鉄道沿いの郊外住宅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 19:00 UTC 版)
日本での郊外化の始まりは、路面電車や私営鉄道などが郊外観光地や都市間を結びはじめた1900年代の沿線開発に始まり、以来、高速道路よりも通勤鉄道に沿った郊外が形成されてきた。 阪急電鉄の前身会社の沿線開発以来、戦後から現代に至る日本のニュータウン建設に至るまで、しばしばレッチワースが引用されたが、「職住近接の、住民によるコミュニティとしての」というエベネザー・ハワードのコンセプトが実現されることはめったになく、多くの場合は単なる開発しやすい場所での住宅開発・ベッドタウン造成にとどまった。 1910年開通した箕面有馬電鉄(現・阪急電鉄)は脆弱な沿線に人口を増やすべく沿線開発に力を入れた。北摂地域に位置する大阪府池田市の阪急宝塚本線池田駅南西側の室町住宅地は、私鉄による初の住宅地経営となった。100坪の区画に庭付き独立住宅、住民コミュニティの確立など、明らかに田園都市レッチワースの影響を受けており、社長の小林一三は、当時重工業化で大気汚染に苦しんでいた大阪市民に対し、「美しき水の都は夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」と田園生活を呼びかけ、住宅地は完売する程の反響を呼んだ。 1920年代以降、各鉄道会社の大都市近郊の沿線開発が活発化する。例えば、当時大阪・神戸間を走っていた阪神電鉄と阪急電鉄は、争うように沿線の駅周辺の開発を進め、多くの良質な郊外住宅地や邸宅街が阪神間に供給され、中産階級や富裕層が都市を脱出し始めた。 東京では、1918年に渋沢栄一がその名も田園都市株式会社を設立し、東京市南部の品川区などに、洗足田園都市を始めとする郊外住宅地を供給し、そのために目黒蒲田電鉄(後の東急電鉄)を開通させた。関東・関西その他の都市近郊の鉄道会社各社も、追随するように戦前から戦後にかけて多くの住宅地・邸宅地を供給したが、一般庶民も含めた本格的な郊外化は第二次世界大戦後になる。
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