来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 04:38 UTC 版)
2008年3月3日、10日放送分の「クイズ!紳助くん」(ABC朝日放送)で、アシスタントの大沢あかねが体調不良のため、急遽、代わりにアシスタントに選ばれた。当時、本人は『アシスタントになるのが夢で、こんなに早く叶うとは思いませんでした』と大喜びしていたが、同番組の収録前、朝日放送に向かうタクシーに乗り込む際、マネージャーと共に司会の島田紳助に会釈のみ交わし、まともに挨拶しなかった上、枕を断り先にタクシー移動したことがきっかけで紳助本人が、「あいつ、最近うち(吉本)に入ってきた奴やろ? 金輪際、俺の番組では使わん!」大激怒し、「30分以内に代わりのタレントを探せ!」と、スタッフに怒鳴り散らすトラブルにまで発展した、すぐさま担当マネージャーとともに謝罪し、紳助もマネージャーのミスであることを理解した上でそのまま出演させたが、収録後「お前だけは絶対許さへん!」と頑として許容しない姿勢を見せた、放送終了後、スタッフから降板を言い渡され、翌日、そのまま芸能界を引退した。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「大西初愛」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「大西初愛」の記事については、「大西初愛」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 14:19 UTC 版)
箏曲家の祖母の影響を受けて10歳より尺八を始める。14歳から人間国宝山本邦山に師事、都山流師範となり以後、道山を名のる。江戸川区立平井東小学校、江戸川区立小松川第一中学校、東京都立小松川高等学校を経て東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業。在学中に安宅賞を受賞。卒業の際、皇居にて上皇后美智子ほか皇族の前で演奏する。大学時代には作曲専攻生との実験的な音楽への製作や、オーケストラとの共演を行うなど様々な音楽活動を行う。雅楽、能楽、狂言、囃子、箏曲などのさまざまな邦楽器にも興味を持ち研鑽を積む。 1997年 - 同大学院音楽研究科修了。その後、同大学の非常勤講師を2年間務める 2000年 - みやざきみえこ(箏奏者)とユニット「East Current」を結成 2001年 - 日本コロムビアよりファーストアルバム「UTA」をリリース 2003年 - 江戸川区文化功績賞を受賞(江戸川区の中学校公演の普及活動の功績により) 2004年 - East Currentアメリカでツアーを行う 2006年 - 9月サントリーホール20周年コンサートに出演。武満徹作曲「ノヴェンバーステップス」のソリストとして、友吉鶴心(琵琶)、クリスティアン・アルミンク(指揮)、新日本フィルハーモニー交響楽団と共演 2006年 - 山田洋次監督『武士の一分』 (木村拓哉主演 音楽:冨田勲)の劇中音楽にゲストミュージシャンとして参加 2007年 - 古川展生(チェリスト)、妹尾武(ピアニスト)とのユニット「KOBUDO -古武道-」(ユニット名は古川の古、妹尾の武、藤原の道から)を結成。これまでに6枚のアルバムと1枚のDVDをリリース。全国ツアーやレコーディング活動を行っている 2008年 - 稲本響(ピアノ、作曲)、村治佳織(ギター)、三響会(邦楽囃子)、英哲風雲の会(和太鼓)とともに、珠響(たまゆら)を結成。芝・増上寺、サントリーホールで結成コンサートを行う。2010年には全国5都市でのツアーを行う 2009年 - ウィーンフィルコンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ率いるシュトイデ弦楽四重奏団とコンサートツアー及びウィーンにてレコーディングを行う 2009年 - 東京発・伝統WA感動(東京都・公益財団法人東京都歴史文化財団主催)邦楽コンサート「東都の秋 月を奏でる」にて千住明作曲「月光」を初演(指揮:千住明、箏:萩岡松韻、東京シティフィルハーモニック管弦楽団) 2011年 - 第32回松尾芸能賞・新人賞を受賞。5月28日公開の映画「手塚治虫のブッダ」ー赤い砂漠よ!美しくー(音楽:大島ミチル)に、ゲストミュージシャンとして参加 2012年よりマリンビストSINSKEとユニット結成。全国コンサートツアー及びアルバムリリース。 2013年 - 東京芸術大学非常勤講師となる 2014年 - いずみシンフォニエッタ大阪 第32回定期演奏会「邦楽器との響演」にて川島素晴作曲「尺八協奏曲」を初演 2015年 - アメリカ・シアトルのBenaroya Hallにて菅野祐悟作曲「箏と尺八と管弦楽のための協奏曲-Revive-」を遠藤千晶(箏独奏)、キャロリン・クアン(指揮)、シアトル交響楽団と共演 2015年 - 藤倉大作曲「ころころ~独奏尺八のための」を大阪いずみホールにて初演 2015年8月24日 - サントリーホールにて15周年Anniversary concertを開催。山田和樹の指揮、横浜シンフォニエッタとの共演 高橋留美子原作のTVアニメ『境界のRINNE』のサントラにゲストミュージシャンとして参加 2018年7月 - 大島ミチル作曲「箏と尺八のための協奏曲 -無限の扉-」を遠藤千晶(箏独奏)、藤岡幸夫(指揮)、日本フィルハーモニー交響楽団と初演 2018年9月開催 - 第60回熊本県芸術文化祭オープニングステージ「邦楽」の音楽監督を務める 2018年 -コロムビアからリリースした古典アルバム「季(TOKI)〜冬〜」が平成30年度(第73回)文化庁芸術祭優秀賞を受賞 2019年 -マリンバ奏者SINSKE氏と全国ツアーおよびイタリア公演を行う 2019年9月開催 -第61回熊本県芸術文化祭オープニングステージ「民謡」の総合演出を務める。 2020年1月11日 -紀尾井ホール小ホールにて開軒30周年記念「第一回 道山会演奏会」を開催 2020年 - KOBUDO-古武道-で編曲を担当した台湾のアーティスト「許哲珮(Peggy Hsu)」の楽曲「戰(Ikusa)」が、台湾・金曲奨(Golden Melody Awards)「最優秀編曲賞」を受賞。 2020年 - デビュー20周年を迎えアルバム及び譜面集「雙 -SO-」をリリース、東京、愛知、大阪、福岡にて記念コンサートを開催。 2021年 - 令和二年度 第71回 芸術選奨文部科学大臣賞を受賞 2022年 - 東京藝術大学音楽学部准教授に就任。藤倉大作曲「尺八協奏曲」をフランスにて初演 現在までに、18枚のソロアルバム、KOBUDO-古武道-(9作)、藤原道山×SINSKE(11作)、齋藤孝監修の呼吸に関するアルバム『イキイキ』、映像作品ほかリリース 純邦楽にとどまらず、様々な歌手、音楽家や美術家、俳優などとのコラボレートを積極的に行い、尺八の新境地を切り開く幅広い音楽活動を行っている 都山流尺八楽会所属 都山流大師範
※この「来歴・エピソード」の解説は、「藤原道山」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「藤原道山」の記事については、「藤原道山」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 06:20 UTC 版)
「キングコング (お笑いコンビ)」の記事における「来歴・エピソード」の解説
NSC在学中の1999年、西野が別の研修生とコンビを解散したばかりの梶原をバイクで雲雀ヶ丘に誘い、大阪平野を眺めながら、西野が「あれだけの人を笑わせようと思ったら、大変やな」と話すと、梶原が「俺達ならできるよ」と返しコンビを結成。同期の芸人は大阪ではNON STYLE、南海キャンディーズ、ダイアン、東京ではピース、平成ノブシコブシなどがいる。元々西野はグリーングリーン、梶原はNINNIN丸という別々のコンビだった。 NSC在学中の翌年2000年には、結成5カ月かつ19歳でNHK上方漫才コンテスト最優秀賞を受賞。NSC在学中に関西の賞を受賞したのは過去にキングコングのみである。また、M-1グランプリ2001には芸歴2年3か月で決勝進出を果たし7位の結果を残した。この記録はプロとして大会史上最短記録であり、2020年現在に至るまで一度も破られていない。以後も関西の賞を獲得するが、同時にダンスユニットのWEST SIDEに参加するなど様々な分野での活動も見られるようになる。 2001年に『はねるのトびら』が放送を開始し東京に進出。10年以上続くロングラン番組となりキングコングを全国的な知名度に押し上げることとなった。はねるのトびらが深夜時代だった時のキングコングのスケジュールは、休み無しで、一日平均睡眠時間は2時間以下が数年以上続き、当時36時間ぶっ通しだったという。また、はねるのトびら収録終了後にキングコングのみ関西にレギュラー番組がたくさんあったため、睡眠できるのは新幹線の中のみだったという。 M-1グランプリには初出場した2001年大会以降も出場していたが、以降はテレビで活動の幅を広げたのに反して縁のない存在だった(2002~04年までは準決勝敗退、2005~06年は欠場)。しかし2007年大会で3年ぶりに参加すると決勝進出を果たし、決勝ファーストラウンドを2位で通過したものの最終決戦では3位に終わった。2008年大会では梶原が「優勝を逃せば離婚」を宣言し並々ならぬ思いで再び決勝に進んだものの、9組中8位に終わりファーストラウンドで敗退(因みに2008年大会で優勝したのは、同期のNON STYLEだった)。ラストイヤーとなった2009年大会は、準決勝での敗退に終わった。 2008年より、日本全国ライブツアー「KING KONG LIVE」を開始。2010年からは、夏季にかけて年に1度開催している。 『はねるのトびら』終了以降、西野は絵本作家や講演、梶原はYouTuberと別々の活動が増えているが、劇場などで漫才を続けており、他にも『毎週キングコング』内で動画をアップするなどしている。麒麟の田村裕やNON STYLEの石田明は「梶原がYouTubeを始めてからアドリブの熱量が上がり漫才も良くなった」と評価している。2019年、コンビ結成20周年を迎えた。 2021年1月30日、西野が吉本興業とのマネジメント契約を終了、梶原は引き続き吉本興業所属を続ける旨を説明しており、コンビ内で所属事務所が異なるようになった。今後キングコングとして吉本の劇場に立つことはしばらくないと話している。毎週キングコングは、吉本のOmOと言う会社が管理しているチャンネルのため、退社した西野は2021年2月7日からゲスト出演という形で出演している。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「キングコング (お笑いコンビ)」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「キングコング (お笑いコンビ)」の記事については、「キングコング (お笑いコンビ)」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 08:02 UTC 版)
奈良県天理市出身。1957年(昭和32年)に大阪大学経済学部を卒業後、近畿日本鉄道に入社した。入社した時点では「百貨店が直営だと知らなかった」ものの、10日後には当時近畿日本鉄道の直営だった近鉄百貨店に配属された。以降、人事・総務畑を歩む。 近鉄グループには近鉄百貨店以外にも複数の百貨店が存在し、そのひとつが京都市下京区(京都駅前)に立地し、大阪証券取引所第一部に上場している百貨店「丸物」を改称した京都近鉄百貨店だった。同社は本店と岐阜店のみの小さな百貨店であり、増床や草津近鉄百貨店出店などの対策を取っていたが、1997年(平成9年)の開業を目指すジェイアール京都伊勢丹の脅威にさらされていた。このため、稲垣は1996年、京都近鉄百貨店に転じ、社内に設けた「京都伊勢丹開業対策委員会」の委員長を務めた。 草津近鉄百貨店やジェイアール京都伊勢丹の開業を半年後に控えた1997年春には、同じ奈良県出身で同社社長の髙田多喜男の2期4年の社長任期が切れたため、社長に就任した。 「京都は大阪より人の歩き方がゆっくり。購買態度も堅実で無理をしないが、裏切ったら祟りが強い」と、ジェイアール京都伊勢丹との持久戦を覚悟した。京都店単体で年間売上高500億円を達成することで、1996年2月期と1997年2月期の2期連続赤字の解消を目指した。 ところが、京都店は1996年2月期の年商470億円をピークに一度も年商500億円を達成することなく、赤字額は拡大していった。また、岐阜店も90年2月期から営業家事が続いて累積赤字が約23億円となった。また、こちらも近隣の名古屋駅ビルにJR東海と近鉄百貨店グループのライバルである髙島屋の合弁でジェイアール名古屋タカシマヤの開業が翌年に予定されており、経営状態がより悪化すると考えられていた。 赤字額が一桁大きい京都店を閉鎖することや、草津近鉄百貨店のように岐阜店を岐阜駅前に移転することも考えられたが、近鉄グループとして京都店の救済を優先することになった。そこで、1999年(平成11年)4月26日午前の「京都近鉄百貨店」取締役会で同年9月末の閉鎖を決めた。しかし、地元との関係が悪化することになった。 岐阜店の閉鎖発表後、稲垣は2期目の社長就任はせず、社長の座をやはり近鉄百貨店副社長の小山禎三に譲った。岐阜店の撤退に関する業務、京都店の複合商業施設「プラッツ近鉄」への転換は京都近鉄百貨店最後の社長となる小山が行うことになる。 稲垣は近鉄百貨店へ戻り、監査役に就任した。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「稲垣繁男」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「稲垣繁男」の記事については、「稲垣繁男」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 16:29 UTC 版)
「横山たかし・ひろし」の記事における「来歴・エピソード」の解説
2人とも松竹新喜劇俳優の曽我廼家明蝶の設立した明蝶芸術学院の3期生。明蝶と学院について「(明蝶は)売れてないころも“うちの子や”と、よく名前を出してくれた。明蝶学院は、たかし・ひろしの原点」と語っている。 コンビ結成直後から、オカマに扮したたかしが、相方のひろしに迫る「おかまどつき漫才」でいきなり売れ、1971年(昭和46年)のNHK上方漫才コンテスト新人賞受賞するなど、下積みの苦労は余りしていない。しかし当時の放送倫理基準では問題視され、テレビ・ラジオからの出演要請が少なかったため、寄席主体だった(朝日放送「ナンバ壱番館」、NHK「上方演芸会」)。なお「笑点」には、1970年代前半からたかしが療養に入る前まで、何度も出演している。 ホラ吹き漫才は1971年、神戸松竹座に出ていた頃、たかしが当時人気だった歌手の藤圭子の愛人だとホラを吹いたら受けたので、その後田中角栄の大言壮語を振ったりしたことで、ホラ吹き漫才のスタイルが生まれた(上方演芸会)。またたかしの派手な燕尾服の衣装はたまたまテレビで園遊会のニュースを見ていたら着ている人がいて参考にした。 生活苦に喘いでいるというネタを信じた客が泣き出したり、これでご飯を食べなさいと現金を渡されたことがある。 マンネリ化もあって、漫才ブームにも無縁のまま低迷、1990年代に入ってやしきたかじんが「たかし・ひろしの漫才は面白い」と番組のゲストに呼んだことを契機に、再浮上した。たかしは「たかじんのお陰で飯を食えるようになった」と、べんちゃら含みの発言をしている。 1988年頃に20周年を機会に芸に行き詰まりで解散・廃業を考えたことがある。営業の終了後に喫茶店で話し合いが持たれた。 1994年(平成6年)、第29回上方漫才大賞で大賞を受賞。 たかしはデビュー当時のオセロの中島知子と松嶋尚美に対して『10年間頑張ったら100万円やる!!』と高言を吐いた。そして活動10年目の正月に中島と松嶋二人が、たかしの楽屋を訪れ『活動10年目に入りました、約束はどうなっていますか?』に対し、たかしは『すまんかった!勘弁してくれ!!』と土下座して謝り、値引きして二人に10万円をやった。 2009年(平成21年)コンビ結成40周年。近年ひろしはボケ防止のため、落語に挑戦している。 2014年3月に、たかしが腰部脊柱管狭窄症を発症し、約1年の間活動を休止した。その間、たかしはリハビリテーションに励んだが、下半身が自由にならず舞台への復帰が危ぶまれた。その話を聞いた後輩芸人の増田英彦の発案により、車椅子での舞台復帰が計画された。金色の車椅子を特注し、2015年3月、それをネタに織り込んで舞台へ復帰した。その後、2018年1月には腸腰筋膿瘍の手術を受け、同年5月に舞台に復帰していたが再び腰の痛みなどを訴え、治療を続けていたという。なお、同年12月24日、大阪・阿倍野でのイベントが、たかしにとって生前最後の出演となった。 2019年に入り、たかしが4月頃に受けた検査結果が芳しくなくそのまま入院し、同年6月1日3時51分、多臓器不全のため、大阪市の病院で死去した。70歳没。同年8月6日、リーガロイヤルホテル大阪にて「横山たかしを偲ぶ会」が開催された。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「横山たかし・ひろし」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「横山たかし・ひろし」の記事については、「横山たかし・ひろし」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 22:46 UTC 版)
2007年 6月30日、田中が『まる生』のMCを同期の戸部洋子と務めた際、「1度若手で男おばさんをやりたい」と冗談交じりに話していた。 8月11日、『フジアナスタジオ まる生2007真夏の打ち上げ花火4時間スペシャル!!』で放映された「男おばさんサマートークライブ2007」にて結成することを発表。司会の軽部真一・笠井信輔には何も知らされておらず、突然、渡辺・田中が登場するというサプライズ企画となっていた。 8月25日、『まる生』放送中、コーナー宣伝のため(知人のスタジオ見学付き添いも兼ねて)スタジオを訪れていた田中アナが乱入という形で急遽スタジオに登場。当日MCの渡辺、秋元優里、生野陽子の中に加わり、本目的であったコーナーの宣伝とコーナー開始に至るまでの経緯(以前の冗談話がきっかけで企画が立ち上げられたこと)を明かした。 9月15日、『まる生』にてこの日初放映となった「男おばさんJr.のコーナー」のVTR明け、当日MCの梅津弥英子がグラビア写真集を前に本能剥き出し、興奮気味に話す2人(渡辺・田中)を“ケダモノ”呼ばわり。今後のコーナー存続を早くも危惧していたが、最終的には応援する立場を見せていた。また、同コーナーにて田中は、自分達が『男おばさんJr.』であることから、本家の方を『男おばさんSr.(シニア)』と呼んだ。 10月1日更新分、フジテレビホームページ内、アナウンスマカジンの「this week's FACE」に起用された。 11月20日更新分、同上、アナウンスマカジンの「アナルームニュース」に田中が「NO TALK, NO LIFE!!」というタイトルで、『男おばさんJr.』に関する記事を書いた。 12月22日、『まる生』300回記念5時間スペシャルで、初の15分拡大スペシャル。また、夏のスペシャル(上記参照)以来の本家「男おばさん」とのコラボレーションが実現した。 2010年 4月、『まる生』レギュラーコーナーとしての「男おばさんJr」は終了。後継の「まる生○○部」コーナーの中でハンサム部として以後、不定期出演。 2011年 10月22日、この日の放送で当番を務めていた渡辺らから『まる生』レギュラー放送の終了が発表される。 11月19日、『まる生』レギュラー放送の最終回。渡辺・田中のコンビ・男おばさんJr(まる生ハンサム部)は事実上の活動休止となる。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「男おばさんJr」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「男おばさんJr」の記事については、「男おばさんJr」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 07:07 UTC 版)
メンバーの所属していたCBSソニー・ヤングポップス制作室が企画し、クリスマス企画物として登場させた、期間限定の女性アイドルグループである。キャッチフレーズは「クリスマスに天使が地上に舞い降りた」。 3人ともそれぞれに既にアイドルとして個人の活動を行っていたなかで、期間限定で1つにまとめられた形のグループである。 リリース作品はシングル、アルバム、ビデオ各1作品ずつである。またアルバム用に書き下ろしたのは1曲のみで、その結果アルバムと言ってもソロの、しかもカバー曲ばかりになっている(これらの曲もCBSソニー所属の歌手のものが多い)。すなわち3人で一緒に歌う曲は1曲のみである(ただしコンサート=ビデオではカバー曲であるが「ジングルベル・ロック」「ホワイト・クリスマス」を歌っている)。また、各々のメンバーは自身のオリジナル曲を持っているので、コンサートでは自身の歌を歌っている。 最初のステージでは、サンタクロースの衣装で登場、その後、背中に羽のつけた純白のミニドレス風ワンピースに衣替えをし、ソロ曲の時には、各自の衣装で歌った。 ステージでの基本的な立ち位置は、中央が中山で左右が河田、田山である。CDジャケットやグラビア等はランダム。 熊本でのステージでは準公式イベントでもあったため「立ち見」が警備員によって厳重に監視されていた。しかし3人はそのことを知らず、誰も立ち上がらないので、盛り上がらず、不思議に思ったと語っている。 大阪御堂会館では中山自身が作詞をしたというMCに観客から野次・怒号が飛び、彼女は話も聞いてくれないのかと困り果てたが、めげずに歌った。 結成当初は3人とも自分以外の他の2人を見た目のイメージから、あまり喋らない静かな人なのかと予想していた。しかし話してみるとそのようなことはなく、すぐに打ち解け、移動のバスや電車内、また泊まっていたホテル等でも夜中まで3人で延々と喋っていた。 短期間の活動ではあったが、後に活動を振り返った座談会にて、「また、あの時に戻れないかな」「信頼しあえる人が出来た」「(芸能界での)ホントの友達が出来た」と本人達は語っている。また、後に田山は雑誌の特集で仕事が無い休日の過ごし方について話す場面にて、「ホントはね、忍ちゃんや純子ちゃんと会えたりするといいんですけど」と漏らしている。 3人とも日出女子学園高校出身である。(楽天使としての活動時は河田は中学生であり、受験生であった。河田の入学後は、中山が3年生、田山が2年生、河田が1年生という状態であった。)しかし、それぞれの仕事の時間がバラバラであり、学校にいない時間も多かったため、学内で会ったり話したりする機会はほとんど無かったという。そのため、楽天使の活動後はお互いに文通や電話にて連絡を取り合ったと、後に田山は話している。 後に「七つ星」という期間限定グループが結成された際、内部ユニットとして楽天使は一度再結成をしている。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「楽天使」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「楽天使」の記事については、「楽天使」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 06:04 UTC 版)
養成所時代から、お互い大のプロレス好きという事もあって意気投合しそのままコンビを結成する。心斎橋筋2丁目劇場を拠点として、コントを主体に活動。主にプロレス技をふんだんに使った激しいコントを武器に活躍した。デビュー1年目から2丁目劇場のレギュラーメンバーに抜擢され、月1のトーナメント大会で3連覇を達成し殿堂入りを果たすなど、同期の中では頭角を現す存在になっていった。 しかし、結成2年目辺りから小林がピンでテレビやライブに呼ばれる事が多くなって次第にコンビ格差が広がっていき、それに対する松口の嫉妬もかなり強まっていったという。更に同時期に松口が尊敬する漫才師・ベイブルースの河本栄得が劇症肝炎による脳出血で急逝した事をきっかけに漫才に挑戦したいという気持ちが再燃し、最終的に松口から小林へ解散を切り出した。しかし、その事を告げられた小林は直前までコンビの解散を拒み続けたという(最終的には小林が折れ、解散となった。)。一方で小林によると、当時の小林が作っていたネタが「下着泥棒同士が殺し合う」などといった、かなり設定が無茶苦茶なものであったため、松口から「お前とやってたら絶対売れない」と言われ解散したと2012年7月15日放送の「ざっくりハイタッチ」内で語られている。 松口はハリガネロック解散後に出版した自身の著書内で小林を「類まれな才能の持ち主」と語り、また小林も松口を「俺ら2人でMCやったら1番おもろい」と語っており、お互いを高く評価し合っていた。この為解散後も不仲という訳ではなく、互いに関係は良好である。 コンビ名の「松口VS小林」の「VS」が「バーサス」ではなく「ブイエス」という読み方なのは、コンビ名を考えた松口が当時「VS」を「バーサス」と読む事を知らなかったからとの事。この事実をコンビ活動中に松口は相方である小林にも伝えた事はなかった。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「松口VS小林」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「松口VS小林」の記事については、「松口VS小林」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 09:23 UTC 版)
ホリプロ時代の芸名は本名の大森玲子(おおもり れいこ)。Eldie Media Works所属時代の芸名は相原玲。ホリプロ時代は休業期間を除きHiPメンバー。また、HiP内で「EARTH(Eri Ayana Reiko True Horizon)」という内部ユニットにも所属。当時の愛称は「れーこ」(本人は“れ→こ”という表記を好んでいた)。 1996年 第21回ホリプロタレントスカウトキャラバン「PURE GIRLオーディション」ピュアガール賞を受賞し、清純派アイドルとして芸能界入り。 『家政婦は見た!』シリーズのゲスト出演でドラマデビュー。 1998年 テレビアニメ『魔法のステージファンシーララ』(テレビ大阪ほか)のヒロイン役で声優を務め、同時に特徴的なアニメ声を生かして主題歌で歌手デビュー。また、この年は「EARTH(アース)」として写真集、DVD&ビデオも発売し、NTV『スーパージョッキー』で宣伝するなど当時流行のジュニアアイドルブームにおいてU-15タレントとして多忙を極め、“ポスト優香”と目されていた。 1999年 大阪・毎日放送ラジオで深夜の生放送番組に出演したことで、大阪府警がホリプロと毎日放送の社員を労働基準法違反の疑いで書類送検した。 この件に関してジャニーズ事務所所属の未成年タレントの深夜労働を合法化していたいわゆる「芸能タレント通達」(昭和63年7月30日基収355号)が、(歌手デビューもしていた)彼女には及ばないのは理不尽ということで一部からは批判も出ていたが、2000年(平成12年)4月13日に行われた「第147回国会 青少年問題に関する特別委員会 第5号」において、それに対する見解が示されている。 2000年 4月、高校進学を機に学業優先を理由として芸能活動を休止。2001年8月20日復帰、HiPを主体に活動再開。 2003年 交際男性とのキス写真を週刊誌に掲載される。大森はこのプライベート写真流出をリベンジポルノと考えている。その後も地元でのヤンキー生活が暴露され、清純派のイメージが大きく傷ついた。 2004年 12月、ホリプロとの契約が終了(事実上の解雇)。 2005年 3月、Eldie Media Worksと契約、相原玲と改名し新たに活動をスタート。 2009年 Eldie Media Worksと4月との契約を終了し、バンド「Rainy UNGLEBUN」のRayとしての活動に専念。 2012年 7月29日、Rainy UNGLEBUNが解散。 2014年 ホリプロOBスタッフが設立した事務所「ファイブドアーズ」(現:ADS)に移籍し、芸名を元の大森玲子に戻して芸能活動を再開している。 2016年 7月8日放送TBS系『爆報! THE フライデー』に登場。バンド時代に入れたタトゥーの除去手術(青山セレスクリニックにて施術)や、「交際男性との現場写真を週刊誌に掲載」のことも扱われた。「現在の職業は水商売」と紹介されている。 2018年 11月28日、会社経営者と入籍。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「大森玲子」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「大森玲子」の記事については、「大森玲子」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:34 UTC 版)
「あひるちゃんスポンジクラブ」の記事における「来歴・エピソード」の解説
コンビ共に長崎県出身で、保育園から小学校・中学校も同じの幼馴染。 2005年 岩本の誘いで松竹芸能の養成所に入り、コンビ結成。松竹芸能タレントスクール東京校10期生で、同期にRICAちゃんやカモシダせぶんなどがいる。 2015年ライブ中の投票にて、旧コンビ名・もりかずきから現在のあひるちゃんスポンジクラブに改名。 2017年から長崎県のアンテナショップ「日本橋長崎館」で日本初のアンテナショップ所属芸人としても活動している(岩本のみスタッフでも活動)。 M-1グランプリ2015~2017に出場。1回戦敗退。 キングオブコント2018に出場。1回戦敗退。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「あひるちゃんスポンジクラブ」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「あひるちゃんスポンジクラブ」の記事については、「あひるちゃんスポンジクラブ」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:56 UTC 版)
特攻服に身を纏い、暴走族風のスタイルで芸を行う。実際、北海道の暴走族3団体のトップだったという過去を持っている。芸名はニューヨーク・マフィアのガンビーノ一家が由来。 一方、2012年には、日本漢字能力検定1級を合格しており、クイズ番組への出演も多い。熱血!平成教育学院では、「漢字番長」の異名を持っている(師匠であるたけし及び、たけしの親友である所ジョージが雑誌『FAMOSO』で使用した衣装を着用して出演する)。 芸人としての活動以外にも、俳優として活動しており、師匠ビートたけしが監督した映画をはじめ、ドラマ・映画に出演している。 既婚であり、子供がいる。 かつて、同じくたけし軍団若手の一員であるアル北郷と『スピーク☆イージー』というコンビを組んでいた。師匠であるたけしからは、その礼儀正しさが気に入られており、浅草キッド以降の「たけし軍団第3世代」の中では非常に信頼されている。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「ガンビーノ小林」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「ガンビーノ小林」の記事については、「ガンビーノ小林」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 15:01 UTC 版)
舛成孝二の作品やJ.C.STAFFの作品に参加することが多い。『ハチミツとクローバー』第7話「はぐ、一緒に行こう」では一人原画を行い注目を集める(絵コンテ・演出は舛成)。また、同じ年に放送した『かみちゅ!』でもその実績を認められ、『よみがえる空 -RESCUE WINGS-』では、20代にしてキャラクターデザイン・総作画監督を務めた。リアル系のキャラのフォルムとオバケなどを多用したコミカルな芝居の二面性を持つ。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「竹内哲也」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「竹内哲也」の記事については、「竹内哲也」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 01:56 UTC 版)
京華中学高等学校出身。高校時代に吹奏楽部に入ってマーチングバンドの指揮を担当したことがきっかけに、エンターテイメントの楽しさを知る。 NHKプロモーション所属で俳優として活動、映画監督・演出家の深町幸男のもとで勉強し、映画・舞台・ドラマなどに出演する。1999年発売のPlayStationソフト『ファイナルファンタジーVIII』ゼル・ディン役のモーションキャプチャが役者としてのデビュー作となる。 2001年にPS2ゲーム『ファイナルファンタジーX』(以下『FFX』)で主人公・ティーダのモーションアクターと同時に声を演じたことで、それ以後は声優としての活動を主としている。もともとティーダのモーションキャプチャ担当だったが、100人以上オーディションをしても声優が決まらなかったため、最終的に森田にもオーディションの声がかかり採用された。ティーダ役に決まった当初は「声だけだからなんとかなる」と思っていたが、実際は収録した自分の声を聞いて動きのない演技に愕然としたという。『FFX』の共演者である「石川英郎さん、中井和哉さん、神谷浩史さんにお会いしてなかったら、声の仕事を目指すことはなかったと思います」と述べている。声の演技の面白さと仕事に対する姿勢に尊敬を抱き、「この方たちのいる業界で仕事をしたい」「同じ事務所に入りたい」と思うようになる。2003年9月1日にフリーを経て、声優として初めての所属事務所である青二プロダクションに移籍した。 2004年10月にはテレビアニメ『BLEACH』で主人公・黒崎一護を演じた。2005年には『聖闘士星矢 冥王ハーデス冥界編』において古谷徹に代わり主人公・ペガサス星矢の声を担当することになった。オーディションで決まった際、森田は涙を流して喜んだという。また、『リングにかけろ1』の主人公・高嶺竜児の声も演じるなど、車田正美原作の作品に主人公役として2度抜擢された。 2007年には第1回声優アワードで新人賞 (男優部門)を受賞した。 2008年に伊藤健太郎主催の劇団K-Showの公演に客演し、舞台復帰した。2009年10月には初主演・初座長公演を果たした。 2012年にはRING BONESより歌手デビュー。 2013年にアナフィラキシーショックにより生死の境をさまよい、一時は危険な状態にあったことを自身のツイッターで告白した。アナフィラキシーショックと心筋梗塞と副作用で「3回死にそう」だったという。非常に危険な状態であったが、医師の尽力により回復した。 2020年12月31日、自身のツイッターにて17年間所属していた青二プロダクションを退社する旨を発表。2021年1月1日からフリーとして活動する。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「森田成一」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「森田成一」の記事については、「森田成一」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 08:19 UTC 版)
『柔道一直線』、『俺は透明人間!』など連続テレビ番組に出演。「戸島和美」名義で『超人バロム・1』、「北島和美」名義で『流星人間ゾーン』にレギュラー出演。夫は俳優の中村ブン。 『超人バロム・1』第22話「魔人ヒャクメルゲが目をくりぬく!」での夜間ロケでは、ロケバスから出たとたん、登場魔人の「ヒャクメルゲ」に出くわして、あまりの恐さにバスの反対側に逃げて泣き出してしまった。スタッフはヒャクメルゲに「駄目だよ、お芝居の前に泣かしちゃ!」と怒ったという。東映生田スタジオ作品でのゲストが多いが、スタッフに可愛がられて声をかけてもらってのことだったと語っている。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「北原和美」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「北原和美」の記事については、「北原和美」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 05:53 UTC 版)
小学4年生の頃によい映画を見る会という団体が企画した、埼玉県在住の小学生をメインキャストにした教育映画『あすも夕やけ』という作品に、通っていた小学校の代表としてオーディションに参加し、運よく準主役で受かり夏休みいっぱいロケに参加し初出演を果たす。その映画には先生役で風間杜夫や、お母さん役で樹木希林が出演していたりと、教育映画にしてはかなり本格的な作品であった。雨の中で泥まみれになるシーンや、ケンカをするシーンがあったりと、ロケは結構大変ではあったが、子供心にすごく楽しかったという。同作品には小学生が十数人ほど出演していたが、その出演者の中に劇団こまどりに所属していた当時子役だった熊谷誠二がおり、岩田がロケの間、事あるごとに熊谷に「面白いね、面白いね」と言っていると、熊谷から「じゃあ、うちの劇団に来れば?」と勧められる。それを機に、親に「半年くらい劇団に通わせてくれ」と頼み込む。 最初は反対されたものの、岩田の粘り強さにとうとう根負けし「そんなにやりたいなら、レッスンにも、仮に仕事が決まったとしても、親は一切ついていかない」という条件付きで許可を貰う。そして、小学5年生の5月14日に劇団こまどりに入団、表現の道へと入る。それ以前は、特に役者志望だったというわけではなく、映画に興味があるとか、演技をしてみたいなんていうことはまったく考えていなかったのだが、現在までこういう世界にいさせてもらっているというのは不思議な感じがするとの事。 中学2年生の時に「Checker's」というバンドを結成。ビートルズ、ヴァン・ヘイレン、イーグルス、ジャーニー、オフコースなどの幅広いジャンルのコピーバンドで、ボーカルを担当。スタジオ練習時のデモテープが一本のみ存在するが、現在所在は不明。埼玉県立所沢西高等学校の出身者であり、高校時代は美術部に所属していた。その後東洋美術学校にも通っていたが中退している。 生徒役で出演した『1年B組新八先生』で人気者になり、放送当時は雑誌で特集が組まれたり、月にファンレターが1万通届くほどだったという。 『風の谷のナウシカ』のオーディションに呼ばれてアスベル役を受けたが、最後の2人まで残ったもののアスベル役は松田洋治に決定され落選したという。また『テニスの王子様』のオーディションに5回呼ばれたが、5回とも落ちたと語っている。 1988年アニメ映画版『AKIRA』の主人公・金田正太郎は岩田の転機となった役となり、『AKIRA』の出演で、声優としての岩田のネームバリューは上がったが、当時所属していた劇団こまどりは声優に特化した事務所ではなかったため営業をしてもらえず、『AKIRA』でのキャリアは「淡々と1本映画をやった」という形だけだった。そのため、声優の仕事が増えず、数年間仕事が来なくて辛かったという。 『ここはグリーン・ウッド』6巻(白泉社文庫版)の巻末解説で、声優活動初期には、声優として未熟だったためよく叱られたと語っている。これは役者の演技と声優の演技が異なるためである。また自分を一人前の声優として育ててくれたのは『ここはグリーン・ウッド』だったとも語っている。 『ザ・キング・オブ・ファイターズ』シリーズのKUSANAGI(シリーズの主人公である草薙京のクローンまたは幻影)においては『AKIRA』の島鉄雄に酷似したK9999というキャラクターとの特殊デモがある。また、同シリーズ当初、草薙京のボツ案である霧島翔を演じており草薙京の声優として採用候補に挙がっていたという逸話がある。 『勇者王ガオガイガー』では1作品でスタリオン・ホワイトとマイク・サウンダース13兄弟、肋骨原種の15人分演じたことがある。 2010年、イラストレーターのいしいのりえとユニット「カナタ」を結成し、朗読劇『あぶな絵、あぶり声』はシリーズ化している。 2013年、第7回声優アワードパーソナリティ賞を受賞。 2014年4月1日、Twitterにて、同年3月31日をもって大沢事務所を退所し 、アクロス エンタテインメント所属になったことを発表。 2019年6月1日、Twitterにて、同年5月31日をもってアクロスエンタテインメントを退所し、青二プロダクション所属になったことを発表。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「岩田光央」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「岩田光央」の記事については、「岩田光央」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 12:43 UTC 版)
代々木アニメーション学院声優タレント科・日本ナレーション演技研究所卒。鈴村健一とは、日ナレ在学時の同期。日ナレ研修科所属中の初めての仕事はガソリンスタンドの店員研修用の顔出し出演ビデオだった。 TVアニメデビュー作は『家なき子レミ』のアンリ役、養成所内以外で初めて合格した役は、『デ・ジ・キャラット クリスマススペシャル』のリク・ハイゼンベルク役。 2001年から2005年にかけて、鈴木千尋・サエキトモとともにアニメ『デ・ジ・キャラット』から派生した声優ユニット「P・K・O」のメンバーとしてCDの発売やライブ活動などを行っていたが、2005年にサエキが病気療養で休業となったためユニット自体も活動を休止している。 2016年5月16日にデビュー20周年記念の書籍「てきとう」を発行。 2020年3月19日よりYouTubeチャンネル「鳥さん学級」を開設。また、公式Twitterも同時に開始した。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「鳥海浩輔」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「鳥海浩輔」の記事については、「鳥海浩輔」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 07:11 UTC 版)
もともとは普通に勤め人をしていて、「このまま自分は淡々とした人生を送って行くんだろうなと思っていた」という。1955年、銀座にたまたま行きつけの飲み屋があり、ここの女性従業員が新劇劇団「近代劇場」のプロデューサーと知り合いだったことから、このプロデューサーからテレビ番組の『ダイヤル110番』(日本テレビ)での役探しを頼まれ、奥村を紹介したところ、これが俳優デビューとなった。「芝居の“し”の字も知らなかったし、役者になれるともなろうとも思っていなかったが、やってみると面白く、そのままこの世界に入ることになった」と語っている。 早速この劇団のプロデューサーに入団を申し込んだが、「とにかく食っていけませんよ」と念押しされた。独身だったので構わず入団したが、入ってみるとこの劇団は難しい芝居ばかりで、もっと大衆的なものを演りたかったことから2〜3カ月で辞めることになった。 「近代劇場」退団後、いくつかの劇団を転々としたが、「最初に言われた通り、本当に食っていけなかった」という。その後、さまざまな劇団から呼ばれたり、事務所にかけもち所属してテレビに出たりという生活を続けた。河津清三郎らが所属していた「第一協団」に入ったこともあったが、「無名の役者を売るのは疲れる」と言われ、1年でクビになったこともあった。 この年、『ゴジラの逆襲』(東宝)に群衆役で出演。ゴジラから逃げ惑う役をもらい、うれしくて親戚に電話をしたが、劇場で観たところ、怪獣ゴジラとの対比で人間が小さすぎて、自分でもどこに写っているのかわからなかったという。 創生期のTBSのドラマに数多く関わり、飯島敏宏監督のもと、1961年の『月曜日の男』に多数ゲスト出演。TBSでは『ウルトラQ』や『ウルトラマン』など、ウルトラシリーズ(円谷プロ)にも出演した。奥村は飯島について、「自由に演らせてくれる監督で、鈴木清順と同じく、役者のいいところを引き出してくれる。現場の雰囲気もとてもよく、印象に残っている」と語っている。達者な動きから、1967年の『ジャイアントロボ』(NET・東映)では、被り物をつけて宇宙怪物「吸血鬼ドラキュラン」を演じた。 1971年の『仮面ライダー』(毎日放送・東映)では、ゲスト出演作である第10話「よみがえるコブラ男」がちょうど主演の藤岡弘が撮影現場で事故で重傷を負った回に当たり、このときちょうど奥村はロケバスで待機中だった。事故の一報を聞いて現場に駆け付け、「救急車!」と叫んで駆け回ったという。 1984年、『お葬式』では、最初に監督の伊丹十三から脚本を一読させられたあとに「何の役だと思います?」と聞かれ、伊丹から「死体の役ですよ」と言われた時はびっくりしたという。この死体役を演じるために練習を重ね、数分間息を止められるようになり、結果的にこの努力が高く評価されて「日本一の死体役」と絶賛された。共演の笠智衆からは「この映画の主役はあなたですよ、ラストシーンはあなたのアップでしょう」と言われたという。「長年役者をやってきたけど、この役をやってから、やっと食えるだけのギャラがもらえるようになりました」と述べている。 2001年の『BROTHER』では、初めてヤクザの親分を演じた。北野武監督からは「奥村さんはそのまま何もしないでいいですよ、ホントのヤクザの親分は奥村さんみたいなんです」と言われたという。 2002年、NHK総合テレビの『スタジオパークからこんにちは』に出演。特技のドラム演奏を披露したり、浴衣で踊る姿が反響を呼び、この年から全国各地の福祉施設の依頼を受けて公演に回った。「無名時代はそういうお声は全くかからなかったんですけどね」と語っている。 アクの強くないタイプで、小市民役を得意としていた(マンションの管理人役などは非常に多い)。 大滝秀治とは将棋仲間だった。 2003年の『爆竜戦隊アバレンジャー』(テレビ朝日・東映)に、杉下竜之介役で出演。同作の映画版『爆竜戦隊アバレンジャー DELUXE アバレサマーはキンキン中!』では、ビキニ姿にされるシーンがあり、「これは見どころではないでしょうか」と語っている。 2009年12月24日午前3時27分、東京都武蔵野市の病院で呼吸器不全のため死去。79歳没。2010年1月公開の映画『アイ・アム I am.』、同年3月公開の川端康成原作オムニバス映画『掌の小説』が事実上の遺作となった。 左利き。趣味はジャズ、社交ダンス、江戸芸。特技は英語、ドラム。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「奥村公延」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「奥村公延」の記事については、「奥村公延」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/26 20:29 UTC 版)
1989年のUCC CAN COFFEE ミスコンテストグランプリの入賞者で1990年に結成。 グループであったが、それぞれ所属事務所が異なっていた(加藤・吉村:ソニー・ミュージックアーティスツ、山本:オスカープロモーション)。 正式なファンクラブはなかったが、ファンサークルとしてメンバー(特に加藤)が製作した会報を数回、ファンに向けて発行していた。 同時期に活躍したアイドルグループ(CoCo、ribbon等)と違って、テレビ番組の露出が少なかったため、いわゆるB級のアイドルユニットとして終わった。 楽天使(中山忍・田山真美子・河田純子)、宍戸留美とともに期間限定ユニット「七つ星」に参加した。 初期の2曲からDANCE調に方向転換をした後の2曲について、後に加藤は「はっきり言って失敗」と語っている。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「Lip's」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「Lip's」の記事については、「Lip's」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/02 10:27 UTC 版)
「岩田卓也 (演奏家)」の記事における「来歴・エピソード」の解説
1980年6月8日生まれ / 愛知県常滑市出身。12歳より母の影響で尺八をはじめる。東京藝術大学音楽学部邦楽科入学後に人間国宝の山本邦山に師事する。在学中にNHK『どんとこい民謡(2001年)』、『紅白歌合戦(2002年)』へ出演するなど活動の場を広げていく。その後2004年、23歳で参加した第10回「長谷検校記念全国邦楽コンクール」にて最年少で最優秀賞・文部科学大臣奨励賞を受賞。2009年東京邦楽コンクール1位受賞と日本伝統文化振興財団賞受賞。2010年NHK日本賞授賞式にて皇太子殿下の前にてゲスト演奏。2012年、世界一を決める「国際尺八コンクール」で優勝。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「岩田卓也 (演奏家)」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「岩田卓也 (演奏家)」の記事については、「岩田卓也 (演奏家)」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 09:28 UTC 版)
「VOBAVOBA」の記事における「来歴・エピソード」の解説
彼らがゲストとして招かれたFM桐生の番組ランチどきっ!における約1時間にわたるメンバーのトークコーナでは、自らのエピソードや来歴を公表している。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「VOBAVOBA」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「VOBAVOBA」の記事については、「VOBAVOBA」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 15:41 UTC 版)
「パブロ・シーグレル」の記事における「来歴・エピソード」の解説
名門ブエノスアイレス音楽院で金賞を受賞、首席で卒業。14歳でクラシック・ピアニストとしてデビューする。ガリア・シャルフマンとアドリアン・モレーノにピアノを、ヘラルド・ガンディーニとフランシスコ・クロプルフに作曲法を学んだ。 作曲家として映画 『Tacos Altos』(1985年)、ドラマ映画『Adios Roberto』(1985年)、演劇 『Polvo de Estrellas』、テレビシリーズ『'La Noche de los Grandes』、バレエ、コマーシャル等の作曲を数々手掛け、演劇『Traición』の作曲でアルゼンチンのアルレキン最優秀作曲賞を受賞する。 当時、アルゼンチンで絶賛されていたパブロ・シーグレル・トリオの評判を聞きつけ、クラシック・ピアニストとしてヴィルトゥオーゾかつジャズの即興の才をもつピアニストを探していたタンゴの革命児アストル・ピアソラに、アストル・ピアソラ五重奏団のメンバーとして招かれる。1978年から1989年の師の引退まで10年余巨匠を支え、ピアニストとしてヨーロッパを中心とする世界ツアーに参加し、オーケストラとの公演にも出演。ピアソラ五重奏団の音楽的発展に大きな影響を与える。ピアソラの黄金時代にリリースされた『Zero Hour』、『La Camorra』、『The Central Park Concert』、『Live At The Montreal Jazz Festival』等にも参加する。1990年にパブロ・シーグレル四重奏団を立ち上げる。 イタリア人歌手ミルバ、メゾソプラノ歌手デニーズ・グレイブス、テノール歌手・指揮者プラシド・ドミンゴをはじめ、バレエダンサーのフリオ・ボッカ、ポール・テイラー・ダンスカンパニー等のバレエ団、ゲイリー・バートン、ブランフォード・マルサリス、パキート・デ・リベラ、レジーナ・カーター、ケニー・ギャレット等ジャズ・アーティストとの共演を重ねるほか、オルフェウス室内管弦楽団、ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団、シドニー交響楽団、トルコ国立大統領交響楽団、コロラド交響楽団をはじめ世界を代表するオーケストラと共演を果たす。 2012年にはシーグレル編曲版「ブエノスアイレスの四季」日本初演が東京オペラシティ文化財団主催にてオーケストラ編成で上演される。2016年には横浜芸術振興財団/横浜能楽堂による委嘱で新作「12 Horas〜重なる瞬間(とき)〜」を、尺八、琴、ピアノ、バンドネオン、弦楽五重奏、和打楽器、ドラムのために作曲し、みなとみらいホールにて藤原道山(尺八)、奥田雅楽之一(箏)をゲストに世界初演。作品は日本伝統音楽とアルゼンチンのヌエボタンゴとの壮大なクロスオーバーを遂げたことで絶賛される。 教育者としても、ニューイングランド音楽院、バークリー音楽大学、インディアナ大学、ハーバード大学等、ヨーロッパ、北米、南米、アジアで後進の育成にも力を注いでいる。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「パブロ・シーグレル」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「パブロ・シーグレル」の記事については、「パブロ・シーグレル」の概要を参照ください。
来歴・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:36 UTC 版)
東京アニメーター学院を卒業後、スタジオたくらんけへ入社。僅か半年足らずで退社しフィール、ガイナックスを経てA-1 Pictures所属となる。尊敬しているアニメーターに梅津泰臣、柳沢まさひで、桂憲一郎を挙げている。 フィール退社後も、作画監督や原画マンとして参加している。同世代のアニメーターである堀口悠紀子を尊敬しているらしく、堀口神名義で原画に参加した事がある。 2012年には堀口(「白身魚」名義)が挿絵イラストを担当しているライトノベル『ココロコネクト』のアニメ版のキャラクターデザインを担当する事になった。 自身がキャラクターデザインを手がけた『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』は『けいおん!』の絵柄を強く意識した物となっている。 2014年、『ヤマノススメ セカンドシーズン』エンディングにて演出(絵コンテ・演出)デビューを果たした。
※この「来歴・エピソード」の解説は、「赤井俊文」の解説の一部です。
「来歴・エピソード」を含む「赤井俊文」の記事については、「赤井俊文」の概要を参照ください。
- 来歴・エピソードのページへのリンク