六国史の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 09:18 UTC 版)
「鴨大神御子神主玉神社」の記事における「六国史の記述」の解説
日本文徳天皇実録に嘉祥3年(850年)、「鴨大神御子神主玉神」が官社に預ったとあり、同じく嘉祥4年(仁寿元年)正月(851年)、天下諸神に有位無位を問わず正六位上を叙するとあり、日本三代実録に貞観3年9月23日(861年)、「従五位下主玉神」が従五位上に昇叙したという諸記録がある。 延長5年(927年)成立の延喜式神名帳では、常陸国新治郡三座の一社(小社)「鴨大神御子神主神社」として記載されている。 文徳実録の「鴨大神御子神主玉神」、三代実録の「主玉神」、延喜式神名帳の「鴨大神御子神主神社」の神名又は社号には、相反する異同がある。文徳実録が正しいならば、三代実録の神名は省略されており、延喜式神名帳の社号には玉の字の脱落がある。三代実録と延喜式神名帳がともに正しく、それぞれ異なる神であるとするならば、文徳実録には二神の混同という重大な誤謬がある。この点については、古くから考察の対象になっている。 文徳実録に誤謬があるとする説 常陸誌料郡郷考(常陸国郡郷考)は、「鴨大神御子神主神社」で見出しを立て、「按実録、誤あり」と文徳実録に誤謬があるとしている。また、「主石神社」の項では、「按両実録主玉とあるは神名帳の誤にや且文徳の原文は詔鴨大神御子神主玉神とありて二社同時に官社たるを記せり崇神紀に拠は神主主玉となるへきに似たり」とし、延喜式神名帳と文徳実録にはともに誤謬があるとしている。すなわち、延喜式神名帳は「主玉神社」と記すべきところを「主石神社」と記し、文徳実録は「鴨大神御子神主神」「主玉神」の二座が官社に列したと記すべきところを「鴨大神御子神主玉神」の一座が官社に列したと記したのではないかとしている。この根拠としては、祭神の考察にも関わる日本書紀の崇神天皇紀(崇神紀)の記述を挙げている。 大日本地名辞書は、郡郷考の説を受け、「正しく此主石神なるが、石をば神体とせるによりて、主玉とも呼ばれしならん」とし、主石神社が正しい社号であるが、主玉神という美称もまた存在したのではないかとしている。 茨城県神社写真帳の主石神社の由緒には、主玉神に関する言及はない。ただし、現在の主石神社は、境内案内板において文徳実録及び三代実録の記述を同社のものとしている。一方、その創祀の伝承では古くから「主石大明神」と尊称されたとしており、地名辞書が指摘するような主玉神の美称の存在はうかがえない。 茨城県神社写真帳の大国玉神社の由緒には、文徳実録及び三代実録に関する言及がある。ただし、大国玉神と主玉神を同一視する記述は、他の神社誌料、地誌等には見られない。なお、「大國玉神」は続日本後紀に承和12年(845年)、無位から従五位下に昇叙したとあり、続いて嘉祥4年(仁寿元年)(851年)の天下諸神の進階で少なくとも従五位上には昇叙しているので、三代実録にいう貞観3年9月23日(861年)の「従五位下主玉神」と同一神とは考えにくい。 文徳実録に誤謬がないとする説 新編常陸国誌、特選神名牒、神祇志料、神社覈録等の諸文献は、文徳実録の「鴨大神御子神主玉神」及び三代実録の「主玉神」が正しい神名であることは疑いないとし、延喜式神名帳の社号には脱字があるとしている。神社覈録は見出しにおいて「鴨大神御子神主玉神社」と玉の字を補填している。 明治神社誌料は、「鴨大神御子神主神社」で見出しを立てつつ、文徳実録及び三代実録の記述を当社の由緒として記載している。ただし、祭神には主玉神の神名を記載していない。 現在、三代実録の「主玉神」の比定社としては、鴨大神御子神主玉神社、主石神社(鉾田市大和田)、大国玉神社(桜川市大国玉)が論社となっている。
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