武茂
字は季夏。沛国竹邑の人。武周の子、武陔・武韶の弟《晋書武陔伝》。 武茂は兄武韶とともに総角のころより名を知られ、長兄武陔を含めた三兄弟のうち、誰が優れているのか親戚や郷里の人々でも判断がつかなかった。同郡の劉公栄は武周を訪ねたとき、「いずれも国士でございますが、元夏(武陔)が最も優れていて三公に次ぐでしょう。叔夏・季夏(武韶・武茂)も常伯・納言(常侍・尚書)を下りますまい」と言った《晋書武陔伝》。 武茂は昔から恩徳でもって評判され、名声は武陔に次ぎ、上洛太守・散騎常侍・侍中・尚書を歴任した。太康八年(二八七)十月、郭奕に景侯と諡して景帝と同じ諡号になることの是非が問題になったとき、武茂は成粲・劉訥とともに「周公は父子ながら同じく『文』と諡されております」と肯定説を述べている《晋書礼志》。 潁川の荀愷は武茂より年若であったが、武帝(司馬炎)の姑(おば)の子であることを鼻にかけており、武茂に交わりを求めてきた。武茂がそれを拒んで口も聞かなかったため、荀愷は怨恨を抱いた《晋書武陔伝》。 永煕二年(二九一)三月、太傅楊駿が誅殺される事件があった《晋書恵帝紀》。そのとき武茂は侍中傅祗らとともに楊駿の宴席に招かれていて、傅祗は国家(天子)の安否を伺おうと階下へ降りようとした。武茂はまだ座っていたが、傅祗に「貴君は天子の臣下ではないか!国家の所在も知れぬのにどうして安閑と座っていられるのだ!」と言われ、武茂は驚いて立ち上がった《晋書傅玄伝》。 楊駿はけっきょく誅殺されたが、このとき荀愷が尚書僕射であった。武茂は楊駿の姨(おば)の弟であり叛逆者の一味であると誣告され、殺害された。武茂は清廉できまじめな人柄として知られていたので、いきなり無実の罪で殺されると、天下の人々は痛ましく思った。のちに侍中傅祗が上表して弁明してやったので、光禄勲の官職を追贈された《晋書武陔伝》。 【参照】郭奕 / 司馬炎 / 司馬師(景帝) / 周公 / 荀愷 / 成粲 / 傅祗 / 武陔 / 武周 / 武韶 / 楊駿 / 劉昶(劉公栄) / 劉訥 / 潁川郡 / 上洛郡 / 竹邑県 / 沛国 / 景侯 / 光禄勲 / 散騎常侍(常侍) / 三公 / 侍中 / 尚書 / 尚書僕射 / 太守 / 太傅 / 総角 / 諡 / 二宮 |
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