コンビ結成
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元々濱口はお調子者でクラスの人気者ではあったが、芸人は特別な存在だと捉え進路として考えたことはなかった。その後に高校を中退していたかつてのクラスメイトが吉本興業の養成所であるNSCへ入学したのを知り、濱口は「そんな身近にいた人が芸人になれるのなら、自分もなれるのではないか」と思い立ち、就職の決まっていた有野を誘おうと考えた。ちなみにその同級生とは白川悟実(現・テンダラー)であった。
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コンビ結成
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元々、名古屋で青木さやかを含む5人組ユニット「温泉こんにゃくアクロバットショー」で活動していた。それ以前には素人として中京ローカルの番組『電波結社バババ団』に「M&M」というコンビで出演し、フォークダンスDE成子坂と合同コントを披露していた事がある。 2001年10月、ピン芸人として『爆笑オンエアバトル』に一度出演し、425KBでオンエアを獲得。その時に披露したネタはエアウォーカーを使用したもの。当時はディクターランドに所属。 2001年12月に「東京ダイナマイト」としてハチミツ二郎とコンビを結成した。相方ハチミツ二郎とは、青木が松田を紹介する形で知り合った。東京ダイナマイトのコンセプトに合わなかったため実現しなかったが、青木は自分も加わりトリオでやりたかったという。
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コンビ結成(2008年)
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2007年頃、ピン芸人「松井祭」として活動していた23歳の松陰寺(松井)と、当時ギャル男でフリーターだった19歳のシュウペイ(成田)は、渋谷の居酒屋で同じアルバイトとして出会った。アルバイトの新人だったシュウペイに松陰寺が「将来何がやりたいのか」を聞いたところ「伝説を作りたい」と返されたのを気に入り、シュウペイをお笑いの世界に誘う。ところがシュウペイはお笑いの世界に興味が無く、松陰寺のピン芸のライブを観てもあまり面白くないと思っていたこともあり断り続けていた。しかし松陰寺が約半年間誘い続けた結果、試しで結成することになり、2008年4月30日に「先輩後輩」(せんぱいこうはい)のコンビ名で活動を開始、7月に表記を「先輩×後輩」に改める。コンビ名の由来は、アルバイトで松陰寺が先輩、シュウペイが後輩だったことから。当初の所属事務所は「ナイスデイ」だったがすぐにフリーになる。
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コンビ結成
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元々、浅草の通称「公園六区」にあったストリップ劇場で、兼子二郎(ビートきよし)は浅草ロック座で劇場進行の修行をし、北野武(ビートたけし)は浅草フランス座(現在は演芸場の浅草東洋館)で深見千三郎門下のコメディアンとしてコントの下積み修行をしていた。たけしは当初、同じフランス座の同僚の青年とコンビを組んでコントを演じたこともあったが、その相方が神経性の病気から入院したため、自然消滅(後のビートたけしの楽曲『浅草キッド』はこの時代を歌ったもの。「夢は捨てたと言わないで」のくだりは相方が病室で「もう夢は捨てた」と発言したことによる)。きよしもレオナルド熊の弟子と漫才コンビを組んで名古屋の大須演芸場に出演することになっていたが、レオナルド熊がその弟子を破門したため、代わりの相方を探していた。 きよしは、以前ストリップの幕間のコントで共演したことがあったたけしに新パートナーの提案を持ちかける。ここで、後のツービートの前身となるコンビが結成されることとなる。たけしの師、深見千三郎は弟子の漫才への転向を認めず、たけしを即刻破門。これで漫才コンビ結成への壁がひとつ消えたが、まだ大きな障壁が残されていた。 それが当時の漫才協団(現・漫才協会)のルール「舞台で漫才をするには漫才協団への加盟が必要」というものだった。当人たちがコントから漫才に演目を変えようと思ったところで、漫才師として勝手に舞台に上がるなど、当時は断固許されない状況だったのだ。そのため、たけしが目をつけたのが松鶴家千とせ。千とせは当時、西秀一という芸名を名乗り、西秀一・秀二として漫才を行っていたが、たけしはその漫才スタイルに惹かれていた。たけしは名古屋の大須演芸場まで赴き、千とせと大阪の漫才コンビ、中田ダイマル・ラケットが麻雀をしていた楽屋に押しかけた。そこで千とせに向かって「パンチの効いたネタをやってましたね、僕らもああいうのをやりたいです」と熱意を訴え、千とせも認めたため、正式に弟子入りした形になった。そして、千とせから漫才師として、松鶴屋一門としてのコンビ名、松鶴家二郎・次郎を授かり、漫才師としての活動が実質的に始まったのである。しかし、その芸名でもヒットに恵まれなかったため、きよしがコロムビア・ライトの付き人経験があったことから、しばらくして空たかし・きよしに改名された(ライトが相方であるコロムビア・トップと絶縁状態にあったため、青空一門ではなく個人の預かりとして芸名が青のない「空」になっている)。
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コンビ結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:10 UTC 版)
2002年4月。高校卒業後、大学進学と共にNSC大阪校(25期)へ入学。25期は前年の第一回『M-1グランプリ』の影響からか入学者が700人(銀シャリによると900人)くらいおり、入学式の会場のなんばグランド花月が満員だった。福徳は大学に進学せずにNSCに入ろうとしたが、母親に止められた。NSCに入るかどうか迷っていた後藤に「やろう」と誘ったのは福徳だが、集団面接を前にして福徳が不安になり「やめようか」と言った時に「やろう言うたやんけ」と後藤が止めた。当時の講師の本多正識は、ジャルジャルの二人に“上品な子たち”という印象を受け、「言葉遣い、表情、所作、小道具の扱い方等々、端々に上品さが伺え、NSCにはあまりいないタイプ」だったという。また、ネタ見せの授業には必ず出席する優等生だった。 コンビ名の由来は、後藤の家で電気を消して寝転がりながらコンビ名を考えている時に、響き重視で“ジャルジャル”と“ジョロジョロ”を思いつき、最終的に文学部の福徳が受けていた大学の語学の授業中に“ジャルジャル”に決定した。他の候補には、「ナプラコッテ」「ノーコン太郎」があった。略称がJAL(ジャル)である日本航空グループと関係はないが、営業などの掴みとして、「2人とも親がパイロットやったからですよ〜嘘ですけど」や「蛇口から水が出ていた」といった作り話を話していた時期もある。 NSC時代にM-1グランプリに挑むも一回戦で敗退。授業でネタ見せがあるのに、落ちたネタしかストックがなく、高校時代の保健室で遊んでいた雰囲気で適当に遊び半分のコントみたいなものをやっていった結果、ネタを漫才からコントへシフトしていった。当初漫才のネタは後藤が作っており捻り出すように作っていたが、2人でコントのネタを作るようになると息をするように作れるようになった。NSC卒業公演では、プラス・マイナスとジャルジャルが司会を務めるなど当時は彼らが25期の2強だった。当時から型にハマらないスタイルでダウンタウンの再来と称され、2020年10月21日放送の『水曜日のダウンタウン』では、銀シャリから同期一の天才と称された。
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