建設に至った経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:54 UTC 版)
勝田宝塚劇場の建設に至った背景としては、小林一三及びその関係会社の娯楽事業の全国展開構想、当時の勝田が工業都市として発展が期待されていたこと、劇場建設にあたり地元の有力者や日立製作所の支援があったこと、国策としての産業戦士慰安などが考えられる。 1932年に株式会社東京宝塚劇場を設立し、1934年1月1日に東京宝塚劇場を開場させた小林らは、更なる全国展開を図り全国主要都市に「宝塚劇場」の名をつけた劇場を建設していった。それは横浜市(1935年4月1日)、京都市(1935年10月12日)、名古屋市(1935年11月2日)、甲府市(1936年11月1日)、熱海市(1937年12月27日)、静岡市(1938年10月23日)、松本市(1939年8月13日)、新潟市(1940年1月1日)と続き、勝田は10館目の宝塚劇場であった。 小林らが勝田に進出を決めた理由としては、勝田が、1939年の日立製作所の進出決定や、内務省により1941年5月に都市計画区域に指定され人口20万人都市構想が打ち上げられていたことなど、今後の躍進が期待されていたことが挙げられる。また劇場建設にあたり、建設敷地を地元の地主が無償で提供したり、建築資材の一切を日立製作所が無償で提供するなどの支援があったことも理由として挙げられる。 また当時の勝田町は戦時下における物資増産拠点であり、作業に従事する者(産業戦士)を慰安するための施設が必要だったことも、劇場建設を進めた要因とされる。 勝田宝塚劇場の建った場所は当時は周囲に農地と藪が広がる場所で、町の繁華街では無かった。『勝田市史』は、建て主の小林一三らには、この地区を文化ゾーンとして開発する構想があった、としており、その構想の一片として、劇場が建設された後には近くに東宝ホテルが建設されたことをあげている。
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