建設と部分開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:57 UTC 版)
「名古屋高速1号楠線」の記事における「建設と部分開通」の解説
高速2号のうち、南部の大高線は建設開始から7年目で暫定供用されたが、北部の1号楠線は暫定供用に16年、全線供用に23年を要した。しかも、暫定供用区間の路線距離は2.2 km、全線でも5.6 kmと短いにも関わらず多大な時間を費やした背景には、庄内川、矢田川の南岸地区における関連街路拡幅に要する用地買収の目途が全く立たないことに加え、建設反対運動に端を発した予算凍結が尾を引き、それ以降に組まれた予算が大幅に減額されたことで、1978年(昭和53年)9月以降、7年に渡って工事を中止したことによる。しかし、工事中止の期間中も公社は水面下で関連街路の用地取得を進め、あらかた買収の目途が立った1985年(昭和60年)7月に工事再開を発表、同年10月から開始した。工事区間は丸新町(楠) - 萩野通間で、萩野が選ばれたのは高架から半地下区間への移行部に位置するためである。つまり、この時点で半地下、地下区間は将来の高架式への再変更もあり得ることで、ひとまず確定を見るまでは用地買収が進捗している萩野以北を先行開業させ、以南については政治的決着を見ての建設とした。また、国道41号の新川中橋付近における朝夕の慢性的な渋滞を解消する意図もあって、1988年(昭和63年)12月、距離にして僅か2.2 km、他の名古屋高速路線とは繋がらない2号楠線はこうして開業した。 萩野以北で7年ぶりの工事再開を発表する4か月前、本山市長はひっ迫する国道41号の交通対策と公社の台所事情に鑑み、2号楠線の一部で計画された半地下、地下方式を高架式に再変更することを表明し、直後に交代した西尾市長はこの変更案を強力に推し進めた。1970年(昭和45年)の最初の都市計画では高架式で計画され、騒音、日照など環境対策を求める住民側の要請に押されて半地下、地下式に都市計画決定されたものを再度高架式に戻すことから大変な反対運動が展開された。住民の中には半地下と決定したことから、国道41号沿いに店を新築した人やマンションを購入した人もいて、行政の都合で振り回され怒り心頭であるところへもって、今度は黒川に双方向式大規模出入口を設置する計画が持ち上がったことで、4方向ランプが大気汚染をまき散らすとの懸念を表明、市役所に押し掛けるまでに事は深刻化した。このことは用地買収交渉只中の公社にとっても住民交渉が一段と難しさを増したことで、これらの打開策として段違い式二層高架構造や裏面吸音板を採用するなどして説得にあたり、環境対策費用の上積みを図った。そして、1987年(昭和62年)8月に都市計画決定ののち、難渋を極めた住民交渉に一応のピリオドを打って1989年(平成元年)5月に萩野以南(都心環状方向)の工事に着工した。工事の進展に伴って萩野における連結工事の施工方法が検討されたが、当初は営業を継続しながらの施工が計画されていた。しかし、安全面や経済面を考慮して最終的に300日間の全線通行止めを選択し、1995年(平成7年)9月に完工した。こうして着工以来23年を要した楠線が全線開業をみたが、こうした紆余曲折は建設反対の地域住民との折衝による産物であり、住宅密集地帯の都心に高速道路を建設することの難しさを如実に示すことになった。なお、黒川出入口については、以上に見た建設に難色を示す住民対応や用地対応によって着工が遅れた関係から、全線同時供用より2年遅れで供用されている。
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