六国史に見る下野国とは? わかりやすく解説

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六国史に見る下野国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:53 UTC 版)

下野国」の記事における「六国史に見る下野国」の解説

六国史記紀)には古代から平安時代中期にかけての歴史記されている。下野国下では以下のような出来事があった。 紀元前50年崇神天皇48年4月19日 - 崇神天皇豊城入彦命東国治めるよう命令する。この豊城入彦命下毛野君始祖となった。〔日本書紀676年天武天皇5年5月7日 - 下野国司は以下のように奏上した。「所部百姓凶年遭い飢えのため子を売ろうとしています。」しかし、朝廷はこれに取り合わなかった。〔日本書紀684年天武天皇13年11月1日 - 下毛野君ほか52氏が朝臣の姓を賜る。〔日本書紀687年持統天皇元年3月22日 - 帰化した14人の新羅人下毛野国に居し、賦田を受けて扶持とし、安んじて生業させた。〔日本書紀689年持統天皇3年10月22日 - 直広肆の下毛野古麻呂奴婢600人の解放奏上し許可される。〔日本書紀698年文武天皇2年7月17日 - 下野国備前国赤烏献上する。〔続日本紀699年文武天皇3年3月4日 - 下野国雌黄献上する。〔続日本紀713年和銅6年5月11日 - 下野国ほか相模常陸上野武蔵が輸調するのは元来麻布であるが、今後は絁も併せて輸調するよう命じられる。〔続日本紀714年和銅7年1月25日 - 下野国ほか相模常陸上野武蔵が輸布調を始め、輸布したい者にはこれを許可することとする。〔続日本紀10月1日 - 下野国ほか美濃武蔵伯耆播磨伊予6国大風による被害があり、この年の租調が免じられる。〔続日本紀715年霊亀元年5月30日 - 下野国ほか相模上総常陸上野武蔵6国富民1,000戸を陸奥国配する。〔続日本紀716年霊亀2年5月16日 - 下野国ほか駿河甲斐相模上総下総常陸7国の高麗人1,799人を武蔵国移し高麗郡を置く。〔続日本紀719年養老3年7月13日 - 按察使新設され下野国ほか相模上野の3国は正四位下武蔵国多治比縣守管轄下に置かれる。〔続日本紀737年天平9年4月14日 - 持節大使藤原麻呂から朝廷報告があった。「陸奥国多賀柵に無事到着し鎮守府将軍大野東人等と協議し下野国などの騎兵1,000人を動員して山道および海道開き、これに畏怖の念抱いた蝦夷民衆懐柔策をもって鎮め陸奥出羽各地玉造柵新田柵、牡鹿柵、色麻柵、大室駅)まで進み道路整備行った。今、出羽比羅保許山に駐屯しているが、この先雄勝まで東人武力制圧すると言っているが、麻呂考えとしては蝦夷帰順させて平章したいが、何れとするか勅令賜りたい。」〔続日本紀749年天平勝宝元年7月13日 - 諸寺墾田地限が定められ下野薬師寺奈良法隆寺四天王寺崇福寺新薬師寺建興寺、筑紫観世音寺などと並んで500町とされた。なお、国分金光明寺は4,000町、大安寺薬師寺興福寺法華寺諸国金光明寺は寺毎に1,000町、諸国法華寺は寺毎に400町、定額寺は各寺100町とされている。〔続日本紀754年天平勝宝6年11月24日 - 薬師寺の僧である行信宇佐神宮主神である大神多麻呂が呪詛をしたとして下野薬師寺配流される。〔続日本紀759年天平宝字3年9月27日 - 下野国ほか坂東8国と北陸道4国の浪人2,000人を雄勝城柵戸とする。また、下野国ほか坂東7国より送られた軍士器雄勝城および桃生城貯蔵される。〔続日本紀761年天平字宝5年11月17日 - 藤原恵美朝臣朝狩東海道節度使となり、下野国遠江駿河伊豆相模武蔵とともにその所管地域となる。船152隻、兵士15,700人、子弟78人、漕ぎ手7,520人を用いる。うち2,400人は肥前国から、200人は対馬国から徴発する。〔続日本紀764年天平神護元年2月15日 - 下野国ほか伊予隠岐等が飢饉となったのでこれを救う。〔続日本紀3月4日 - 下野国ほか上野三河常陸下総の5国で旱魃となったため、この年調庸10分の7から8程度となる。〔続日本紀767年神護景雲元年6月5日 - 東山道巡察使淡海三船聡明だが自らの栄達願い国司等の検察評価厳しく報告した下野国司等は不正を行っていたが、三船は前介の弓削薩摩の罪として薩摩不当に職務に就かせなかった。これにより三船現職から解任された。昨今、人を検め裁く者が法の文言拘泥し正し道理をもって判決していない。これは官吏の道に沿うものではない。今後このようなことがある場合は法をもって裁くこととする。〔続日本紀770年宝亀元年8月21日 - 称徳天皇崩御に伴い宇佐八幡宮神託事件連座した道鏡が造下野薬師寺別当として下野国下向する。〔続日本紀771年宝亀2年10月27日 - 武蔵国元来山道属し、(使節は)直に下野国足利驛至るところ枉げて上野国邑楽郡から5驛を経て武蔵国至り、これを返して下野国に向かうため疲労大きくなる武蔵国海道兼ね東海道相模国府から4驛にて下総国府至っており(使節の)往来に便利である。よって、武蔵国東山道から東海道改めれば、取れば公(使節)私にわたり便利で人馬休養できる、と奏上され光仁天皇はこれを許可した。これにより武蔵国東海道転属された。〔続日本紀772年宝亀3年4月7日 - 下野国が造薬師寺別当道鏡亡くなったことを光仁天皇伝える。庶人格式にて葬られた。〔続日本紀10月11日 - 下野国奏上した。「管内百姓陸奥国逃亡すると、陸奥国太政官符をもって受け入れてます。姦偽の輩は争って課役避け陸奥国逃れたものは870人になります下野国司はこれを禁じていますが止めることが出来ません。使者遣わして確認させましたが、陸奥国蝦夷寄り民情険悪であり、これを囲って相いに隠し合うため見出すことができません。」太政判官判定した。「陸奥国司下野国使とともに検めて、本の郷に還させること。」〔続日本紀773年宝亀4年2月6日 - 下野国火災があり、正倉14宇、穀糒23,400斛が焼失した。〔続日本紀775年宝亀6年3月2日 - 下野国ほか22国に初め少掾大目少目46人が配置された。〔続日本紀7月16日 - 下野国が、都賀郡黒鼠数百匹が草木の根を数十里に亘って食べてしまった、と言上する。〔続日本紀10月13日 - 出羽国蝦夷対策国府遷すため兵996人を派遣するよう言上したため、下野国ほか相模武蔵上野の4国の兵士遣わされた。〔続日本紀776年宝亀7年5月2日 - 出羽国志波で賊が反逆したため応戦した官軍が不利となり、下野国ほか下総常陸等から発した騎兵がこれを征伐した。〔続日本紀777年宝亀8年5月25日 - 下野国ほか相模武蔵下総越後に鎧200領を出羽国鎮所に送るよう依頼出た。〔続日本紀782年延暦元年5月3日 - 下野国安蘇郡主帳の外正六位下若麻続部牛養が軍粮を献じ外従五位下授かる。〔続日本紀789年延暦8年7月25日 - 下野美作両国飢饉となったため、救済した。〔続日本紀796年延暦15年11月21日 - 下野国ほか相模武蔵上総常陸上野出羽越後等の国民9,000人が陸奥国伊治城に遷置される。〔日本後紀798年延暦17年6月21日 - 下野国ほか相模武蔵常陸上野出雲等に対し以下のように勅される。「帰降する夷俘には仁徳施し慈しみ恵んだので、命令することなく帰降を望むようになり、毎年服・禄・物を与えるので、その資粮絶しかねない。また慈しみ恵むあまり、事は時節の饗賜の類にまで及んで国司達はこれを命ずることが横行している。時節の饗賜は自所内収め先ずは申し出てその後実行するように。」〔類聚国史802年延暦21年1月11日 - 下野国ほか駿河甲斐相模武蔵上総下総常陸信濃上野等の浪人4,000人が陸奥国胆沢城配された。〔類聚国史日本紀略9月3日 - 下野国ほか全31国で田が損害被ったため、租税徴調が免除された。〔類聚国史818年弘仁9年7月 - 下野国(ほか相模武蔵常陸下総上野等)で地震起きる。数里に亘って山が崩れ谷が埋まり多数百姓圧死した。〔類聚国史823年弘仁14年3月19日 - 吉弥侯部道足女(下野国芳賀郡の人)が、村民の手本としてその行い称えられ少初位上位階授かり、田祖が終身免除された。〔類聚国史824年天長元年11月14日 - 下野国人の三村吉成女が、旌節の行いにより終身の田祖が免除された。〔類聚国史831年天長8年5月23日 - 下野国田地400町5段を勅旨田とした。〔類聚国史835年承和2年2月23日 - 下野国武茂神が従五位下を奉授する。〔続日本後紀836年承和3年12月25日 - 下野国従五位上勲四等荒神正五位下を奉授する。〔続日本後紀838年承和5年9月6日 - 下野国那須郡三和神が官社受託する。〔続日本後紀841年承和8年4月15日 - 下野国正五位下勲四等荒神正五位上を奉授する。〔続日本後紀848年嘉祥元年8月28日 - 下野国正五位上勲四等荒神従四位下を奉授する。〔続日本後紀857年天安元年11月17日 - 下野国従三位勲四等荒神封戸1戸が充てられる。〔日本文徳天皇実録858年天安2年4月15日 - 下野国大掾少掾各1名計2名をおくこととなる。〔日本文徳天皇実録859年貞観元年1月27日 - 下野国従三位勲四等荒神正三位に進階する。〔日本三代実録4月7日 - 下野国大風被害出たのでこれを救済した。〔日本三代実録860年貞観2年9月19日 - 下野国正三位勲四等二荒神社始めて神主を置く。〔日本三代実録863年貞観5年5月2日 - 下野国が准大国制定される。〔日本三代実録10月7日 - 下野国従五位上勲五等温泉神が従四位下を奉授する。〔日本三代実録865年貞観7年12月21日 - 下野国正三位勲四等荒神従二位を奉授する。〔日本三代実録869年貞観11年2月28日 - 下野国従二位勲四等荒神正二位に進階する。また、従四位勲五等温泉神が従四位上を奉授する。〔日本三代実録874年貞観16年)閏4月25日 - この日より3日間、60名の僧が平安京紫宸殿において大般若経の伝読を行い金字仁王経71部を五畿七道各国1部ずつ安置するまた下薬師寺大宰府観世音寺豊前国弥勒寺宇佐神宮神宮寺)に各1部別途配置する。〔日本三代実録875年貞観17年5月10日 - 下総国俘囚反乱起こし官庁寺社焼き払い良民殺戮したと、下総国甘楽麻呂が奏言してきた。このため下野国ほか武蔵上総常陸等に各300人の兵の発動命令出された。〔日本三代実録6月19日 - 下野国が(下総国出兵し、)反乱した俘囚89人を殺害または捕獲した言上する。〔日本三代実録7月5日 - 下野国が(下総国出兵し、)賊徒27人を討殺し4人が投降して来たと言上する。〔日本三代実録875年貞観17年12月27日 - 下野国従五位下門神従五位上を奉授する。〔日本三代実録878年元慶2年4月28日 - 元慶の乱対し下野および上野両国から1,000ずつの兵が徴発される。〔日本三代実録9月16日 - 下野国山神従五位下賜る。〔日本三代実録879年元慶3年3月9日 - 下野国正六位上都比神が従五位下を奉授する。〔日本三代実録6月26日 - 元慶の乱鎮圧されたため軍が解かれ官軍として従軍していた下野国少掾従七位下雀部茂世、医師大初位下下毛野御安が他国の軍士とともに国許帰還したと奏言された。〔日本三代実録880年元慶4年8月29日 - 下野国従五位下三和神が正五位上を奉授する。〔日本三代実録881年元慶5年5月2日 - 下野国を準大国とする。〔日本三代実録882年元慶6年12月13日 - 下野国連理が獲れた事を言上した。〔日本紀略885年仁和元年2月10日 - 下野国正五位上三和神が従四位下を奉授する。〔日本三代実録

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