建設についての諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 04:18 UTC 版)
本保弘文によると、家康が東金御成街道を初めて利用したのは慶長19年(1614年)正月9日で、その後秀忠や権大納言時代の家光もこの街道を利用したとされる。 これに対して『習志野市史 第一巻 通史編』は、『徳川実紀』によると徳川家康は鷹狩りで違う道を使用していることが分かるので、家康は元和元年(1615年)11月の2回目の鷹狩りで始めて東金御成街道を使用したと指摘した。 梁瀬裕一は『徳川実紀』に見える「千葉」を千葉御茶屋御殿ではなく、そのまま千葉ないし千葉御殿と考えると、千葉から土気を経由して東金を往復していたことが分かり、東金御成街道を使用しておらず、千葉御茶屋御殿も利用していないことから、慶長19年(1614年)の段階で東金御成街道は完成しておらず、家康は千葉から土気街道を経て大網を通って東金に入ったとする。東金御成街道を家康が初めて使用したのは元和元年(1615年)からであるとし、本保弘文の説を疑問視している。 その後寛永7年(1630年)を最後に九十九里方面での鷹狩は行われなくなり、寛文11年(1671年)頃には3つの御殿も取り壊しになったが、東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存している。 本保は2014年(平成26年)10月25日に八街市中央公民館2階小・中会議室で開催された八街歴史講演会「御成街道と八街」において、「当時は、まだ生きるか死ぬかの戦国時代の延長であったことを考慮に入れると、短期間で造り上げられたという方が正しいのではないかと思われます。」と従来からの自説を繰り返しているが、『習志野市史』の記述や簗瀬説に対する具体的な反論はできずにいる。 なお、将軍の身の安全のために、東金へのルートは固定されておらず、東金御成街道を常に使用したわけではない。東金へは他にも東金街道や土気街道といった複数のルートがあった。
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