮ラッセル・T・デイヴィスはソニック・ドライバーへ多数の機能と出番を与えた。ただし、先述のデッド・ロック・シールや木に対し通用しない設定も加えられた。 操作はボタンを押すことで可能である。10代目ドクターが病院のX線装置の出力を増幅させるために使用した際にソニック・ドライバーが燃え尽きてドクターは悲しむことになったが、劇中終盤で同型の新しいソニック・ドライバーが手に入った。なお、これは先述の柄がクリーム色のソニック・ドライバーの登場よりも1シリーズ前である。
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2005年 - 2010年
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「ラーディカー・アープテー」の記事における「2005年 - 2010年」の解説
2005年、ラーディカーは大学在学中に『Vaah! Life Ho Toh Aisi!』に出演した。彼女の演技を舞台『Bombay Black』で見たラーフル・ボース(英語版)は、映画監督のアニルッダー・ロイ・チョードリー(英語版)に『Antaheen』のヒロイン役として彼女を推薦し、ラーディカーは同作でジャーナリスト役を演じた。 2009年にスミトラ・バーヴェ&スニール・スクサンカール(英語版)の『Gho Mala Asla Hava』でマラーティー語映画デビューし、後に彼らが製作したヒンディー語映画『Mor Dekhne Jungle Mein』にも出演している。同年にはジャティン・ウェイグルの『Ek Marathi Manoos』、アーカシュ・クラナの『Life Online』、アモル・パレカル(英語版)の『Samaantar』にも出演している。2010年にマノージュ・プレムナート(英語版)の『The Waiting Room』、ラーム・ゴーパール・ヴァルマ(英語版)の『Rakta Charitra』『Rakta Charitra 2』に出演した。
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2005年 - 2010年
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「ファーガル・デヴィット」の記事における「2005年 - 2010年」の解説
2005年10月に英連邦王座を獲得し、アメリカのNWA系の団体に出場するため渡米、その後同団体での試合が新日本プロレスLA道場(以下「NJPW」)の関係者の目に留まりスカウトを受け、同年11月末にロサンゼルスのNJPWの道場に入門する。その後、社長(当時)のサイモン・ケリー猪木から誘われて2006年3月初来日して4月に新日本プロレスに正式に入団。同月16日、エル・サムライ戦でヤングライオンとして新日本プロレスでデビューを果たす。 その後はC.T.Uを経てRISEに入り、2008年1月27日に田中稔とのタッグチーム「プリンス・プリンス」でTAKAみちのく・ディック東郷を破り、IWGPジュニアタッグ王座を獲得した。一度は獣神サンダー・ライガー、AKIRA組に敗れ王座から陥落したが、同年7月、ライガー・AKIRA組との再戦で勝利し第21代Jr.タッグ王者に返り咲いた。 2009年、田口隆祐とのタッグチーム"Apollo 55"を結成し、モーターシティ・マシンガンズ(アレックス・シェリー・クリス・セイビン組)を破って第24代Jr.タッグ王座に戴冠。11月に行われたG1 TAG LEAGUEではApollo 55でエントリーし、Bブロックを2位で通過。準決勝で中邑真輔、矢野通組を破り決勝へ進出。決勝でジャイアント・バーナード、カール・アンダーソンに敗れたが、準優勝の成績を残した。 11月29日、ZERO1の天下一Jr.に初参戦し決勝で日高郁人に敗れたが、準優勝の成績を残した。 12月にはSUPER J-CUP5th STAGEに出場、決勝で丸藤正道に敗れた。 2010年春より合宿所住まいから独立したため、他の外国人レスラー同様の契約選手に移行した。6月、BEST OF THE SUPER Jr.に出場し決勝で飯伏幸太を破り、初優勝を飾る。同大会の前に実家に帰っていたところ、アイスランドの火山噴火の影響で日本行きの飛行機が飛べず(2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火による交通麻痺)、直前まで大会への参加そのものが危ぶまれる中での勝利だった。 6月19日、IWGPジュニアヘビー級選手権試合で丸藤を破り初めてJr.ヘビー王者を獲得した。8月、G1 CLIMAXに初めて出場した。 10月11日、両国国技館大会でゴールデン☆ラヴァーズ(飯伏、ケニー・オメガ組)に破れ、Jr.タッグ王座を失った。12月、東京スポーツ主催のプロレス大賞において10月11日の試合でJr.タッグの試合では初となるベストバウト賞を受賞した。
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2005年 - 2010年
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「日本プロバスケットボールリーグ」の記事における「2005年 - 2010年」の解説
2005年(平成17年)3月24日 - 日本プロバスケットボールリーグ設立準備室を株式会社日本プロバスケットボールリーグとして法人化。河内敏光コミッショナーが社長を兼任。 4月4日 - さいたまがチーム名を「埼玉ブロンコス」に改める。 4月13日 - 新潟と埼玉の日本リーグ機構脱退が正式に承認された。 5月23日 - 大阪ディノニクスが会員資格をヒューマングループに譲渡。チーム名も「大阪エヴェッサ」とする。 6月6日 - 第1回bjリーグドラフト会議開催。26名の選手が指名された。 10月13日 - 富山と高松の2006-07シーズンからの新規参入を発表。 11月5日 - bjリーグ最初のシーズンが開幕。 2006年(平成18年)1月27日 - アーリーチャレンジ選手制度施行。 4月30日 - 大阪エヴェッサがbjリーグ初代王者となる。 9月25日 - 韓国バスケットボールリーグ(KBL)王者との対抗戦「bj-KBL チャンピオンシップゲームズ」の第1回を開催。 10月5日 - 沖縄の2007-08シーズンからの新規参入を発表。 11月30日 - 福岡の2007-08シーズンからの新規参入を発表。 12月5日 - サークルKサンクス 週間MVP・月間MVP(2010-11よりローソン 週間MVP・月間MVP)創設 2007年(平成19年)1月27日 - 第1回bjリーグオールスターゲームが宜野湾市立体育館で開催される。 5月1日 - 事務所を現住所に移転。 9月19日 - 河内敏光が社長を退任。コミッショナーに専念する。 9月6日 - 浜松と滋賀の2008-09シーズンからの新規参入を発表。 10月30日 - 東西カンファレンス制最初のシーズン開幕。 2008年(平成20年)1月30日 - 育成指定選手制度施行。 4月22日 - 最初のフリーエージェント権取得選手25名を公示。FA権を行使したのは9名で、うち2名が移籍となった。 9月4日 - 京都の2009-10シーズンからの新規参入を発表。 2009年(平成21年)5月27日 - 秋田の2010-11シーズンからの新規参入を発表。2チーム目の東北バスケチーム誕生となり、仙台との東北ダービーが実現決定。 8月19日 - 島根と宮崎の2010-11シーズンからの新規参入を発表。 2010年(平成22年)4月21日 - 次世代リーグ発足へ向けて日本バスケットボール協会(JBA)・日本バスケットボールリーグ(JBL)との覚書調印。同時にJBAにリーグ公認申請。 5月14日 - 高松の運営会社、スポーツプロジェクト高松が自己破産を申し立てたが、後日取り下げ。 8月26日 - 岩手・千葉・神奈川・長野の2011-12シーズンからの新規参入を発表。4チームの参入は史上最多。 11月16日 - 2010年アジア競技大会において、石崎巧(島根)がbjリーグ選手として初めて国際大会出場。
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2005年 - 2010年
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「Taka (ONE OK ROCKのメンバー)」の記事における「2005年 - 2010年」の解説
高校を1年で中退後、父親から勘当されて自活をはじめ、青山の飲食店で厨房周りのアルバイトをしながら、大阪に定期的に通って音楽学校でギターやパソコンを習う。 同時にSFC時代の友人二人とエレクトーン+クリアギター+ヴォーカルの3人編成のバンド「CoM (Chivalry of Music)」を組み、マルーン5のカバーなど、R&Bやバラード曲中心のライブ活動を始める。 そのライブを、ONE OK ROCKを組んだばかりのToruが共通の友人を介して見に訪れ、Takaの声と歌唱力に衝撃を受け、その場でヴォーカルに勧誘。日に何度も届くメールの他、次のライブにもバイト先にも現れるToruの熱意に押し切られる形で承諾。 そして練習に参加、自分が本来求めていたバンド像(初めてライブハウスで見た時のRIZE)に近いものを感じ、スタジオに通うようになる。 やがて並行していたすべての音楽活動を終わらせ、ONE OK ROCKに賭ける決意を固める。 2007年4月のメジャーデビューからまる2年後の2009年4月、Alex (G.) が脱退。それに伴う活動休止を経て、残った4人で活動を再開した翌年の2010年、結成5年目に、武道館公演を敢行。応援してくれていた母親はもちろん、衝突の多かった父親も招待し、両親への謝罪と感謝の気持ちをストレートに歌った『Nobody's Home』を演奏した。
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