運用と廃車
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「神戸市交通局200形電車」の記事における「運用と廃車」の解説
200形は1964年春から夏にかけて順次登場し、須磨車庫に配属されて300形・400形単車の置き換えに充当された。しかし、運転側・利用客側の双方から嫌われ、さらに、100形が引き起こした人身事故の影響で、フェンダーストライカーが未装備の同形式も同じく休車状態となってしまった。 その後再び運用に復帰すると、須磨車庫所属の各系統に充当された。中でも、9系統(鷹取町 - 東尻池2丁目 - 五番町7丁目 - 湊川公園西口 - 新開地 - 三宮阪神前 - 脇浜町)によく投入されたため、100形がよく投入された和田車庫所属の 12系統・13系統(脇浜町 - 三宮阪神前 - 神戸駅前 - 吉田町1丁目 - 東尻池2丁目 - 五番町7丁目 - 湊川公園西口 - 新開地 - 三宮阪神前 - 脇浜町。12系統はこの正順、13系統は逆順)が並走する東部国道線(三宮阪神前 - 脇浜町)では両形式がすれ違う場面がよく見られるようになり、沿線の雰囲気から大阪市電三宝線を彷彿させる風景が出現した。 100形同様、路線縮小時に最初の廃車対象として挙げられ、1968年4月21日の第一次路線縮小(須磨駅前 - 衣掛町、三宮阪神前 - 脇浜町、楠公前 - 兵庫駅前、湊川公園西口 - 新開地、有馬道 - 平野)に伴い、同年5月1日付で全車廃車された。廃車後、須磨沖で漁礁として沈められた車両もあったが、学校や民間施設に払い下げられた車両もあった。
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運用と廃車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/31 07:16 UTC 版)
「神戸市交通局100形電車」の記事における「運用と廃車」の解説
100形は1964年春から順次登場し、石屋川、和田の両車庫に配属されて300形・400形単車の置き換えに充当された。 しかし、乗務員からは「運転台が狭くて運転しにくい」、「アンダーパワーで登坂力不足」などと不満の声が上がった。されに追い討ちをかけたのが、同車が引き起こした人身事故であった。フェンダーストライカーを装備していなかったゆえに、神戸市電では大正末期以来約40数年ぶりという死亡事故となったため、100形・200形の両形式は運行停止となり、一度置き換えたはずの単車が復活するという皮肉な事態に陥ってしまった。 その後、一旦は運用復帰したものの、路線縮小時の廃車は大阪型からとの方針が決定。1968年4月21日の第一次路線縮小(須磨駅前 - 衣掛町、三宮阪神前 - 脇浜町、楠公前 - 兵庫駅前、湊川公園西口 - 新開地、有馬道 - 平野)に伴い、同年5月1日付で全車廃車された。 廃車後、須磨沖で漁礁として沈められた車両もあったが、学校や民間施設に払い下げられた車両もあった。
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運用と廃車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/06 15:46 UTC 版)
「熊本市交通局380形電車」の記事における「運用と廃車」の解説
本系列の車両は、坪井線にある一部のカーブにて上下線の間隔が不十分ですれ違えないため、坪井線を通る4系統(上熊本駅前 - 広町 - 体育館前)では使用禁止であった。また川尻線(7系統)は一貫して四輪単車での運行であったため同線にも入線しなかった。従って本系列はそれ以外の系統、特に2系統(現・A系統)と3系統(現・B系統)で用いられた。 ワンマンカーの1000形は試運転や乗務員訓練を経て1966年(昭和41年)2月1日よりワンマン運転を開始した。当初の使用系統は2系統。その後、在来車でワンマンカー改造された1200形や1350形が登場するのに従い同年6月1日から3系統、8月1日からは1系統(田崎橋 - 子飼橋)にもワンマン運転が拡大している。当初、ワンマン運転は料金前払いの前乗り・後降り方式を採っていたが、11月1日より後払い制の後乗り・前降り方式となった。 本系列4形式30両の投入と単車専用の川尻線廃止により熊本市電の単車は1968年(昭和43年)までに全廃された。しかしながら本系列についても、在来車と性能があわない(本系列の主電動機出力29.84キロワットに対し在来車は38キロワットで統一)、使用線区に制限がある、さらには乗客数の伸び悩みといった問題から余剰をきたし、ツーマンカーの中から1968年3月16日付で計8両 (381・384・385・394・397・398・403・405) とほかの17両から常時2両ずつの計10両が休車となった。この休車となった8両は翌1969年(昭和44年)4月5日付で廃車された。 1936年製と在来車よりも古い本系列は、状態が悪くなる車両が続出したこともあり1970年(昭和45年)以降、路線の縮小にあわせて廃車が進行する。まず1970年4月1日付で10両 (382・383・386・391・393・395・396・399・401・402) が廃車。同年6月20日付でさらに7両 (380・387・388・389・390・392・404) が休車となり、翌1971年(昭和46年)4月15日付で廃車されて380形・390形・400形はいずれも形式消滅した。 1972年(昭和47年)2月末限りで1系統が廃止されると1000形も余剰となり、同年4月1日付で3両 (1001・1002・1005)、8月22日付で残り2両 (1003・1004) も廃車されてこちらも形式消滅となった。
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運用と廃車
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「VBZ Be 4/4形電車 Karpfen」の記事における「運用と廃車」の解説
Be 4/4 + B4 の編成で各系統で運用されたが、Be 5/6 Cobraの投入により2006年12月で全車が運用を離脱し廃車となった。これにより、ボギー車がトレーラを牽引する伝統的なトラムの運行形態は、チューリヒでは全廃となった。 廃車後は、チューリヒトラム博物館(Tram Museum Zürich)に動態保存された1編成を除き、2007年にウクライナのヴィーンヌィツャ市に売却された。
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運用と廃車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 15:14 UTC 版)
「東京都交通局5500形電車 (軌道)」の記事における「運用と廃車」の解説
これら7両は、同じく試作機器を搭載する6500形6501および7000形7020と共に機器の特殊性から芝浦にあった交通局車両工場に最も近い三田車庫に配置され、しかも都内有数の繁華街である銀座を経由する1系統(品川駅前 - 三田 - 銀座四丁目 - 日本橋 - 須田町 - 上野駅前、都電本通線および上野線の全線に相当)限定で運用された。 正規のPCCカーである5501においては、高額の特許(ライセンス)使用料がネックとなって艤装図面を購入しなかったことにより、制御器限流リレーの不確実動作が頻発した ほか、主電動機・機器室への冷却風量不足などが問題となった。台車も製造ミスによるビビリ振動が発生するなど、トラブルが当初頻発した。これらのトラブルは日本国内の他社局に純正PCCカーの製造を断念させる一因となった。 また、5501のペダル式マスコンによる力行・制動操作は、この方式を採用するのが同車のみであったために習熟する機会が少なかったことなどから乗務員に敬遠され、1960年に車両工場で通常の縦軸マスコンに改造された。 本形式の集電装置は当初菱枠パンタグラフだったが、5503は新造後間もない1956年3月にZパンタグラフへ換装、その後1958年6月以降5503を含む全車がビューゲルに換装された。 なお、他形式が黄色に赤帯の塗色に変更された時期に、本形式についても同色に変更されている。 本形式は製造後12年から14年の間、東京都電の看板電車として運用されたが、1967年12月の第1次都電本格撤去に伴う1系統廃止の際、特殊な機器を備え運転も保守も共に難しく、また車体が大きく他車庫・他系統への転用が難しかったことから、車体寸法面で運用可能系統の制約はないものの、本形式と同様の事情で運転・保守に難のある6501・7020と共に廃車された。 その後、トップナンバーである5501については1系統ゆかりの地である上野公園にて保存展示の措置がとられたが、それ以外は全て三田車庫で解体処分された。 こうして保存された5501であったが、上野公園では野外で屋根を設けず展示され、しかも塗装の塗り替えなどのメンテナンスも満足に行われなかったため、時が経つにつれて荒廃が進んだ。 そのため、1989年に荒川電車営業所に移送され、1991年に一度修復を行い、この際に塗色が登場時に近いものにされている。しかし、それからも歳月が経過し、倉庫代わりとなって吊り手などの部品を愛好者向けに売却、荒川車庫の片隅に雨ざらしで放置され、車体が相当に腐食していた。そのため、東京都交通局では再度修復の上、荒川車庫内に専用スペースを設けて静態保存することとなった。 これに伴い荒川車庫から2007年3月中に搬送され、車体を修復の上、同年4月に荒川車庫隣の展示予定スペースに搬入、5月26日より同所の「都電おもいで広場」にてギャラリーを兼ねた形で7500形7504号とともに土・日曜日、祝日、振替休日のみ公開している。 ギャラリーとして使用することから、車内は運転台の片方を残して座席などはすべて撤去されているが、残された運転台については登場当時のペダル式に復元されている。また、来場者のために、運転台の各種機器の名前を記した案内板、昭和30年代の東京の風景のジオラマ、懐かしの都電の乗車券類の展示やビデオ上映、家庭用エアコンが設置されている。 2019年5月に再塗装が実施され、車体色が黄色地に赤帯へ変更された。
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運用と廃車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 13:50 UTC 版)
121形は甲子園線の納涼電車として運転を開始した。納涼感満点の車両は乗客から好評をもって迎えられ、会社側から見れば必要最小限の改造経費で大きなPR効果を挙げることができた。しかし、冬季に運用に就かずに留置するだけで車両運用上不便でもある為、1937年春には通年で使用できるように取り外し式の鉄板の腰板と引き違い式のガラス窓、ドアも窓ガラスのついたものを準備し、網板の夏姿と容易に取り替えられるようにしたほか、車内にはヒーターを取り付けた。同時に、台車及び電装品を同年廃車となった61形65・66のものと交換、翌年登場した123・124のものを先取りする形で装備した。 121・122が好評であったことから、1938年に123・124が登場した。この2両は前述のとおり121・122の運用実績にあわせて登場したことから脱着可能な側板などの改良が施された。また乗降口は3扉となり、定員も40名に増加した。座席ヒーターも取り付け済みとなっている。 1937年以降も、夏季は側板を取り替えていたが、取替えに大変な手間が掛かる事、夏姿で夕立が来たりするとその時点で予備車と交代するなど、運用上でも不便な面が目立つようになってきたために、後には夏でも冬姿で運用することが多くなった。 121形は、その後も国道線でも運用されたが、もともと中古車体を流用していてかつ車体構造も特殊である事、またクロスシート車で増加した乗客にも対応しにくい為、201形で置き換えることを計画した。しかし、肝心の201形の製造認可が下りないまま休車状態となり、戦後は尼崎車庫の片隅で留置されたまま再起することなく、121・122・124の3両が1954年3月に廃車され、残る123も1956年9月に無蓋電動貨車の121に改造されて、ユニークな「アミ電」121形は形式消滅した。
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