建設と開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/09 05:13 UTC 版)
瀋秉成は「道路」の建設は許可したものの、地方政府は全く協力しなかったため、呉淞道路公司は自力で土地の買収問題を解決しなければならなかった。その結果、上海で民間人から私有の土地を購入することとしたが、所有者から全て高値でふっかけられ、特に墳墓やあばら家などが最大の障害となるなど、困難を極めた。同時に、鉄道建設により用水路や道路が寸断され、庶民の利益を損なうことから、強固な反対にあった。このような状況であったが、呉淞道路公司は上海から呉淞に至る9.25mi (14.88km)、幅約15yd (13.7m) の土地の買い上げを強行した。1873年3月(同治12年2月)、土地の所有権を獲得したことを発表し、「道路」を建設する権利があるとした。しかし、土地の買い上げにより、会社が資金不足に陥ったため、イギリス商人は1974年7月28日ロンドンで吴淞鉄路有限公司 (Woosung Railway Co., Ltd.) を登記・成立させ、吴淞道路公司は接収された。怡和洋行 (Jardine & Matheson) が中国における代理人となった。 1875年(光緒元年)、怡和洋行が「道路修理」の名目で、呉淞路の建設許可を得た。同年10月、イギリスからモリソン (G.J. Morrison) を吴淞鉄路有限公司の技師として招聘した。1876年(光緒2年)1月からレールの敷設を開始し、2月14日に試運転を開始した。使用した蒸気機関車はランソン&レイピア社 (Ransomes & Rapier) 製造、車軸配置0-4-0 (B) の「先導号」で、約4分の3マイルを走行した。数千名の民衆が蒸気機関車の試運転を見物した。上海道台である馮俊光はこの情報により騙されたことを知り、イギリス商人にしばらく鉄道建設を中止するよう命令し、勅命を奏請し再び議論するとした。1ヵ月後、イギリス商人はまだ回答のないまま残りの工事を再開した。同年4月、建設が完了する。6月12日、車軸配置0-6-0 (C) の「天朝号」で試運転を実施し、25mph(約40.2km/h)を記録した。7月1日、呉淞鉄道は正式に開通し、祝賀会が催された。翌日には現地の人を無料試乗に招待した。呉淞鉄道は路線長約9mi (15km)、軌間は30インチ (762mm)、レールは13kg/mである。路線上には橋梁が15本、排水溝が20ヵ所あった。信号設備は、指針式電報を使用した進行駅間閉塞を用いた。機関車は試運転に用いた車軸配置0-4-0の「先導号」(The Pioneer) 以外に「天朝号」(Celestial Empire)、「華国号」(Flowery Land)、「総督号」(Viceroy) があり、車軸配置はいずれも0-6-0 (C) であった。
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