投降とは? わかりやすく解説

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とう‐こう〔‐カウ〕【投降】

読み方:とうこう

[名](スル)戦うことをやめて、降参すること。「武器捨てて—する」


降伏

( 投降 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/05 09:06 UTC 版)

太平洋戦争大東亜戦争)に於ける日本の降伏文書調印

降伏(こうふく、こうぶく、ごうぶく)とは、戦争において軍隊、あるいは個々の戦闘員が敵に対する戦闘行為をやめて、その支配下にある地点・兵員・戦闘手段を敵の権力内に置くこと。降服、投降ともいう。広義には抵抗を止めて相手に服従すること。

概要

軍人、その他の戦闘員が指揮官の命令、或いは個々の判断によって戦闘を中止し、捕虜となることである。白旗を掲げたり(白旗の掲示そのものは降伏を表すのではなく、軍使の派遣を要請している意思表示である)、何も持たずに両手を開いて挙げたりすることで投降の意思を示す。海上では白旗に加え、投降側の艦船は自らが降参する意思を持つことを具体的に示さねばならず[1]例えば砲撃・雷撃の停止や機関停止、砲口の向きを外す、戦闘旗を降ろすなど抗戦の意思を持たず武装解除を受ける用意があることを示すことが必要である。投降者は意志に反して傷つくのを避ける事ができ、相手は戦闘を回避できる。当事者双方にとって意味がある事であるので軍使による降伏交渉や降伏勧告が良く行われる。

兵士が個人で降伏する場合、戦場の混乱と戦闘中の激情のもとでその場で殺害されてしまう事例がしばしばあるが、これは戦時国際法ハーグ陸戦条約23条ハ号)で禁止されており、違反行為は締約国の軍法あるいは国際戦犯法廷で裁かれる。組織的降伏においても、助命・安全その他一定の条件等を約して降伏させた者をそれに反し殺傷することは、背信行為として禁止事項に該当(ハーグ陸戦条約23条ロ号)し、また、助命しないことを宣することも禁止事項となる(ハーグ陸戦条約23条ニ号)ので、実質、助命を条件に降伏してきた兵士・部隊は殺害されることがないよう定められている。降伏の申出は一般に白旗を掲示した軍使によるが(ハーグ陸戦条約32条)、軍使を計略の手段として利用している場合は軍使の不可侵権は失われる(34条)。

降伏の条件や捕虜の権利はジュネーヴ条約やハーグ陸戦条約によって規定されている。

降伏する側が勝利者に対して、約束が確実に果たされるときのみに降伏を受け入れる場合、条件付降伏と呼ばれる。しかし、勝利者が国際法に定められたこと以外に何の約束もしないときや、通告した条件以外での降伏を認めず交渉拒否を宣言する場合[2]、これを受入れることも一般的に無条件降伏と呼ばれる。

国家が戦争および軍事衝突を終結させるために自国の軍を降伏させることがある。この場合、紛争国間の合意や片方の一方的な宣言によりなされるものであり、締約により条約的性格を持つ(降伏条約)[2]。戦時国際法の状況下においては、国際法に合意された諸条約において国家による降伏行為の当事適格性については不分明であるが、慣例的にハーグ陸戦条約付属書36条以降にもとづき休戦協定を結び、のち平和条約の締結をすることになるか、第三款「占領」による戦闘終結のいずれかとなる。この場合、被占領や降伏の帰結として軍を保有する政体が消滅したり(デベラチオ(戦亡)ナチスドイツの後継フレンスブルク政府イラク共和国フセイン政権など)、亡命政権・抵抗政権にとって替わられたり(南ベトナム共和国など)、干渉戦争(アフガニスタン紛争など)や内戦終結時の終結宣言など、例外も多く一般的なプロトコルがあるわけではない。休戦協定から平和条約に至るまでの複数の条約を降伏条約群と呼ぶことがある。

占領時の戦闘を避けるために国家や軍が都市に無防備都市宣言を出すことがある。これは組織的降伏の一種でありハーグ陸戦条約付属書25条における無防備都市を具体化したジュネーヴ条約追加第1議定書によるもので、戦争中に相手国に対して宣言するものである。平和時に地方自治体が戦争に巻き込まれない事を条例で謳おうとする市民運動については無防備都市宣言#無防備地域宣言運動を参照。

脚注

  1. ^ San Remo Manual on International Law Applicable to Armed Conflicts at Sea, 12 June 1994 ,47.i
  2. ^ a b 第13回参議院外務委員会昭和27年5月29日

関連項目


投降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 16:46 UTC 版)

バイレンの戦い」の記事における「投降」の解説

カスターニョス軍が到着したことでデュポン和平要求スペイン軍数日間交渉した交渉のことを知るとヴィーデルは撤退したが、スペイン指揮官がヴィーデル軍が投降しなければフランス軍惨殺する脅したためデュポンはヴィーデル軍を呼び戻して降伏させた。自らの剣をカスターニョスに渡すとき、デュポンは「将軍あなたがた今日誇りを持つがいい。なぜなら、20回以上の会戦挑んだ私が負けたのは今回がはじめだからだ。」と話し、それに対しスペイン人は「誇りを持つべき理由は、私がそんな会戦居合わせたことは一度もなかったからだ。」と応酬したという。

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投降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/16 16:51 UTC 版)

ルイス・バカルター」の記事における「投降」の解説

誰が大物バカルターを捕まえるかでFBNFBI警察検察争った。バカルターは、殺人罪起訴ではないこと、刑期10年超えないことを条件デューイ密かに自首打診しFBIにも似たような打診をしていたと言われた。1938年4月FBI投降し連邦裁判かけられパートナーシャピロ反トラスト法違反3年刑だった。州検察デューイはバカルターに250年刑期相当する重い告訴検討していることを公言していた。連邦法反トラスト法麻薬取締法)の方が州法強請殺人)より総じて刑が軽かったため、バカルターが自首するなら連邦方だ見られていた。 1939年8月24日ニューヨークマンハッタン街中フーヴァーFBI長官待機する車のもとに現れ自首したフーヴァーへの口利きシンジケート大物頼ったといわれ(一説フランク・コステロ)、著名コラムニストウォルター・ウィンチェルを介してフーヴァー接触した(ウィンチェルはコステロフーヴァーの共通の知人)。身柄確保現場にはウィンチェルがフーヴァー一緒に待機していた。ウィンチェルは2日後に事の顛末自分コラム掲載した新聞は、フーヴァーがバカルターにベストオファーをしたと報じた一説に、フーヴァーとは仲介者通じて連邦法裁かれるのみで州検察へは引き渡されないとの約束交わし、バカルターはそれを信じて投降したが、投降後、そんな約束なかったことに気づき、罠に嵌められたと悟ったとも伝えられた。 投降場所や時期はバカルターに近い仲間モー・ディンプル・ウォリンスキーが段取りしたともいう。ウィンチェルによれば、バカルター引き渡しの為何度も電話やり取りした先方の男は謎の人物で、投降直前顔を合わせた時、覆面していた。投降時、バカルターにかかる懸賞金は国と州合わせて5万ドルまで高騰していた。 デューイ捜査班を構成するニューヨーク市警警官が、バカルターを護送中だったFBI捜査官小競り合い起こした警官はバカルターを強引に事情聴取しようとし、FBI邪険に追い払われた。ニューヨーク市長フィオレロ・ラガーディアは、「おめでとう。FBIニューヨーク当局)に何のメダルもよこさなかった」と皮肉った

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:47 UTC 版)

シャミール」の記事における「投降」の解説

1855年2月アレクサンドル2世即位し1857年友人アレクサンドル・バリャチンスキー大公カフカーズ副王任命した。バリャチンスキー大公は、大規模な軍事行動の外、買収という手段活用したシャミールの元からは、次第人々離れ抵抗継続するには余りに少数人間しか残らなかった。 シャミールは、グニブ山に撤退し1859年8月兵士400人と大砲4門と共にグニブ防衛準備した。グニブには10個以上の大隊集結し、バリャチンスキー大公は、シャミール武器捨て和平締結するよう提案したが、シャミールはこれを拒否した8月22日24日最後の攻撃が行われ、シャミール少数部下と共に一角追い詰められた。8月25日大公は、再び投降を勧告しシャミール今度はこれに従わざるを得なかった。大公は、シャミールの投降を歓迎し、彼をロシア皇帝元に送った1859年9月15日シャミールは、ハリコフ郊外のチュグエフアレクサンドル2世謁見した。皇帝は、シャミールに金のサーベル贈り、「最終的にロシア来てくれたことを非常に喜ばしく思う。もっと早く来てくれなかったことが残念だ後悔することはないだろう・・・」と語った。 投降後、シャミールは、ロシアの各都市において、「カフカーズナポレオン」として歓迎された。トゥーラでは武器工場見学し豪華な武器と名前入りサモワール贈られた。ペテルブルクでは、名誉警衛隊軍楽隊出迎え皇帝即位式すら凌ぐイルミネーションが灯された。彼がペテルブルクを去る際には、見送り群集が駅に殺到し出発が遅れるほどだった。 1859年10月シャミールは、次男ガジ=マホメドと数人信頼できる盟友と共にカルーガ転居した。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「投降」の解説

12月11日天狗党一行越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。天狗党慶喜自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜京都から来た幕府軍率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網狭めつつある状況下でこれ以上進軍は無理と判断した前方封鎖していた加賀藩監軍永原甚七郎に嘆願書始末書提出して慶喜への取次ぎ乞うたものの、幕府軍はこれを斥け17日までに降伏しなければ総攻撃開始する通告した山国兵部らは「降伏」では体面損なうとして反対したが、総攻撃当日12月17日1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江府中の兵が後方から殺到すると、ついに加賀藩投降し武装解除し一連の争乱鎮圧された。 永原投降した天狗党員を諸寺院収容しかなりの厚遇をもって処した。しかし、田沼意尊率い幕府軍敦賀到着する状況一変する関東において天狗党もたらした惨禍目の当たりにしていた意尊らはこの光景激怒し加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を倉(鰊粕貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し小四郎一部幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服下帯一本限り一日あたり握飯一つ湯水一杯のみを与えこととした。腐敗した用便用の発する異臭籠る狭い倉の中に大人数押し込められたために衛生状態最悪であり、また折から厳寒相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。 この時捕らえられ天狗党828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日元治2年2月4日)、武田耕雲斎幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に12日135名、13日102名、16日75名、20日16名と、3月20日旧暦2月23日)までに斬首終え、他は遠島追放などの処分科された。

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投降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 05:48 UTC 版)

川口放送所占拠事件」の記事における「投降」の解説

藤野中佐窪田少佐らと会談し送電止められている事を告げこれ以上やっても成功見込みは無いと言って説得した窪田少佐らは説得受けて計画失敗悟り行動中止決めその場藤野中佐らに投降したその後寄居演習隊の高島中隊長駆けつけ隊員に帰隊を命じた。更に田中大将が到着し全員前に訓示午後4時頃、隊員トラック乗り駅へ向かい列車寄居戻った。この事件影響午前6時頃から午後3時頃までの約9時間わたって関東地方一帯ラジオ放送停波した。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 02:39 UTC 版)

ハウデーゲン作戦」の記事における「投降」の解説

1945年5月8日、ハウデーゲン観測所トロムソから敗戦通知されると共に爆薬機密文書処分、および暗号化解除した気象情報引き続き送信するように命じられた。しかし、以後通信途絶し観測隊は誰かが受信することを願って気象情報送信範囲広げた。それでも応答する者はなく、最終的に連合国軍救難チャンネルへの送信開始した。これを受け、ノルウェー当局依頼によりアザラシ漁船派遣されることとなった。これ以前にも連合国側ではハウデーゲン観測隊の収容試みていたが、秘密部隊として扱われ関連文書敗戦時に処分されていたため、観測所正確な位置把握できていなかった。 1945年9月4日ノルウェーアザラシ漁船ブラーセル(Blaasel)がハウデーゲン観測所近く到着した。ブラーセルの船長ルズヴィ・アルベルトセン(Ludwig Albertsen)は、戦前スピッツベルゲン島遠征同行したことがあり、同じ遠征参加したデーゲとはそれ以来友人同士だった。デーゲはアルベルトセンを観測隊員らに紹介しノルウェー船員らも招いた宴会催された。この最中、アルベルトセンがデーゲに対してそういえば、君はまだ投降していないね」と切り出した。デーゲが降伏の意を示すために拳銃差し出したところ、アルベルトセンは「こいつを土産にしてもいいかね?」と尋ねたという。島を離れた隊員らはノルウェーにて戦争捕虜として収容され数ヶ月後に帰国果たした。ハウデーゲン観測隊は、第二次世界大戦において最後に投降したドイツ国防軍部隊とされている。

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投降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 04:08 UTC 版)

ニフティ・パッケージ作戦」の記事における「投降」の解説

10日間にわたる戦意喪失作戦の後、ラボアは、正門にいる米軍兵士に投降する以外の選択肢は無いことをノリエガ告げた。後にタイム誌は、ラボアはノリエガに対して完全に誠実だったわけではなく世界中のどこの国も彼の避難許可与えようとしないという偽りノリエガ伝えていたことを記している。また、ラボアはアメリカ陸軍に対して、もし彼の生命危険に脅かされていると考えるならば所有地を攻撃する許可与えるという内容の手紙を書いている。最終的にラボアは、もしノリエガアメリカ投降しない場合は、ローマ教皇庁スタッフ大使館建物から退去しカトリック高校移動し、そこを新たな大使館宣言すること、そしてノリエガ廃墟置き去りとなり、彼はバチカン庇護無しアメリカに立ち向かわなくてはならなくなることを伝えたノリエガキューバ大使館逃避していた彼の妻と3人の娘たち電話をかける許可求め、もし彼が投降した場合彼女たちドミニカ共和国亡命できること保証得た1月3日ノリエガ大使館聖堂でのミサ参加し聖体拝領受けたミサでラボアはキリストと共に磔にされ最期時に悔い改めたディスマスについて説教をし、それを聞いたノリエガは目に涙を浮かべた報道された。 ミサの後、ノリエガ部屋戻り2通の手紙を書いた。1通は妻に宛て、「私は今、冒険の旅に出る」と伝えた。もう1通はローマ教皇感謝伝え手紙で、自分無実であることを信じており、常にパナマ国民利益最優先にして行動してきたことを強調し教皇祈り求めたノリエガ褐色制服着用し大使館聖書携行する許可を受け、3人の司祭と共に屋外出て闇夜の中50先の正門まで一緒に歩いた正門に着くと米軍空挺兵のスコット・ガイスト軍曹意気消沈したノリエガ突進しその他の大勢兵士飛びかかり地面押し倒し彼の身体検査開始したノリエガ手首後ろ手テープ巻かれ待機していた米軍ヘリコプター押し込まれハワード空軍基地連行された。 後にモンシニョール・ラボアは、ノリエガを「出し抜いて米軍に投降させたことを誇り思っており、「心理戦では私の方が上手だ」と報道語った

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投降

出典:『Wiktionary』 (2021/08/14 08:47 UTC 版)

名詞

とうこう

  1. 降参すること。

発音(?)

と↗ーこー

動詞

活用

サ行変格活用
投降-する

「 投降」の例文・使い方・用例・文例

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