運用とその後
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製造当初は福岡 - 大牟田間で使用された。1945年(昭和20年)8月8日、宮の陣駅付近と筑紫駅の二箇所において、それぞれ200形の列車が米軍機の機銃掃射を受け、前者は数名の乗客が死傷し、後者は同じ現場の他の列車と合わせて64名が死亡、100人強が負傷した(筑紫駅列車空襲事件)。戦後の1948年(昭和23年)から1,500Vに昇圧された甘木線でも使用されるようになった。 1950年(昭和25年)に2両固定編成化が実施されたのち、1952年から1955年にかけて3両固定編成、2両固定編成各4本、増結用予備車4両(209・211・217・220)の体制となった。これにより形式の項で述べた改造が実施されている。増結予備車4両ものちに他の編成と固定編成を組み、最終的には4両編成3本、3両編成4本、2両編成3本となった。 車体長が短いことから輸送力不足をきたし、1969年(昭和44年)以降、橋梁の重量制限があった甘木線専用となり、甘木線系統の乗り入れ区間(原則として宮の陣駅 - 花畑駅間、朝ラッシュ時のみ花畑以南の大善寺駅まで)を除いて大牟田線では使用されなくなった。その後、前照灯のシールドビーム化、一部車両で外板の張替え・扉拡幅の改造が行われた。 その後も甘木線では長期にわたって使用されたが、1989年(平成元年)、甘木線の線路改良が実施されたことで600形に置き換えられ、4月29日にさよなら運転を行った後216編成を残し廃車となった。216編成は動態保存の形で残され、主に10月の甘木線の臨時電車コスモス号に運用されたが、1993年(平成5年)に廃車解体された。 本形式唯一の現存車として、モ211の前頭部が個人により保存されている。
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運用とその後
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「アクロン (飛行船)」の記事における「運用とその後」の解説
アクロン号は1931年に就役したが、翌1932年には2度の破損事故を起こし、それぞれ2/1ヶ月の修理を余儀なくされた。さらに地上作業員2名が死亡する事故も発生させており、実際の運用では突風による問題が多いことが認識された。 続く1933年4月4日12時30分頃、ニューイングランド沖合にて突風に巻き込まれて墜落し、生存者3名のみで乗員73名が死亡する事故となり、これは飛行船史上最悪の死亡事故となった。天候を無視した過酷な訓練が原因とされる。この墜落事故によって同乗していたウィリアム・A・モフェット海軍少将(“アメリカ海軍航空隊の父”と呼ばれる人物だった)も殉職した。生存者4名は現場に居合わせたドイツの船により救出されたが、そのうち1名は後日亡くなった。死亡者が多数であった原因には、任務上、洋上長時間飛行が前提であったにも関わらず、乗組員用の救命胴衣を搭載していなかったこと、救命いかだも1艘しか装備されておらず、またそれを使用する時間の余裕がなかったことが大きいとされる。 アクロン号の後、1935年にメイコン号も墜落事故を起こし、アメリカ海軍が所有していた大型硬式飛行船の機体は1932年に退役済みのロサンゼルス (ZR-3) を除いてすべて失われている。ヒンデンブルク号爆発事故も重なり、硬式飛行船の建造は行われることは無くなった。 その後、アクロン号の教訓からアメリカ海軍とグッドイヤー社は骨格を持たない小型の軟式飛行船の増産に着手する。それらは主に沿岸での対潜哨戒任務に用いられ、第二次世界大戦中を通じて160機以上が運用された。
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