漫才ブーム
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漫才ブーム(まんざいブーム)は、演芸界において、1980年 - 1982年のごく短い期間に漫才がさまざまなメディアを席巻し、またメディアに消費された一大ムーブメントである[1]。
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- ^ “エンタツ・アチャコから知ってます、僕は。糸井重里 人生を変えた、 あの漫才。”. BRUTUS. マガジンハウス (2016年11月1日). 2020年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月21日閲覧。
- ^ 宇野昭(TBS)、千野栄彦(NET)、中島銀兵(NTV)、深町幸男(NHK)「特別企画 テレビ開局30年 第一線テレビマン座談会 『時代を画した「私は貝になりたい」、磯村さん、漫才ブーム』」『週刊読売』1982年5月23日号 pp.36-37、読売新聞社。
- ^ a b c d スポーツニッポン、2012年3月3日25面]
- ^ 漫才ブームで超多忙も安かったギャラ(芸能) ― スポニチ
- ^ ぼやいたるねん:笑芸つれづれ噺
- ^ 読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 読売新聞社、1999年 pp.348-349
- ^ a b c 木村政雄『気がつけば、みんな吉本 全国“吉本化”戦略』勁文社、1995年、p13
- ^ a b c d e f 週刊新潮、1980年8月22日号、p96、97
- ^ 島田紳助 松本人志『哲学』、幻冬舎、2001年、p17 - 19
- 1 漫才ブームとは
- 2 漫才ブームの概要
- 3 芸能界への影響
- 4 代表的な漫才コンビ
漫才ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 20:32 UTC 版)
1980年代初頭の漫才ブーム。B&B・ツービート・紳助・竜介らが漫才ブームの中心的存在だった。その後、ビートたけし・明石家さんま・タモリが冠番組を多く持ち活躍した。3人は「BIG3」と呼ばれ、共演することも多かった。
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漫才ブーム
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1980年からの漫才ブームでは、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。 速射砲さながらに喋りまくるたけしのスタイルや、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れる「不謹慎ネタ」は「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、たけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会の広告を皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば怖くない」「少年よ大志を抱け。老人よ墓石を抱け」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。 1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を2人が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという。 この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS) の初代司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた。 1980年10月、昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。 1982年の夏にはブームは完全に終息し、たけしは「ツービートのたけし」としてではなく「タレント・ビートたけし」として、この頃以降は、単独で司会をする番組を多く持つようになるなどしていった。
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漫才ブーム
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民間放送の開始やテレビ放送の隆盛にともない、上方・東京双方で多くの漫才師がテレビ番組を通じて芸を披露し、人気スターとなった。また、1966年(昭和41年)の「上方漫才大賞」を皮切りに、放送局主催による漫才コンクールの創設が相次いだ。1980年(昭和55年)に相次いで開始された、東西の若手漫才師を紹介する全国ネットのテレビ番組『激突!漫才新幹線』(関西テレビ製作・フジテレビ系列)および『THE MANZAI』(フジテレビ系列)が当時の若者を中心に話題を呼び、「漫才ブーム」と呼ばれる社会現象となった。それぞれの番組に出演した漫才師たちは人気タレントとなり、司会者、歌手、俳優などとしても第一線で活動した。
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漫才ブーム
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「B&B (お笑いコンビ)」の記事における「漫才ブーム」の解説
東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍。東京の業界はB&Bを概ね好意的に受け入れた。このため吉本は円満退社だったという説がある。東京の漫才協団にすんなり加入できたのはこのため。木村政雄は「彼らはまだ、会社として問題になるほどのタレントでもなかった」と述べている。浅草松竹演芸場に当初ノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ。自身もこれを見たというラサール石井は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と話している。同業者にはウケないのが普通なのである。それほど売れていなかったツービートのビートたけしもまた、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受け、スピードを早め、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した、と著書『浅草キッド』に記している。ツービートの看板ネタ「山形いじめ」は、B&Bの「広島vs岡山ネタ」を真似たもので、借用元のB&Bの上京以降「山形いじめ」ネタを封印せざるを得なくなり、それがツービートの過激度を一段と高めることになった。こうして東京でも瞬く間に高い評価を得て、漫才協団幹部の内海桂子が「よくもこんな(凄い)人を吉本がくれたわね」と驚嘆した。 1980年1月、澤田隆治プロデュースによる「花王名人劇場」(関西テレビ)「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演。この番組はゴールデンタイムの1時間枠をMC無しで、B&Bとやすしきよし、星セント・ルイスの三組が、おのおの10数分間の持ち時間で漫才のみをする、という当時としても画期的で、勿論現在のゴールデンでも見られない形態のものだった。当時のテレビでの漫才は、お昼の演芸番組(『大正テレビ寄席』など)や、正月の寄席中継、タレントのかくし芸等で3分とか5分とかにコマ切れして見せるもので、この頃はコントが非常に人気があり、特に東京では漫才はコントや落語に比べて影が薄い、古臭いイメージだったのである。関西でも同様で、極端にいえば、漫才は年寄りの娯楽に過ぎないイメージで、当時は演芸番組自体が激減していて、大阪でも漫才だけという番組はなく、テレビ局全体で週1〜2本が細々と残っているだけという状況でゴールデンではほとんど漫才は無かった。ましてや若手漫才師が全国ネットのゴールデンに出演することなど無かった。吉本興業の木村政雄は「若者はゴールデンタイムに漫才なんて見たことがなかったと思う」と述べている。また漫才と言えば、スーツや派手なタキシード、蝶ネクタイ等を着用し、年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視したボケの一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにした郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクション、一発芸を駆使してみせるという高速漫才は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので、やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こした。"16ビート"の"マシンガン漫才"が初めて全国のお茶の間に届けられた。 こういったスタイルは多くがその元祖、草分けといえるものであり、現在もお笑いの基本となっている。元々、この企画はタイトル通り、東京代表の星セント・ルイスと、大阪代表のやすしきよしの激突で、広島vs岡山ネタをやっていた新人のB&Bは"つけ合わせ"としての出演だった。この千載一遇のチャンスをB&Bはモノにしたわけである。長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるという話題性もあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これが各局とも漫才番組を製作する切っ掛けとなった。洋七は「『激突!漫才新幹線』の時は、僕らが一番売れておらず、伸び伸びとできた。お客さんも新鮮に感じたんやろね、ドッカン、ドッカン受けた。終了後、舞台のそでで横山やすし師匠に『お前ら、売れるで』って言われて、ものすごくうれしかったね。ブームが起きるなんて、全然思わなかった。全国ネットで夜9時やから、名前ぐらいは知ってもらえるやろうと。放送翌日にCMの話が来て、びっくりしたわ」などと話している。また漫才番組はドラマと違って、企画を立てて1週間後に放送できるというお手軽さもあった。同年4月から始まった「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)でも、先兵役を務めて、ケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク、漫才ブームを引き起こす。お笑い芸人で初めて化粧品洗剤業界のCM(花王ハイトニックシャンプー)に起用され、お笑い芸人で初めて客席からテープが飛んだ。『月刊平凡』1980年10月号で紳助・竜介と共に漫才師として初めてアイドル誌のグラビア(「対談超特急(3) / B&B 紳助・竜介」)を飾った。サイン色紙を手にした女子中・高校生が演芸場のロビーに列をつくり出待ちした。最初に女性ファンを呼び込み、お笑い芸人をアイドル化させた功績は計り知れない。 漫才師で初めて全国ネットのレギュラー『笑ってる場合ですよ!』の総合MCを務めたのも、B&Bが一番人気があったからである。『サンデー毎日』1981年1月4日・11日合併号の「ニュー漫才 東西の人気コンビ名鑑」という記事のB&Bの紹介に「大阪にいるころはパッとしなかったが東京に出てくるやたちまち大当たり、一躍人気ナンバーワンとなる。"これが青春だ" "広島名物もみじまんじゅう"など数々のギャグやアドリブ、早口言葉で文字通り体当たり演技」と書かれている。ビートたけしは著書『たけし吼える!』で「漫才ブームのころさ、オレ自分で考えてみたわけ。B&B、紳助・竜介とかいただろ。どう考えても四番手くらいだったのよ。ツービートって」と述べている。B&Bは漫才ブームの最大のスターであった。洋七は「あの時期、爆発的に売れてるアイドルがいなかったんです。それで、騒ぐ対象がないから漫才師に向けられたと思う」と解説している。たのきんトリオがブレイクする直前のエアポケット状態の時期であったかもしれない。
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漫才ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:26 UTC 版)
詳細は「漫才ブーム」および「お笑い第二世代」を参照 1979年から1982年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。 澤田隆治、横澤彪といったテレビマン達の手により、寄席演芸の傍流であった漫才がテレビのメインコンテンツに躍り出た。特にパワー溢れた当時の若手漫才師達は一躍時代の寵児となり、笑いが流行の最先端となった。吉本興業はこのブームに乗じて多くの漫才師を送り出し、松竹芸能との形勢を逆転させて東京再進出の足がかりを築いた。 東京においては小劇場やライブ・スペースを活動拠点にした笑いのストリームが生まれつつあった。この主体となったのは硬直した組織の活動に飽き足らないゲリラ集団であり、東京では傍流であったマセキ芸能社の意欲的な活動や三遊亭円丈の「新作落語」ムーブメントは見過ごせない。また自身でネタを構成する芸人や、深夜放送のハガキ職人出身の放送作家の増加に伴い、若者ウケのよいスピーディーで毒や刺激の強いお笑いが増える。また当時は若手の女性芸人が少なかったこともあり、芸歴で言えば後述のお笑い三世代に該当する山田邦子が新人ながらいきなりブレイクし、1つ上の第二世代に混じって台頭していくこととなる。この点、まだ大阪はテレビ局を軸としており興行資本の「小屋」への資本投下はまだ少し先の話となる。 お笑い第二世代の台頭は芸能界にも大きな影響を与え、ギャランティの向上もあり、歌手や俳優と比べて低く見られていたお笑いの地位が大きく飛躍することとなった。特にツービートから独立したビートたけしはラジオパーソナリティや俳優業、歌手活動や店舗プロデュースなど多岐に渡る活動を行い、今日に続くお笑いタレントの多角活動の先鞭をつけることとなった。 この他、一方言に過ぎなかった関西弁は漫才ブームの影響で全国的な知名度を得るようになった。また、それまで放送業界でタブー視されていた「楽屋ネタ」「(出演者の)内輪ネタ」の一般化や、裏方スタッフ(ディレクター・プロデューサー・AD等)が演者としてテレビに登場するようになったのもこの時期である。
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