建設の中止と放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 04:59 UTC 版)
1942年、日本は援蔣ルートを遮断するためにタイ経由でビルマに進攻、4月末にはラシオを占領、5月にはビルマから雲南省に入り怒江に到達、拉孟(中国名・松山)・騰越(中国名・謄衝)・龍陵を要塞化し、怒江西岸に400kmに渡る防衛線を展開した。そのため国民党軍は退却し、ビルマ公路の橋を破壊、建設中の滇緬線も、日本軍に利用されないよう、一部を破壊し、建設は中断した。中断当時、各工区における土木工事の進捗率は45% - 80%に達していた。 戦後、ビルマの独立によりイギリスは全面的に本鉄道から撤退、また中国もビルマの重要性の低さと建設の困難さから本鉄道の建設を放棄した(ただし、昆明駅から清華洞駅間は、当時の計画路線と大体同じルートを現在は成昆線・広大線が走っている)。
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