運用とソ連による接収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 09:17 UTC 版)
「マウス (戦車)」の記事における「運用とソ連による接収」の解説
1945年に入り、赤軍がドイツ本土に侵攻してくることが確実となると、クンマースドルフ試験場の試験車両にも実戦投入できると判断されたものには再整備が行われた。エンジンを損傷して保管されていたマウスの試作2号車もこれを受けて同年2月から損傷したエンジンを高速艇用のエンジンを転用したダイムラー・ベンツ製の液冷ディーゼルエンジンに交換すると共に操向装置を新設計の電気式のものに変更した。この換装作業はシュコダ社によって行われている。更に、クルップ社及びアルケット社には「可能な限り早期にマウスの生産を再開すべし」との命令が下された。 1945年4月末、試作2号車はベルリンに迫る赤軍を迎撃すべく出撃し、クンマースドルフ試験場から北東に約14km離れたツォッセン(ドイツ語版)郊外に設けられたドイツ軍駐屯地の敷地内にある旧捕虜収容所(Stammlager Zossen:1945年当時は最高司令部関連設備として使用)付近にある、通称“ヒンデンブルク広場(Hindenburgplatz)”に配置され、司令部の防衛に充てられた。 程なくツォッセン近郊に赤軍が迫ったため、駐屯部隊および防衛部隊は撤退を決意したが、マウスは機関に不調が発生し、更に燃料不足により行動不能の状態となった。機関故障を修理できたとしても燃料補給のあてがなく、敵部隊が間近に迫っているために回収作業も時間的に不可能と判断され、赤軍に鹵獲されることを避けるために爆破処分された。 その後、試作1号車はクンマースドルフ試験場の西地区でほぼ無傷で放置された状態で、2号車はツォッセン郊外にて車体部全損の上、砲塔が車体から外れた状態で赤軍に鹵獲された。赤軍機械化装甲部隊司令部はマウスを本国へ移送することを決定、1号車の車体にほぼ原型を留めていた2号車の砲塔を組み合わせて走行可能なマウスを製作することとした。2号車の砲塔を回収するためには、6台の接収した18トンハーフトラックが必要であった。 こうして1号車の車体に2号車の砲塔を搭載したマウスは1946年4月末にソ連へと移送され、5月4日にはモスクワに到着し、近郊の装甲車両中央研究所(ロシア語版)クビンカ試験場に搬入されて各種の試験に供され、その後は試験場に隣接する博物館の収蔵品とされた。 尚、装甲車両中央研究所及び附属博物館は最重要軍事機密施設として外部には公開されていなかったため、ソ連の一部関係者以外がマウスの現存を知ったのはゴルバチョフ政権におけるグラスノスチ以後のことである。 マウスは現在もクビンカ戦車博物館で保存・展示されている。
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