岡田茂 (東映)
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映画人との関わり
監督
1969年、腓返りの病気で苦しむマキノ雅弘を日活に売り飛ばす(マキノ談[602])。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている[603]。小沢茂弘を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後易者や山伏などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、自身で「ワシは困った奴ちゃなんです」と言っているし、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている[604]。
佐藤純彌は1963年に『陸軍残虐物語』で監督デビューするが、この作品で「昭和四〇年...」という字幕をたっぷりした墨の筆跡で、榊莫山みたいな書体で書いたら、試写のあと岡田に「タイトルはお客に伝えるための記号だ。芸術じゃない。のたくった字じゃなく、活字体にしなくてはダメだ」と注意された。この映画のフォース助監督だった澤井信一郎は、この岡田の一言がトラウマになり、澤井は監督になってからの自身の説明タイトルやクレジットは、すべて明朝体かゴシック体にしているという[605]。
岡田は牧口雄二の監督デビュー作『玉割り人ゆき』[606](1975年)を高く評価、本作は当時、岡田が進めていた低価格で製作される「ニューポルノ」「500万円ポルノ」の一本であったが[注釈 7]三本立ての一本として全国封切りの番線に昇格した[607]。1976年の『戦後猟奇犯罪史』は、当時凄い人気だった『ウイークエンダー』(日本テレビ)の便乗企画[608]。最初は松竹映画『復讐するは我にあり』より先に「西口彰事件」を取り上げた第一話と、第三話「大久保清事件」の二話構成だったが、撮影2日前に「克美茂愛人絞殺事件」が発生し、岡田が「この事件も入れろ」と命令し無理やり三話構成になった[609]。泉ピン子をレポーター役で出演させワイドショー構成としたが、非常に無茶苦茶な作りとなった[608]。同年の『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』は、当時大ヒットしていた『スナッフ/SNUFF』を狙い、「牛裂き」をテーマに撮れと牧口に指示を出して製作された[610]。
五社英雄は1980年に銃刀法違反容疑での逮捕や、会社の労組問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。それを見かねた佐藤正之が岡田に“五社を何かに使ってやってくれ”と頼んできたので[出典 286]。岡田が五社に“一度会社に顔を出せよ”と電話した。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田は“お前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいな”と言われた。意地でも負けを認めたくなかったところに“負けっぷりがいい”と、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。“どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ”と言われ、持って行った企画が宮尾登美子の小説『櫂』だった。しかし『櫂』は話が地味過ぎるということで、日下部五朗が持ってきた『鬼龍院花子の生涯』を映画化することになった。“これを五社にやらせろ。こういうのは五社がうまい”と岡田が五社を監督に抜擢し[359]、五社の映画界復帰が決まった。“この作品がヒットしたら『櫂』も『陽暉楼』も撮らして下さい”と五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り『陽暉楼』『櫂』と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。『鬼龍院花子の生涯』は東映の営業も劇場の支配人の誰一人お客が来ると予想する者はおらず、「来ると読んだのはワシだけ」と岡田は自慢している[443]。「五社君も昔の『三匹の侍』の彼とはガラリと変わったからねえ。彼、行き詰まってぼくを頼って来たとき、言ったんですよ。チャンバラなら東映はやりたくないと、そういって男と女のからみ、情念の世界を画かせたんですが、誰もあんなに五社君が変わるとは思っていなかったでしょうよ、新しい才能を開いてみせましたわね」と岡田は話している[443]。これらは東映に新たな“女性文芸大作路線”を確立させた[出典 287]。
若松孝二はパレスチナの日本赤軍と交流を持ったため、10数回警察からガサ入れを受け『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』(1971年)は新宿文化で上映禁止にされ、『天使の恍惚』(1972年)は、公開を延ばされ、『キスより簡単』(1989年)は、神奈川県警がバンダイを訊ねてきたため、バンダイに不利な条件で契約されるなどの実害を被ったと述べているが、東映で「Vシネマ」をやるようになったときにも、警察が岡田のとこに行ったという。すると岡田は「おい、若よ。お前が帰ったあと、公安が来たよ。お前、何かやったのか?」「いろいろやりましたが、映画が好きなだけだから、大丈夫ですよ。ご迷惑せはかけませんから」「まあ、いろいろやれば、政治に巻き込まれることもあるな」と、岡田は少しも動じなかった。もしかしたら社長の一言で映画が撮れなくなったかもしれないのに、トップにいる人は、俺がどういう人間が、すぐに見破る。岡田さんだけは大物だった。やっぱりすごい人でしたなどと話している[614]。ただ、1986年に撮った『松居一代の衝撃(衝撃 PERFORMANCE)』を、岡田が「成人映画はいっさい自分の映画館じゃかけない」と宣言したため、ピンク映画チェーンでしかかけられなくなり大赤字を出して、若松プロがあった原宿セントラルアパートのマンションを売る羽目になったという[615]。横山博人は1986年に東映から『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』の併映作の依頼があり、当たればシリーズ化するからと言われ、東映からの「都会的でしゃれた映画にしろ」の指示を受け、全共闘世代を登場させ「都市化」と匿名性の問題にも触れたシナリオを作ったが、これを読んだ岡田が激怒し「やめてしまえ!」のひとことで東映の夏休み映画の監督を降ろされた、と話している[616]。
1982年の東映新年会に呼ばれた井筒和幸は、岡田が「去年、ヒットしたのは『典子は、今』と『エレファント・マン』です。そういうモノを企画しろ!」と檄を飛ばすのを見て「東映のドンは何とスゴい発想をするもんやなあ」と思ったという[617]。
1999年の『おもちゃ』では、監督の深作欣二と脚本の新藤兼人が祇園のことをあまりにも知らないので、1ヶ月祇園で遊ばせた[587]。
白倉伸一郎は1990年、入社時の面接試験で、岡田ら幹部を前に『仮面ライダーシリーズ』を批判し、熱い思いを語ったことで合格となったという。2003年、1月の深作欣二の葬式は、岡田の号令で東映全社を上げて盛大に行われた[170]。岡田は中原早苗に「どや、黒澤明の葬式に負けんやろ」と話していたという[170]。
プロデューサー他、製作関係者
俊藤浩滋が東映に関わるようになるのは内縁の妻・上羽秀が経営していた銀座のバー『おそめ』に顔を出していて、この『おそめ』の、みな常連客だった鶴田浩二の東映移籍や、水原茂の東映フライヤーズ監督招聘の仲介などで大川博と縁を深めていったものだが、東映の『映画』をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に『なにかいい企画はないか』と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。『俺をプロデューサーにしてくれ』と岡田に頼んできたのは俊藤からだという[出典 288]。「ヤクザみたいなものを辞めるとき、僕のところに来て『あんたの下に入れてくれんか。付き人みたいに俺、勉強したいんだ。プロデューサーに将来なりたい』『それはいいけど、おまえ大丈夫か?そんなに金は入らんで』と言ったら『いやいや、金なら大丈夫です。心配いりません』って言うから俺の下に入れた」と岡田は話している[620]。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった[出典 289]。俊藤はヤクザの細かいことを全部知っていてヤクザ映画の時代になって伸びた[620]。大川博が岡田は「岡田」と呼び捨てだったが、俊藤には「俊ちゃん」と呼んでいたと俊藤の凄さを表現する記述が一部の文献に見られるが[93]、俊藤は東映の社員ではない外部プロデューサーであり、岡田は大川の会社直属の部下であるため、接し方は違って当たり前なのである。
高田宏治は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、そのプロットは、ガリレオという主人公が、伴天連の妖術師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけがウジ虫だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から小便をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという[624]。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している[625]。小沢茂弘も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している[626]。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している[627]。
1957年、監督志望で入社してきた日下部五朗を「体もでかいし、力もありそうだ」と無理やりプロデューサー修行させた[出典 290]。
日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。1983年にカンヌ国際映画祭でグランプリを取った『楢山節考』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。1979年の映画賞を独占した『復讐するは我にあり』は、映画化権を巡るトラブルでも知られるが(復讐するは我にあり#映画)、日下部が原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、佐木隆三夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に直談判をしたが、当時は実録路線も勢いを失った時期で「もう、実録ものはアカン言うとるやろ! 連続殺人鬼みたいな暗い話、当たるか! そんな原作、どっかへ行って売って来い」と、岡田の鶴の一声で中止させられたと話している[628]。これが今村昌平監督で松竹で映画化され高い評価を得たため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に木下恵介さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実はにっかつロマンポルノ10本分くらい、ドバーッと濡れ場があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった[628]。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ清川虹子に左とん平が乗っかるシーンしかない。岡田は『映画ジャーナル』1982年2月号のインタビューで『楢山節考』を"異色の芸術ポルノ"と表現しており[298]、岡田は日下部の話を真に受けていた可能性がある。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している[出典 291]。
徳間康快と仲が良く1974年に大映を買収した徳間を日本映画製作者連盟(以下、映連)に引き入れ、徳間のメディアミックスに力を貸した。以下の角川春樹・奥山和由も同様である。
岡田は角川春樹と奥山和由を非常に評価し彼らを支援した[319]。角川は「独立プロのプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだった」と述べている。『悪魔が来りて笛を吹く』はそうした一本だが[631]、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川とは角川映画の2作目『人間の証明』から、具体的な仕事の縁が始まり、『野性の証明』の後、岡田からの要請で、角川は角川春樹事務所を離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』『魔界転生』の三本を単独で東映のプロデューサーを務めた[297]。京撮で撮影した『魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという[297]。角川とは多くの映画でタッグを組み、一時代を築いたが、角川は岡田について「最後の頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映のトップでありながら、自分はプロデューサーであるという意識がとても強い人でした」[297]、「先輩後輩であり、同志であり、言葉で言い表せない不思議な関係だった」などと話した[出典 292]。岡田は角川を「我々の業界は変わり者が多いけど、中でも一番激しい部類の一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐらい変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。1976年に角川が岡田を訪ねて来て、「初めての映画『犬神家の一族』は東宝と組みます」と言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや、続いて「配給は東映でやって欲しいんです」と、仰天の言葉を発した。東宝は直営の映画館で上映する興行部門こそ強かったが、地方の映画館ネットワークは東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである。岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し、最初にタッグを組んだ『人間の証明』で、配給が東映洋画、撮影が日活撮影所、興行は東宝洋画系という従来の映画界の枠を破る試みに協力した[297]。また、『セーラー服と機関銃』『天と地と』では、配給を東宝から東映に変更したが、岡田が松岡功に仁義を通して話をつけた[297]。岡田は角川によるメディアミックスを大きくバックアップした。しかし2005年に大ヒットした『男たちの大和/YAMATO』を角川が1人で作り上げたかのように話したことに岡田は怒っていた。角川をプロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた[632]。角川映画はキャッチフレーズが流行語となるなど話題を呼び[633]、観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。
1990年、角川が50億円かけて製作した『天と地と』の配給は当初東宝だったが、事情で商談が決裂し、角川が岡田に泣きついてきて配給を東映洋画部で引き受けることになった[319]。その時の角川からは狂気以上のものが出ていて、もういっぺん教祖になれると岡田は見極めたという[319]。「前売り券を500万枚売る。そのうち、東映で100万枚引き受けてくれ」と啖呵を切って角川はその通り400万枚を前売りで売り切った。前売り券が金券ショップで叩き売られて劇場は閑散としていたともいわれるが[634]、岡田は「前売り券の着券率、抜群だというね」と話していた[319]。岡田は角川を評して「軽井沢で夜7時から夜明けまで神仏に祈りを捧げるっていうな、それも年何回も祭事を催すというからな。それぐらいでないとあのエネルギー、とてもじゃないが出ないよ。そういう誰も持ち得ない狂気が劇場へ観客を殺到させてるんだな」と感心していた[319]。「いま欲しいのはそういう狂気を発する教祖サマ、育てて出てくるもんじゃないからな。教祖サマ、出てこないと流れを変えるほどの大ヒット作品生まれないわな」と話し奥山和由を非常に評価していた[319]。
つかこうへいの戯曲を映画化した『蒲田行進曲』(1982年)は、角川春樹が最初に岡田に持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな楽屋落ちの話なんか当たるわけない」と断り[出典 293]、松竹に話を持って行ったもの[263]。しかし深作欣二が、松竹大船撮影所の雰囲気は違う。撮るのは東映京都撮影所じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった。当時の角川映画は、そんな無茶苦茶を実現させる勢いがあった[635]。同作はこの年の多くの映画賞を独占し、配給収入も17億6千万円という大ヒットを記録した[635]。
この時期の岡田は、かつてのようなヒット作を見抜く嗅覚は衰えており、1977年の『八甲田山』の企画は最初は岡田に持ち込まれたが「そんな蛇腹(明治時代の軍服)の話(明治物)が受けるかい」と岡田が断り東宝で製作され大ヒット[637]、1983年日本映画史上に残る記録的大ヒット作となった『南極物語』も、蔵原惟繕は最初に岡田に持ち込んだが「犬の映画なんか、当たるか」と突っぱねたという[638]。但し岡田はオオカミを主人公にした『オーロラの下で』は作っている。『南極物語』での後悔からか、奥山和由が資金面で困って岡田に頼んできた『ハチ公物語』(1987年)は、製作に力を貸している[639]。奥山はもともと岡田が作った"不良性感度"映画が大好きで[639]、東映に入るつもりだった[639]。『ハチ公物語』の前に渋谷で軍人のような眼光でコートを羽織りながら歩く大柄な岡田を目撃したことがあり、「わあ、かっこいい。映画界にこういう人がいるんだ」と男として惚れた[639]。「岡田さんのもとだったら、我を忘れて戦争のような仕事でも出来る」と思い、「いつか岡田さんと仕事がしたい」と考えていたという[639]。奥山は「岡田茂、角川春樹、そして自分という三角形というのが明確に見えていました。お互い認め合う存在だったと思います。三人で会うことはほとんどなかったですけど、三人で映画界を振り回していこうみたいな生意気な感覚は凄く強くありました。そこに共通したものは『プロデューサー』だと思っているんです。この三人に徳間康快さんが入ろうものなら『プロデューサー協会を早く解散させろ。あそこにいるのは全部プロデューサーじゃない。我々だけで本物のプロデューサー協会を作ろう』みたいな話をしてました」などと述べている[640]。
笠原和夫は1989年に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、奥山和由)はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している[572]。
1986年の映画『火宅の人』で、キャメラマンの木村大作が東映伝統の三角マークのオープニングを変更して日本海で新たに撮影したオープニングを使おうとした。深作、プロデューサーともOKを出したが、「会社の顔を変えるとは何事だ」と岡田が一喝して、却下させた[641]。
2001年の『千年の恋 ひかる源氏物語』で特撮を担当した佛田洋は、ハリウッドでのワールドプレミアに、岡田茂会長、主演の吉永小百合、高岩淡社長、岡田裕介プロデューサーら数名と同行。同時多発テロ事件の一ヶ月後であったが、それよりも岡田茂のオーラの凄さにビビったという。朝、ホテルの食堂で離れたとこにいたら「こっちへ来いよ」と岡田に言われたが、あまりにもオーラが凄すぎて「いや、僕はこっちで」と遠慮した。「ぶっちゃけテロの余韻より岡田会長の存在感のほうが僕には強烈でした」「僕の大好きな東映不良性感度映画を大量に世に送り出したご本人でしょ。ミニチュアがやりたくて東京に出てきた自分が、その岡田さんと一瞬でも接点を持つなんて思いもしなかった。今思うとあのとき一緒に食事をしとけばよかったなぁ。とにかく『千年の恋』と言うと(テロや特撮のことより)そのときのことを思い出します」と話している[27]。
俳優
東横映画時代の1947年、『女だけの夜』と『三本指の男』の原節子の出演は岡田が出演交渉して出てもらったという[141]。また高峰三枝子、木暮実千代、三浦光子、花柳小菊、山根寿子なども、岡田が度々出演交渉したと話している[141]。
若山富三郎は1959年、あるルートから、ぜひ使ってくれと直接来たという[642]。1960年東映に移籍した鶴田浩二は、第二東映が出来て製作本数が倍増したため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』という岡田からの相談を受けた俊藤浩滋が、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と移籍の交渉を引き受け『東宝には三船敏郎がいるから、どうやったって上に行かれへん』などと鶴田を口説いたもので、当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、円満移籍になったという[出典 294]。
松方弘樹と北大路欣也は高校卒業の祝いで、一杯酒を飲ませて東映に入れと口説いた。松方は「お任せします」と了承したが、北大路は「大学へ行って演劇論をやりたい」と渋るので、「大学に行きながらでもいいから」と了承させ、北大路は現代劇で、松方は時代劇でどんどん使った。ところが大映の勝新太郎が松方を気に入って可愛がり、毎晩飲みに連れ歩き、悪い遊びを教えて大映に引き抜こうとした。松方の大映へのレンタル移籍は、岡田の指示によるもの[644]。松方は1969年から1970年に数本、大映で主演作品がある[出典 295]。
岡田がプロデュースした1961年から始まる「宮本武蔵」シリーズ五部作に[出典 296]、当時"志村妙子"名義で東映に所属して端役出演を続けていた太地喜和子を岡田が大役に抜擢したが[646]、太地は「文学座の試験に受かったから舞台の道に進む」と大役を断ったという[646]。岡田は「太地さんが志村妙子として東映に残っていれば、映画界から大スターへの足跡を辿ることになったと思う」と話している[646]。
1961年、急な東映東京撮影所所長転任で、家族で住む家が見つかるまで東映が借りていた東京花房山(上大崎)の佐々木邸に引っ越す[37]。ふすま一枚隔てた部屋に東映に入ったばかりの小林稔侍が住んでいて、朝になると当時まだ小学生だった岡田裕介と高木美也子が小林を起こしに来て、岡田所長が出勤するのをみんなで見送った。こうした一つ屋根の下で過ごした生活が数ヶ月続いた。その後どんどん出世して岡田に小林は会うたび「おっ、元気か?」と声をかけられた。小林は売れない時代を長く送っていたため、周りからみたらおかしく映る光景であったという[647]。この関係で小林は岡田の通夜の進行を務めた[648]。
東映入社後、なかなか芽の出ない高倉健をスターにしようと1962年、かつて市川崑監督が撮って大当たりした小島政二郎原作の『三百六十五夜』の再映画化を企画。美空ひばりを主演にして江利チエミ、雪村いづみの三人娘を総登場させ高倉健、鶴田浩二を絡ませるというプランを練った。江利に会い「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」と頼むが、江利は「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。岡田は頭にきて撮影所に帰ると高倉を呼んで「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後、ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけ奮起を促した[649]。翌1963年、岡田が仕掛けた「東映任侠路線」の始まりとなった『人生劇場 飛車角』でも、宮川役に高倉を抜擢、続いて1964年、岡田が「忠臣蔵を下敷きにした群集劇を」と企画し笠原和夫に命じて書かせた『日本侠客伝』シリーズ( - 1971年)によって、高倉は任侠映画におけるスターとしての地位を確保した[出典 297]。
1962年、映画『王将』で東映作品に初主演した村田英雄に「仁王の刺青を入れろ」と言ったら村田は「勘弁してくださいよ」と及び腰だったが承諾させた[135]。
藤山寛美が1966年、負債を抱えて自己破産し松竹をクビになったとき、「岡田に助けてくれ」と泣きついてきたので、しばらく東映にいさせた[203]。寛美がこの頃、東映の任侠映画に出ているのはこのため。
安藤昇と仲がよく、安藤が弟分の菅原文太ともども松竹に合わないと相談に来たので、「しばらく東映におれよ」と、そのまま菅原は1967年東映に移籍したもの[204]。安藤は「いい男たちだね」と折に触れ、岡田と五社英雄、勝新太郎の3人の話をよくしていたという[651]。安藤は岡田を「戦友のようなものだ」とよく言っていた[651]。安藤が俳優に転向した当時、映画関係者は「安藤組」にピリピリしていたが、岡田だけは腹が据わって妙な気遣いがまったくなかったという[651]。安藤が東映に移籍したとき、「お近づきのしるし」と岡田は俊藤も誘って安藤をソープへ連れて行き、そこから付き合いが始まった[651]。安藤は東映の専属ではなかったという[652]。
佐久間良子は、いわゆるお嬢様役から180度異なる娼婦役に岡田に抜擢され代表作とした『人生劇場 飛車角』や『五番町夕霧楼』について[653]、岡田や厳しい教えを受けた田坂具隆監督との出会いがなければ、その後の人生は違った生き方をしていたと思う、と心からの感謝を述べている[出典 298]。
北島三郎は、「歌手としてデビューしたばかりの自分を、映画の世界に導いてくれたのが、岡田さんと俊藤浩滋さんでした。まさに芸の道を開いてくれた恩人です」と話している[出典 299]。北島の『函館の女』の映画化を長門裕之の人間プロダクションが企画して、長門の叔父・マキノ雅裕監督で松竹が映画化しようとしたが、撮影が半分近く進んだ段階で、岡田と俊藤が松竹の城戸四郎社長に「北島は東映の専属だ。松竹には出さん」とねじ込み製作が中止された[655]。北島は東映と専属契約していたわけではないが、人間プロはこれに懲りて以降、自主製作はしなくなった[655]。
里見浩太朗は、2021年3月に行われた岡田裕介のお別れの会で、「私は貴方のお父様、前会長に育てて頂きました。東映という誰もが憧れる時代劇の世界に身を投じ、以来、映画、舞台、テレビにと幸運な花道を歩ませて頂きました。感謝に堪えません。裕介さん、貴方もまた大プロデューサーとして、数々の素晴らしい作品を世に残されました。私は貴方とお会いする時、いつもお父様と会っていた時と同じような思いで接していたような気がします」などと述べ、祭壇に向かって手を合わせた[656]。
三田佳子は『岡田さんとの出会いが女優としての立場を確立した』と話している[出典 300]。
25歳まで広告代理店でサラリーマンをやっていた渡瀬恒彦が1969年、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという[出典 301]。
高倉健は1970年「ヤクザ映画で儲けさせるかわりに、自分の好きな映画を作る自由を認めろ」と高倉プロの設立を要求。大川社長はそれを一応、了解したが岡田が社長に代わるとそれを白紙に戻した[出典 302]。それを認めれば利益は減るし、ほかのスターにシメシがつかない[出典 303]。1972年11月、高倉は黙って海外旅行に行ってしまうと、マスコミは“高倉健蒸発”“仕事を放り出して蒸発することで高倉プロを認めさせる最後の手段に出た”などと書き立て大騒ぎとなった。旅行から帰国し「僕はそんな手段を使って会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と話したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』が当たり、若手俳優や大部屋俳優を大挙起用するようになると岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらくやめや」と言い出し、任侠映画の功労者及び、二人に近かった俊藤と確執が生じた(俊藤とは和解)[出典 304]。この後高倉と東映との関係は悪化し、高倉は東映の映画に出たがらなくなり1976年、東映を退社することになる[出典 305]。
ポルノにシフトした日活を辞めてフリーになった梶芽衣子は、“ポスト藤純子”として東映が売り出し、任侠路線ではなく別路線の『女囚さそりシリーズ』(1972年 - 1973年)でスターになった[出典 306]。『女囚701号/さそり』(1972年)は大ヒットし、東映は当然、これをシリーズ化しようとした。ところが当時梶は結婚を決めた人がいて、この作品を最後に芸能界を引退し専業主婦となる決意を固めていて、続編の出演は断固として拒否した。やむなく岡田が説得に乗り出し「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じさせた。シリーズ2作目の『女囚さそり 第41雑居房』(1972年)も大ヒットに及ぶと、今度は俊藤浩滋が説得に出てきて結局、第4作まで制作が続けられた。こうして女優業に没頭していくうち、「このまま引退し、専業主婦になって後悔しないだろうか」という疑念が大きくなり、婚約を解消し女優業を続けることにしたという[670]。岡田や俊藤の説得がなければ『女囚さそりシリーズ』は、シリーズ化しなかった可能性があったのは勿論、梶の女優としてのキャリアもここで終了していた可能性もあった。また、梶は、「女囚のイメージがずっとついて、女優としてやってゆくのは大変」と岡田に相談したら「梶君、これは自信持っていいよ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」と言われた事をずっと励みと誇りにして来ました。生涯娯楽作品に挑みたい、等と話している[出典 307]。
丹波哲郎から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物[673]。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている[出典 308]。ゴルフコンペで大川博の取り巻きの重役連中が、大川にオベッカばかりしている時に、岡田は媚びるどころかそっぽを向いているのを見て、丹波は岡田を認めたという[673]。また丹波が親しかった元東宝副社長・藤本真澄と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこのポルノの国から来たの(来た人)」などと言い非常に嫌われた[673]。藤本は東映の社長になる前の岡田に「東宝に来ないか」と誘っていたという[675]。
『仮面ライダーV3』の風見志郎役で有名になった宮内洋は、当時は東映の社員俳優だったが、『仮面ライダーV3』と同時期に香港最大の映画会社だったショウ・ブラザーズと10本契約が決まりそうで、『仮面ライダーV3』の撮影が始まって2日目に宮内の師匠・丹波哲郎が岡田社長に「宮内を『仮面ライダーV3』から降ろしてくれ」と直談判したが、岡田から拒否された[676]。宮内は「あのとき、僕が香港に行っていたら、また人生が変わっていたかもしれませんね」と述べている[676]。
1974年、山口百恵が主演した東宝『伊豆の踊子』の成功で東宝、松竹は人気歌手を主演させる映画を増やした[677]。翌1975年のゴールデンウイークは、東宝が山口百恵の『潮騒』、松竹が桜田淳子の『スプーン一杯の幸せ』、そして東映は菅原文太の『県警対組織暴力』。ゴールデンウイーク初日の4月26日には、山口百恵、桜田淳子、菅原文太が、それぞれ都心の劇場で派手な動員合戦を展開したが、最終的な興行成績は『県警対組織暴力』がトップであったとされる[出典 309]。なお『潮騒』の併映は和田アキ子の『お姐さんお手やわらかに』『スプーン一杯の幸せ』の併映は中村雅俊の『思い出のかたすみに』で、『県警対組織暴力』の併映が志穂美悦子主演の『華麗なる追跡』。志穂美が非常に人気を呼んだこと、またアイドル・ブームの世の流れから、東映は若いファンの開拓を目指し“青春路線”に取り組んだ。岡田は「今年から二本立ての1本は19歳以下の若者を対象にしていく」と話した[404]。その第1作が渡瀬恒彦、伊吹吾郎以来、自信を持って送り出した新人・星正人主演の『青春賛歌・暴力学園大革命』であった。内容は『愛と誠』に似ていた[404]。
アラン・ドロン主演の『ル・ジタン』(1975年)は、「ドロンは日本じゃ当たるといってもお巡りさんとか、体制派になったら当たらないから、体制側の主人公でない、アクションにせい!」と買い付けたものだが、ドロン映画はこの辺りからヒットしなくなった[279]。『地獄の黙示録』(1979年)もカンヌで買おうとしたが、日本ヘラルドが相当金を出して落としたという[279]。
荒川博の養子で、暴漢事件で有名な荒川尭が1975年、ヤクルトスワローズを引退すると高倉健の後釜候補として契約金3000万円で俳優にスカウトしたが[出典 310]、荒川が眼を悪化させたためスカウトを断念した[679]。
1980年前後の岡田を始め、当時の東映をパロディにしたくて山城新伍が作ったのが1980年の『ミスターどん兵衛』という映画。始まってまもなく、梅宮辰夫扮する撮影所長が、幹部にカツを入れるため、挨拶するシーンの台詞はそのまま岡田が話した台詞[681]。「ええか、ここでヒットした作品を見てみい。『網走番外地』は『手錠のままの脱獄』、『不良番長』は『地獄の天使』、みんな盗んだもんやないか! ま、一生懸命盗んでも、おまえらの才能ではモトネタと似ても似つかんものになるから問題も起きん」[681]。また会議のシーンで「『ラムの大通り』っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンも同様という[出典 311]。
舘ひろしは1976年、松田優作と共演した『暴力教室』で映画デビューするが、岡田に「君が舘くんか。頑張れよ。すぐ君の主演作を作ろう」と声を掛けられたのを機に、石原プロモーションに入社するまでは東映に籍を置いたという[684]。
内田裕也は映画の構想が持ち上がるたび“いの一番”に岡田に相談に出向いたという[685]。岡田は「30秒で説明できない話は映画にならない」というのが持論で、内田が1983年に初めて脚本を書いた『十階のモスキート』の映画化のお願いに社長室の岡田を尋ねると「どんな話だ」って言うから「警察官がね、最後は挫折して、ついに郵便局に強盗に入って、最後、金食う話だ」って言ったら「そんなもの映画になるか!タイトルはなんつうんだ?」「十階のモスキート」「なにぃ?十階のモスキート?」と言われ「あ、じゃあいいですよ」って帰った。これは結局、ATGで映画化され崔洋一が新人賞を獲るなど高い評価を得た。二年後、今度は『コミック雑誌なんかいらない!』の脚本を書いて、再び岡田に持って行くと社長室の前に安藤昇が。「安藤さん、先に」と言うと「いや、そういうわけにはいかないから」って、天下の安藤昇さんに「お願いだから先に入って下さい」と言われ、社長室に入ると「なんだぁ~」といつも岡田は内田に偉そうに言う。で「タイトルを言ってみろ」『コミック雑誌なんかいらない』「ふぅん。で、本題はなんだ?」「いや、テレビレポーターがガーって行って、それでフィクションとノンフィクションを交錯しながら、最後に刺されて、I can't speak fucking Japanese.って言って、マイクを股間から取り出して、ホームベースに投げるって話」「そんなの映画になるか!」「じゃあ、帰ります」って。安藤はクーと笑ってて。で、岡田が「裕也(脚本)置いてけえ」って言ったが「いや、いいですよ。作ってから持ってきますよ」と。この映画はニュー・センチュリー・プロデューサーズで製作されたがどこもビビり、上映館はまったくなかった。しかし早稲田大学の反映研グループの上映からスタートし、奥山和由が「僕に任せてくれ」と言って松竹の重役会議にかけられたがやはり配給は不能。ところがカンヌ映画祭の監督週間に受かって話題を呼び、多くの映画館にかかるようになった。『コミック雑誌なんかいらない』は同年、多くの映画賞を受賞し海外でも高い評価を受けた。毎日映画コンクールでも内田が脚本賞を受賞し、そのプレゼンテーターが岡田に。高岩淡が電話してきて「なんか資料ないか言うとりまんねん、岡田が」って言うから「そっちで調べてください」としかと。授賞式のとき、岡田が照れくさそうに「第41回毎日映画コンクール脚本賞、コミック雑誌なんかいらないの脚本、優秀につき表彰する」。内田はポケットに手突っ込んで「ありがとうございま〜す」と言ってやった。これは俺の人生でも最高のリベンジだった、と内田は話している[321]。2009年、内田の娘婿・本木雅弘が企画した(内田はまったく係わっていないが)『おくりびと』が第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、配給を松竹が担当したため、高岩に「なんでああいう映画、うちに持ってきてくれへんねん」と言われたという[出典 312]。内田はそれから東映には強気に。東映に行ったら1時間半は会長室に居座り(東宝は俳優や黒澤明以外の映画監督は会長室に絶対に入れない)岡田裕介は内田が来るとすぐ出かけていなくなるという。あるとき岡田が岸恵子と話していて内田に「おい、ちょっと来い。これ岸恵子」「知ってますよ」「これが鶴田浩二とな、付き合ってたんだけど、ワシが箱根の旅館に逃がしてやったんだ」って。岸は迷惑そうにしていた。内田は「岡田さんは最高だよ。俺、メッチャ好き。面白くて笑っちゃう。背が高くて、いい男で、東大出で、頭良くて。これ以上の理想ない。山口組の三代目が『君のような大学出がこれから必要だ。うちに来ないか』って誘ったっていうんだから」などと話している[出典 313]。
1986年からシリーズ化された『極道の妻たち』は、企画の日下部五朗が当初、「"極妻"は東映の監督陣と日本を代表する女優たちとで回していきたい」と、一作目の主演女優を岩下志麻、二作目を十朱幸代、三作目を三田佳子、四作目を山本陽子、五作目を吉永小百合という構想を練っていた[689]。ところが、四作目の製作が決定した際に、岡田が「やっぱり岩下に戻そうや」と鶴の一声を発して以降は長く岩下が主演を務め、"極妻"は岩下、の印象が強くなった[689][690]}}。
1986年、当時26歳の黒木瞳の映画主演デビュー作『化身』でホステス役をさせるため、実際に銀座の高級クラブでアルバイトさせた[出典 314]。
経済人他
兄弟分ともいわれた五島昇と岡田は同じ親分肌で面倒見がよく[出典 315]、"ケンカも経営も上手"で[696]、共に永野重雄の"秘蔵っ子"といわれた[696]。岡田は広島県人会で永野や田部文一郎、山口信夫、桜田武ら、財界四天王のグループと付き合いがあり[出典 316]、特に永野に可愛がられ[出典 317]、永野は「岡田君は男にもてる。男の中の男です。人情に厚い人で、人に頼まれるとイヤと言えない。郷里が生んだ名優です」などと岡田を評し、岡田の後見人を自称していた[696]。また五島昇の後ろ盾には、五島慶太の東大同期石坂泰三や水野成夫、小林中らがおり[出典 318]、財界の付き合いは共通した部分があった。岡田のボス大川博と五島が反目になったのは1964年の事だが[703]、この時五島は石坂泰三から「何をグズグズしているのだ。東急グループには女を裸にして売り物にするような商売は要らない」とカミナリを落とされ、東映を切り離しを決断したものだったが[703]、女を裸にして売り物にする映画を東映で始めたのは岡田であった。大川と五島が反目になったため、岡田は東映幹部時代は表立って財界の付き合いは出来なかった。このため1971年の社長就任時も財界では無名といわれた[699]。エンターテインメント業界では財界との付き合いはビジネス上でも不可欠であるが、大川も亡くなり財界との付き合いは表立って出来るようになった。そこで岡田の財界での売り出しを後押ししたのが永野と五島[696]。前述の人物たちは戦後の日本を形作った財界人で[704]、映画会社社長の岡田ではスケールが違うが[705]、大物財界人の支援を受けてメキメキ頭角を現し押しも押されもせぬ"映画界のドン"といわれるようになった[696]。永野重雄が会長を務める日本商工会議所100周年イベント全国郷土祭の運営を岡田が請け負い[出典 319]、映画屋の東映にこの大イベントが出来るのか不安視されたが、事業部や東映動画で培ったイベント事業のノウハウを活かしてこれを成功され永野から信頼を得た[出典 320]。このイベントは国立競技場に7万人を動員して1978年10月22日に開催された[出典 321]。あまり知られていないが、これがおそらくスポーツイベント以外で国立競技場を初めて使用されたケースと見られる[695]。このイベントには、佐伯勇や鹿内春雄、川内通康らの協力を得て成功させたもので[695]、昭和天皇の臨席もあった[695]。永野は五島昇を買って自身の後継に据えようとしたため[703]、五島もこれに応え、経団連など他の財界団体の活動を控え商工会議所(以下、日商)をメインに財界活動をするようになった[703]。日商で五島の後ろ盾だったのが、永野の他、今里広記、石坂泰三、小山五郎、大槻文平、瀬島龍三らで[708]、財界との付き合いを全く持たなかった瀬島を財界に引き込んだのは永野と五島だった[出典 322]。この関係で岡田は瀬島と付き合いも生まれ[697]、五島と瀬島を1986年11月28日に取締役相談役として東映に迎え入れた[出典 323]。瀬島は岡田を「義理人情にあつい『人生劇場』を地でいくようなチャーミングな方」と評した[697]。五島と瀬島は東映の取締役会にも出席したため、東映の幹部が緊張し、議長の岡田も通常の東映の幹部会議より言葉が丁寧になったという笑い話がある[712]。岡田は永野の盟友・今里広記にも惚れられ[697]、今里を囲む若手財界人の勉強会「混交会(今里会)」を、牛尾治朗や前野徹、青井忠雄、角田式美、本庄正則[713]、西村昭孝らを集めて作り[出典 324]、東映フライヤーズの売却はこのグループによって行われた[出典 325]。新球団日拓ホーム・フライヤーズの新役員には財界の新興ヤングパワーが名を連ね、売名のため毎年オーナーを替えるのではと噂された[717]。1985年5月に今里が亡くなった後[698]、岡田と岡田の子分・本庄[695]、高木禮二、櫻田慧、数佐三郎、太刀川恒夫、藤本秀朗らの「オーケー会」が合体して「岡田茂を囲む会」が出来た[695]。親分肌の岡田はこの新興会社のオーナー社長たちから頼りにされて、これが財界から、任侠映画をもじり、"岡田一家"と呼ばれるようになった[出典 326]。
1973年、東映の企画で黒崎出版から発行されていた『テレビランド』を編集スタッフごと徳間書店に移したが、これを徳間康快社長と二人で銀座のクラブで決めた[283]。徳間書店の『テレビランド』刊行は、同社のイメージをガラリと変えるキッカケを創り、東映作品とのタイアップ雑誌としての側面を持つことで、その後の『アニメージュ』創刊、宮崎駿(スタジオジブリ)等へと展開していく足がかりとなった[283]。徳間が活字(出版、東京タイムズ)、オーディオ(音楽、徳間ジャパン)文化に続いて、映像(映画)文化に進出する際、1974年大映を買収したい、と相談を持ち掛けたのが岡田であった[718]。
三越社長の岡田茂と同姓同名で、同じワンマン社長で仲がよく[出典 327]、兄弟分として付き合った[721]。1973年11月から三越が始めた三越映画劇場は[722]、岡田が三越岡田社長にアイデアを話したものを具体化したもの。
三越岡田社長からはボウリング場の整理や、流通業のアドバイスを受けた[719]。1977年に一緒に映画を製作をしようとしたが[出典 328]、三越岡田社長が東宝映画の取締役だったことから、三越は東宝と『燃える秋』を製作した。1982年に三越事件が起きたときには、これを基に映画を製作しようとし[723]、内藤誠に脚本を書かせたが、やっぱり付き合いがあってマズいと中止させた[723]。しかし内藤と桂千穂とでにっかつに本を持って行き、これをにっかつが1983年に『女帝』として映画化した[723]。
山下耕作が撮った1974年の『あゝ決戦航空隊』は、児玉誉士夫が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなくロッキード事件でペシャンコになった[724]。
吉田拓郎と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ニューミュージック的映画作り という意味不明の題名を付け、東映の社内誌『東映』に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席もリクライニングのいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明[725]。
岡田と40年以上の付き合いがあったという日枝久は、フジテレビの編成局長時代に長寿ドラマ『銭形平次』の打ち切りを決断したが、岡田の猛烈な説得工作の前に撤回させられる羽目となり、その後始末で酷い目に遭ったと話した[726]。『銭形平次』の延長にあたり、フジテレビの「8」にちなんで888回までとする大義を作り、大川橋蔵の説得を得られたのも岡田の計らいという[172]。
渡辺淳一の出版パーティーの壇上で「このごろ渡辺さんはアッチの方が弱っているそうだが、やり続けなきゃだめだ」と激励した[727]。
住友銀行(現・三井住友銀行)業務本部長時代の樋口廣太郎が、アサヒビールをダイエーの中内㓛に売ろうとしたことがあり[728]、実家がアサヒビールの特約店だった岡田が「ビールは難しいから」と中内に買収を断りなさいと進言し、アサヒビールの中條高徳に内密にこれを伝えたという[728]。またNET(現・テレビ朝日)を巡る大川博と旺文社・赤尾好夫との関係も改善した[729]。
1996年、ルパート・マードックが孫正義と組んで旺文社からテレビ朝日の全株式を買い取り、筆頭株主となって日本の電波業界が大揺れ。東映はテレビ朝日の大株主で、FOXとも付き合いがあったため、FOXを傘下に持つマードックに岡田が直談判、「無理やり日本に進出しても支持されない」と説得した。結局、朝日新聞社がその株式をすべて買い取ることで合意し、マードックの進出を阻止した[172]。
1994年、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は田部文一郎)会員が急に増え、現在4000人と在京県人会の中で一番多いともいわれる[出典 329]。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため[出典 330]。毎年1月にある総会には出席者が1200〜1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」と「フラワーフェスティバルばかりに頼らないで別のイベントをやんなきゃ。その点、京都を見なさいよ、ダーッと一年中祭を並べてるんだ。それでお客が来るんだから。消費を伸ばす意味で、近郊や遠くから来てもらえるイベントがもっともっと必要だね」などとぶった[9]。2008年から名誉会長となり、現在の会長(8代目)は林有厚(東京ドーム社長)[9]。
出身地の東広島市西条のフジグラン東広島内に東映系初のシネコン「Tジョイ」開業の時[9]、オープニングセレモニーに出席している[43]。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、東映の役者がみんな来た、という話がある。
注釈
- ^ 丹波哲郎は「大川は映画のことは何も知らない」(『丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ』キネマ旬報社、1999年、p137)、菅原文太は「大川さんは企業家だったが映画を知らなかった。ご自分でそれを知っていて製作そのものにはタッチしなかった。東映に入ってから6年、大川さんにスタジオで逢った事がなかった。岡田さんと俊藤さんが映画を自由に作れるようにした」、深作欣二は「一回しか大川さんに逢ったことはない」と話している(『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』キネマ旬報社、1994年、p543)。俊藤浩滋は「大川が作ったのは『大いなる旅路』(1960年)くらいではないか」と述べている(『任侠映画伝』p63)。中島貞夫は「大川博さんは(プロデューサーではなく)映画会社の経営者として、大変優れた人だったと思います」と話している(岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第2回 / 全3回)(Archive))。日下部五朗は「大川さんは映画とは無縁で、製作の現場もまるで知らない。自分には映画はわからないと知っていたから、企画には口を出さず、ソロバンだけ見ていた」などと話している(『シネマの極道』p42)。大川は映画製作に直接関与することは少なく、会社を代表して「製作(総指揮)」としてクレジットされる存在(日本映画におけるプロデューサーシステムの歴史的変遷に関する一考察)。岡田自身は「大川社長は超ワンマンで、社長というより法皇的存在で、ぼくはその下にいて映画本部長として文字通り映画を作って売る。(組合問題などが起こる前までは)これに徹していれば役割は充分果たせた」と話している(『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』p76)。
- ^ 当時は「やくざ映画」と呼んだ(筒井清忠編集・板倉宏臣・井上理砂子・中澤まゆみ著『銀幕の昭和「スタア」がいた時代』清流出版、p237)。
- ^ 野上龍雄は「映画製作を甘く見た財界出の大川社長の誤算。手間をかけない作品に客がつく筈がない」と述べている(『映画芸術』2011年夏号「鎮魂、映画の昭和 岡田茂」p134)。
- ^ 安藤は松竹退社後はフリーという(『ヤクザが認めた任侠映画』p6)。
- ^ 東映のキャラクターショーのハシリは、渡辺亮徳(当時テレビ事業部長)などが『仮面ライダー』のキャラクターを使って、子供集めの催事をやったことから始まる(『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』p119)。
- ^ 「往年のヤクザ映画から「エロ」映画まで、幅広いフットワークで製作の陣頭指揮をとってきた。東映映画最大の「ウリ」である「不良性感度」路線を推進し、思想の左右に関係なく、遮二無二儲かる映画を生み出し続けた東映最大の功労者」と紹介された[346]。
- ^ 実際は『玉割り人ゆき』は1000万円で製作。
出典
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- ^ 【春日太一】伝説のアウトロー映画集団東映の血風録 【premium限定連載】ドキュメンタリー監督・松江哲明のタブーを越えたドキュメント 第2回「しのぎに来たヤクザさえも撃退」伝説のアウトロー映画集団東映の血風録
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