大戦景気 (日本)
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成金の登場(成金景気)
第一次世界大戦中、民間の船舶は軍用として徴発されたため、大戦の長期化によって船舶不足が深刻化した。これにより、海上運賃と船価が暴騰し、船主や商船会社は巨利をあげ、船成金を生んだ[1]。老朽化した船でさえ引く手あまたの状態であり、大戦前1トンあたり3円ほどであった船舶のチャーター料金は1917年には40円以上に跳ね上がった。船の建造価格もトンあたり50円くらいから最高1,000円近くまで上昇した。日本郵船会社は、1914年の純益484万円が1918年には8,631万円に達し、同年下半期には11割もの配当をしている。
船成金
とくに有名な船成金には内田信也、山本唯三郎、勝田銀次郎、山下亀三郎らがいる[5]。
内田は1914年、資本金2万円足らず、チャーター船1隻で汽船会社「内田汽船(のちの明治海運)」を起こしたが、翌々年には所有する船は16隻となり、60割という驚異的な配当をおこない、大戦が終わった翌年には、その資産は7,000万円に膨れあがっていたという。内田は30代の青年であったが、神戸の須磨に「須磨御殿」と呼ばれる敷地5,000坪の豪邸を建てて、連日大宴会を開いたことが有名である。
山本唯三郎は、朝鮮に虎狩りに出かけ、帝国ホテルを借り切って虎肉の晩餐会を催した[1][注釈 3]。
鉄成金・鉱山成金
「鉄成金」と呼ばれた神戸の貿易商鈴木商店は、初めは砂糖や樟脳を扱う商社であったが、支配人金子直吉の強気の商業戦略が功を奏して事業が飛躍的に拡大し、1917年には商高が15億円に達して三井物産の11億円を上まわる貿易額を記録した[1][8]。
日立鉱山の久原房之助は「鉱山成金」の代表といわれる人物である。久原は藤田伝三郎の姻戚にあたり、当初藤田組の経営する小坂鉱山の建て直しに手腕を発揮し、藤田組からの報酬と井上馨の庇護により日立鉱山の経営に乗り出し、他の銅山からも積極的に銅鉱を買い入れていたが、戦時下の銅の値上がりで巨利を得たのであった[1][3]。久原は前後2回の増資のプレミアムだけで2,000万円以上を儲けたといわれる[3]。久原は、石油、石灰、海運、中国投資などにも事業を拡大し、電気機械修理工場から発足した日立製作所を独立させたが、その急速な拡張ぶりは、当時から「きのこ的発展」と称せられていた[3]。
「成金職工」
職工のなかには、労働力不足から「成金職工」と呼ばれる人も現れた[2]。1916年年末の『大阪朝日新聞』には「職工の黄金時代」の見出しでボーナス風景を伝えており、大阪鉄工所では20ヶ月分ものボーナスを受けとった者もいたという。ただし、上述したように、大戦景気は極端な成金と極端な貧窮に苦しむ人びとの格差をむしろ拡大させたのであり、多くの人びとはインフレのために困窮した生活を送った[2]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 中村隆(1989)pp.26-27
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 千本(1989)pp.42-46
- ^ a b c d e f g h i 今井(1974)pp.79-95
- ^ a b c 橋本(1987)p.793
- ^ a b c d e f g h i j k l 君島(1987)pp.232-233
- ^ 『明治大正国勢総覧』による。
- ^ a b 武田(1992)pp.67-82
- ^ a b c d 春日(1989)pp.68-73
- ^ J.M. Keynes, A tract on monetary reform, Macmillan Co LTD, 1924
- ^ a b c d e 今井(1974)pp.96-109
- ^ a b 今井(1974)pp.174-192
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