運用と変遷
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1959年8月6日より運用を開始した。登場時は2000型2両を基本として、主に4両編成で普通や区間急行を中心に運用された。1次車24両が出そろい、まとまった編成が確保できたことから、翌1960年3月に京阪線のダイヤ改正が実施され、枚方市駅 - 天満橋駅間の区間急行は昼間時は本系列の限定運用となった。この区間急行はその性能を生かして、同区間を停車駅が9駅少ない急行(当時の駅数)より5分30秒長いだけの27分30秒で結んだ。 また宇治線の三条駅 - 宇治駅の列車(宇治線内折り返し列車の一部を含む)も昼間時は原則的に本系列限定の運用となった。ただし当時設定されていた宇治 - 奈良電気鉄道線(後の近鉄京都線)直通普通には性能や車両限界の相違から2200系などと同様に運用不可能だった。しかし1962年に中書島駅構内付近で脱線事故を起こし、本系列はごく僅かな期間であるが宇治線での使用を中止したことがあった(直ちに解除)。なお、交野線への入線は当時の変電所容量の関係で全電動車両の入線ができなかったため、あまり運用実績はなかった。 1966年度製造の車両は、混雑緩和を目的に扉付近の座席を短くし、立席スペースを増やしているほか、ドアエンジンが変更された。 この時期、2000型の前頭部(前照灯の上)には滑り止めに由来する「砂地処理」が施されていたが、1970年代初期にこの施工は取りやめられた。 1971年には、フランス・フェブレ社製のシングルアーム型パンタグラフを試験的に2000型1両に装着した。これは(路面電車以外の高速鉄道向けでは)日本で初の事例だったが、採用には至らず、現品は製造元に返された。 2100型のうち、最初に製造された5両は、将来の電動車化を前提に付随車として登場したが、最終的に電動車化は断念され、1972年から1973年にかけて2150型に改番された。この経緯は、当初全電動車方式による高加減速を意図したものの、後に将来の電動車化を想定した付随車を組み込み、最終的に電動車化は断念された形となった国鉄101系電車と類似する。また、乗客の増加に伴って編成を長くする必要が生じたため、2000型の最後の10両から運転台が簡易撤去され、2100型に組み込まれた(運転台・車掌台の仕切りはそのまま残され、乗務員室扉は溶接しただけで、前照灯も撤去されなかった)。なお、付随車が挿入された編成については高加減速ではないため、同じ2000系であっても2000系限定運用には就かず、旧型車と同様に急行や臨時特急、および定期特急での特急車の代走などでも使用した。当時は方向幕がなかったため臨時特急では正面に鳩マークと「臨」標識(1970年代前半頃までは左右両方に表示。1970年代中頃以降は左右いずれかの片方のみに表示)を取り付けていた。 1971年6月20日のダイヤ改正で区間急行は大和田駅で特急待避を行うダイヤに変更され、本系列の限定運用は解除された。ただし、その後も本系列はその性能から4 - 7両の編成で各線の普通列車を中心に運用された。また臨時列車の淀屋橋駅 - 宇治駅間直通臨時急行「宇治号(その他の列車愛称であった時期もあり)」で6両編成で運用したことがある。当時の宇治駅は最大6両編成までの対応だった(ただしホームは5両編成分の長さであった)。 1971年には、2200系の編成組替で余剰となった制御車2251~2253の3両が運転台を簡易撤去して2000系に組み込まれ、翌1972年に2150型2156~2158に改番されて正式に2000系に編入され、本系列は総計103両となった。 この間、ATS・側面種別表示幕・列車無線の取付の改造がなされている。
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