深夜放送
深夜放送
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平日(曜日では火曜日から土曜日、祝日含む)深夜4:00-4:40「Primetime News」シンガポールチャンネル ニュースアジア(英語版) 「KBSニュース9」韓国KBS 「新闻联播」中国CCTV-1 「東方新聞」 上海RTS 「Main News」香港ATV 「MCOT NEWS」タイCH9 「Thời sự」ベトナムVTV4 「The World Tonight (ABS-CBN)」フィリピンABS-CBN メジャーリーグ中継等の生中継がある場合にはマルチ編成となり、ワールドWaveアジアはサブチャンネル(102ch)にて、同時刻に放送する。
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深夜放送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:19 UTC 版)
1970年5月に深夜放送『パックインミュージック』(以下『パック』)木曜日第2部のパーソナリティを担当。本来、この時間帯は同年4月より、久米宏が担当していたが、久米が体調不良により降板。これにより急遽、林が起用された。 番組では、映画、演劇、音楽を中心にテレビやラジオではなかなか紹介されないもの、人を取り上げることに精力を注ぐことで、数多くの人材を発掘した。荒井由実を「この人は天才です!」と絶賛。 この他、低迷状態にあった日本映画紹介や、小劇団、イベントなどに自ら足を運び『パック』で紹介。林の紹介を聴いて劇場に足を運んだリスナーも多く、初日の客席がガラガラだった劇団が、最終日には満員札止めとなる事態になることもあったという。こうした林の放送での発言から、映画「八月の濡れた砂」や日活ロマンポルノ作品などが若い世代に浸透した。 この他、ニュース番組のパロディ「苦労多かるローカルニュース」では、ニュースに止まらず、パロディCMなどのコーナーがあり、同番組での愛称は「下落合のミドリブタ」。下落合は当時林が住んでいた住所に由来する。 『パックインミュージック第2部』はスポンサー無しの番組であったため、『いすゞ歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ〜』と入れかわる形で第2部自体が廃止され、1974年8月に降板。このときの最終回は酒を飲んで涙しながら放送し、終了後は局の玄関前に集まった約50人のリスナーと一緒に朝焼けを見に上智大学の土手まで歩いていったという。しかし、降板前から活動していたというリスナー有志のパ聴連(『パック』から林を降ろすな聴取者連合)の署名活動(林本人曰く、署名の中には「荒井由実」の名前もあったという)がされた。 こうした中、翌1975年1月には、新宿の東京厚生年金会館ホールで「歌う銀幕スター・夢の狂宴」と銘打ったイベントをプロデュース。林の愛する映画スターに、スクリーンの中で演じてもらうのではなく、ステージの上で歌ってもらおうという企画であった。当時、キネマ旬報編集者の植草信和(後にキネマ旬報編集長)らとともに、出演交渉から演出まで全てを行い、渡哲也、菅原文太、原田芳雄らが観客を前に歌うという、当時、また後の時代としても豪華なイベントを成功させた。同コンサートでは、映画監督鈴木清順も出演させていた。 ファンからの復活を求める声が多かったため、同1975年10月から『パック』火曜深夜(のちに月曜深夜)の担当を務めた。 この第二期『パック』ではデビュー前のタモリを出演させ、四カ国マージャンを放送したり、おすぎとピーコのコーナーを設けるなど、これはと思った映画や歌手、文化人を次々と取り上げた。また、井上陽水と石川セリが同時に出演し、その以後2人は結婚した。 第二期『パック』の看板コーナー「ユア・ヒットしないパレード」(文化放送の長寿番組『ユア・ヒット・パレード』のパロディ)では、山崎ハコ、斉藤哲夫、RCサクセションなどのミュージシャンを紹介した。当時流行のフォークソングとは一線を画した、日本のポップス、ニューミュージックなどを数多く紹介するコーナーとなった。劇団「ミスタースリムカンパニー」も紹介した。 また第二期『パック』と並行して、1976年4月から1978年3月まで夜9時台の若者向けワイド番組『一慶・美雄の夜はともだち』も担当した。
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深夜放送
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「NHKラジオ第1放送」の記事における「深夜放送」の解説
TBSラジオや文化放送、ニッポン放送など民間放送(民放)では、早いものは1950年代からそれぞれレギュラー深夜放送を開始したがNHKは行わず、毎夜日付が変わった時点(午前0-5時)で放送休止していた。 1988年秋から1989年年始にかけて、昭和天皇の病状を伝えるための終夜放送を実施した際、この時間の大半でクラシック音楽を流した。この反響を受け、1990年4月から試験的に『特集・ラジオ深夜便』と題して深夜の放送をスタートさせた。 リスナーからの好評以外にも、深夜時間帯の地震や津波、あるいは内外での突発的な事態への迅速な対応を行う目的も兼ねて、1992年4月から正式にレギュラー化され、メンテナンス(送信機器、放送設備点検)実施日以外は午前5:00を1日の基点とした24時間放送となる。これはNHKの地上波放送としてはラジオ・テレビを通して初めてのことであった。
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