建設に至るまで
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古来より琵琶湖を利用した湖上輸送が発達してきたが、道路交通の発達によりかつての湖上輸送が顧みられることが少なくなった。琵琶湖が滋賀県を東西に二分する存在となり、水資源や観光・漁業などの観点以外からは琵琶湖の存在が県勢の発達の障害になった。特に湖西地域は県の政治、文化、経済の中心から離れて停滞不振となり、県内の中では最も後進的な地域だったとされる。県民1人あたりの所得で比べると、湖西地区は県平均の76%程度だった。そのため、滋賀県は地域格差を是正すべく琵琶湖の対岸どうしの距離が最も短い滋賀郡堅田町と野洲郡守山町(いずれも当時)の間に架橋することを計画した。 1956年(昭和31年)7月に「木ノ浜堅田間架橋促進期成同盟会」が設立され、さらに滋賀県知事の諮問機関である滋賀県観光事業審議会において琵琶湖横断橋の架設と周辺の観光施設の整備を重点的に取り上げるよう要請があった。ここで架橋運動が盛んになり、滋賀県ははじめに琵琶湖大橋架橋の前提となる滋賀県道503号守山堅田線の認定に至った。滋賀県は路線の認定と並行して、架橋に関わる調査を進め、建設省や日本道路公団(いずれも当時)に対して琵琶湖大橋を有料道路として建設・管理するよう要請した。しかし、1962年(昭和37年)4月になり滋賀県が独自に有料道路として建設するよう方針を変更した。 なお、1960年(昭和35年)の琵琶湖総合開発協議会で堅田・守山間に締切ダムを設置し、その上に道路を通せば経費削減できるという意見が出されたが、滋賀県はダムによって琵琶湖を分断し、湖の水位低下することは反対とし、ダム建設とは分離して架橋計画を進めた。 地質の特徴として、架橋地点付近は湖底下11 - 23 m厚の沖積層は軟弱な粘土質のシルト層であり、この下の新期洪積層は密な細砂層という構成の比較的安定した支持層であった。一方で、取付道路の土質は堅田側では一般的に砂質シルトで安定しているが、守山側では橋台付近では非常に不安定であった。 経済調査や地質調査などの諸調査がまとめられ、これに基づいて技術的および経済的に架橋の可能性が明確となった。 橋梁の幅員は、橋を通る路線は当時一般県道であったが、国道並みの水準に整備する方針となった。また、開通当初の1日あたりの交通量は500台、22年後(当時の償還計画完了年)には3500台と予測されており、この需要にこたえられる幅員にする必要があった。その結果、道路構造令に基づき車道幅は往復2車線分で6.5 mと決定された。また、計画当初は両側に歩道を1.5 m ずつ整備することが考えられていたが、歩行者交通量の需要が少なく償還計画に負担となること、また仮に歩行者が多く自動車等の交通に支障を与えることとなれば有料道路の性質上歩行者を通行止めにすることができることを理由として設置しないことに決まった。歩道を設置しないことで、両側に路肩を0.25 mずつとって全幅7.0 mと決定された。 縦断線形は航路空間の確保が考慮に入れられた。当時、湖上で最大の船舶であった「はり丸」について検討した結果、幅120 m・高さ20 mの桁下余裕高を堅田側に設ける必要があると分かった。また、最小桁下余裕高は湖面の異常上昇1.5 m、波浪2.0 mの計3.5 mが必要と想定され、これをもって設計すれば遊覧船以外の船舶のほとんどが航行可能だと判断された。 橋梁の上部構造は内外からの見た目や施工の容易さから上路式(デッキ型式)が選定された。主径間部は三径間連続鋼床版箱桁として、径間割りは90 m+150 m+90 mとし、側径間は42 mの単純合成桁を24径間設けることで決定した。下部構造は地盤が比較的軟弱なため、軽い構造を採用した。また、橋脚はラーメン構造で美観を保護するため隔壁を設けることとなり、基礎は軟弱な地盤を考慮して杭基礎が採用されることとなった。 琵琶湖大橋の建設は初め滋賀県の総務部企画課と土木部道路課が担当にあたった。その後、1962年(昭和37年)10月1日に「琵琶湖大橋建設室」が設置された。
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建設に至るまで
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新潟県内各地にはアマチュア野球の公式戦が開催可能な野球場が整備されている。しかし、いずれの施設も市町村が所有且つ運営管理を行っているものであり、かつてプロ野球の公式戦が年に数回開催されていた新潟市中央区の鳥屋野運動公園野球場、長岡市の長岡市悠久山野球場、柏崎市の柏崎市佐藤池野球場などは老朽化の著しい進行や設備そのものの陳腐化、照明設備の未整備が影響し、プロ野球やアマチュア野球などの大きなスポーツイベントを開催するための設備が不十分であった。 県内では1982年の上越新幹線開通を機に、既存施設に照明設備を増設してプロ野球公式戦をナイターで誘致する構想が浮上したことがあるが、前述の問題や周辺環境によって頓挫した経緯がある。県内ではこうした状況から「プロ野球公式戦や大規模なアマチュア大会を開催できる、3万人収容規模の野球場」の建設を求める意見がかねてから上がっていたものの、事態は一向に進展しなかった。 1990年、県が整備を進めている都市公園「鳥屋野潟公園」のうち、南東側の地区がスポーツゾーン(運動公園、現在の新潟県スポーツ公園に該当するエリア)として整備されることが決定。園内には陸上競技場(現在の新潟スタジアム)と野球場を建設し、2009年の夏季国民体育大会(トキめき新潟国体)のメイン会場として整備される方針が決まった。しかし直後に起きたバブル経済の崩壊によって、整備計画は流動的なものとなった。 その後、1995年2月には「1998年春に両施設着工、2000年度中の竣工」を目標とする方針が決まったものの、1997年2月、慢性的な県の財政難の影響から、野球場と同時の竣工を予定していた陸上競技場を2002 FIFAワールドカップの試合会場として優先的に整備し、野球場はW杯開催後に着工する方針に転換されたことから、野球場の整備計画は再び暗礁に乗り上げた。これに乗じ、県内政財界の一部からは野球場をドーム球場として整備するよう求める声が上がるなど、事態は一時混迷を極めた。 2001年春には新潟スタジアムが竣工。県はこれを受け、W杯開催を前にした2002年春に「県立野球場建設構想」を発表した。先述した県内政財界からの要請を受け、開場当初は屋外型で建設した上で、将来的には屋根を架設してドーム球場に改築する方針が定められ「2005年度中の着工、2008年春の竣工」を目指すとした方針を決定した。着工を前にした2003年春から2004年夏にかけて、当時県知事であった平山征夫は自ら日本野球機構(NPB)やプロ野球各球団を訪れ、新潟での公式戦やオールスターゲーム開催を要請するなど積極的にトップセールスを行い、その結果2008年シーズンのオールスター開催が一旦決定した。さらに同時期勃発したプロ野球再編騒動を受け、NSGグループなど県内政財界が中心となって「新潟に県民球団を創る会」が設立され、新潟県を保護地域とするNPB加盟の新球団を創設する方針を打ち出すなど、着工前には様々な動きがみられた。 ところが、県内では同年7月に平成16年7月新潟・福島豪雨(7.13水害)、さらに10月には新潟県中越地震といった大規模な自然災害が相次いで発生。中越地震の際、自衛隊はスポーツ公園内(臨時駐車場と県立野球場の建設予定地)に駐屯して被災地の復旧支援にあたった。震災後に知事に就任した泉田裕彦は「災害復旧を優先させる」として野球場の建設事業着工の凍結を表明、既に決定していた2008年のオールスター開催も返上する旨を明らかにした。しかし泉田は知事選挙の際、公約に「県立野球場の整備促進」を掲げて当選したという経緯があり、県民の多くが災害復興を優先させた施策に理解を示した一方で、政財界の間では性急な建設凍結に対する懐疑的な見方が広がった。 建設凍結の方針決定を受けて2005年1月、県内政財界関係者と新潟県高等学校野球連盟、新潟県硬式野球連盟、新潟県野球連盟(軟式)の県内アマチュア野球3団体が中心となって、県側に建設計画の再開を求める「県立野球場建設促進委員会」が設立され、同年4月には野球場建設を求める署名活動を実施し、13万人の署名が集められた。 こうしたことから、県は整備計画を改めて策定する方針を決定し、当初の設計から設備内容を見直してコスト低減を図ることになった。同年夏からアマ3団体など競技関係者と検討会議を行ったり、県民に対するアンケート調査などを実施するなどして計画を再構築した。この間に設備内容が一部見直され、将来的に屋根を架設する事を前提としていたものを「完全屋外型」とし、フィールドも内野がクレー舗装、外野が天然芝だったものを、全面ロングパイル人工芝としてメンテナンス費用の低減を図るものとし、外野スタンドもコンクリート構造(全席ベンチ席)から盛り土構造(芝生席と一部ベンチ席)に変更するなどした。これによって予定事業費は当初計画の97億円から83億9,000万円となり、約13億円のコスト低減が図られることになった。2006年6月22日、泉田は知事定例記者会見に於いて建設計画の再開を発表。こうして県立野球場は2007年1月から建設地の整地作業を再開し、同年夏から躯体の建設工事を開始した。 そして2009年4月に施設の躯体が竣工し、細部の施工も6月半ばに終了。6月30日付で県に引き渡され、翌7月1日付で正式に開場した。施設名称は建設時の仮称「新潟県立野球場」を改め「新潟県立鳥屋野潟公園野球場」と制定した。なお、施設命名権による呼称はこれに先立って5月18日から採用されている(詳細は後述)。
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