サハラ砂漠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/03 23:40 UTC 版)
住民と生活
サハラの先住民は、西部全体に居住する白人系のベルベル人と、ティベスティ山脈周辺に居住する黒人系のテダ人(トゥブ人)である。これに、6世紀以降東からやってきたアラブ人と、アラブ人とベルベル人の両方の祖先を持ちイスラム化されたムーア人がいる。ムーア人は西方のモーリタニア周辺を中心に居住する。
サハラの伝統的産業は、オアシスでの農業と遊牧である。フォガラと呼ばれる地下水路によって水をオアシスまで引き込むことも多く行われる[7]。オアシスで栽培されるものはナツメヤシが中心である。
砂漠化の進行
サハラ一帯は、完新世(1万年前 - 現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返してきた。2万年前から1万2000年前はサハラ砂漠がもっとも拡大した時期で、現在のサヘル地帯のほとんどがサハラ砂漠に飲み込まれていた。その後最終氷期の終焉とともにサハラは湿潤化を開始し、およそ8000年前にもっとも湿潤な時期を迎えた。この時期の砂漠はアトラス山脈直下の一部にまで縮小し、サハラのほとんどはサバンナやステップとなり、森林も誕生した。7500年前に一時乾燥化したがすぐに回復し、5000年前までの期間は湿潤な気候が続いた。その後、徐々に乾燥化が始まり、以来現在にいたるまでは乾燥した気候が続いている。5000年前と比べると砂漠の南限は1,000キロメートルも南下している[8]。乾燥化は歴史時代を通じて進行しており、砂漠の南下も進行中である。
20世紀以降では、1915年ごろ以降降水量は増加したが、1920年代以降現在までは降水量は減少傾向にある。
1960年代以降、サハラ地域を含めアフリカでは人口爆発が続いている。食料増産・生活のため、焼畑農業・過放牧・灌木の過度の伐採が行われ、生態系が破壊される悪循環が繰り返されている。
1968年 - 1973年にかけて、サハラ一帯に2,500万人が被災した大規模な旱魃が発生した。なお、これを契機として、1977年に国連砂漠化防止会議(UNCOD)が開催された。しかし1983年 - 1984年にかけ再び大旱魃が発生した。モザンビーク、アンゴラ、スーダン、チャド、エチオピアでは、旱魃に加え政情不安定もあり、飢餓で多数の死者を出した。
人口爆発・旱魃により、砂漠化は急速に進行し始めた。貧困・気候変動も密接に関連しているため、決定的な解決策は存在しないに等しい。現在でもサハラ南縁部は世界でもっとも砂漠化が進行している地域で、毎年約6万平方キロメートルのスピードで砂漠の面積が増加し続けている。国連環境計画(UNEP)の調査では、南側で毎年150万ヘクタール(15,000平方キロメートル)ずつ広がっていると報告されている[9]。
2007年からは、砂漠の拡大を防ぐためにアフリカ連合の主導によって、アフリカ西岸のセネガルから東岸のジブチの沿岸部までの約7000kmを樹林帯でつなぐグレート・グリーン・ウォールプロジェクトが開始されている[10]。
ところが、地球温暖化による気候変動によって再び植生が変化しつつあり、南縁部には緑化の兆候もあるという。このような近年の調査研究による予想モデルでは、雨量が増加し湿潤化されるとの説もある[11]。
国際関係と政治情勢
サハラ周辺各国が一堂に会しサハラについて話し合う国際機関や協定は存在しない。アフリカ連合も、西サハラの独立派武装組織ポリサリオ戦線が樹立した亡命政府サハラ・アラブ民主共和国がアフリカ連合前身のアフリカ統一機構に1985年に加盟したことを受けてモロッコが同年脱退し、周辺各国がすべて加盟しているわけではない。
独立以後、サハラに引かれた国境線をめぐっては何度か国境紛争が起こっている。また、特にサハラに住むトゥアレグ人やトゥブ人などが中央政府に対して反乱を起こすことも多く、政情は安定していない。
1960年のアフリカの年にほとんどの国家が独立したあと、最初にサハラで混乱が起きたのはチャドであった。フランソワ・トンバルバイ大統領率いる南部の黒人中心の政権に対して1965年に北部のイスラム系住民が反乱を起こし[12]、断続的に1990年まで内戦が続いた。この内戦には北のリビアが介入し、1973年にはリビアが領有権を主張していたチャド北部のアオゾウ地帯を占領下に置いた。さらにリビアは内戦への介入を強め、イッセン・ハブレとグクーニ・ウェディを交互に支援して何度か首都ンジャメナまで侵攻した。しかし1986年にはハブレ政権がリビアと対立を深め、リビアはチャドに侵攻。これに対しチャドは反撃し、1987年のトヨタ戦争においてテクニカルを駆使してリビアの戦車部隊を壊滅させ、アオゾウを奪回。1994年の国際司法裁判所の判決によってこの地域はチャド領と裁定され、リビアも撤退した。
ついで紛争が起こったのは、サハラ西端のスペイン領サハラにおいてである。この地域にはモロッコとモーリタニアとが領有権を主張していたが、1975年11月にモロッコが緑の行進と呼ばれる大デモンストレーションを行ってスペインに割譲を同意させ、同地域は北の3分の2をモロッコが、南の3分の1をモーリタニアが支配することになった。これに対し、西サハラの独立勢力であるポリサリオ戦線が激しく反発し、サハラ・アラブ民主共和国の建国を宣するとともにこの地域でゲリラ戦を展開、特にモーリタニア軍に対して圧力をかけた。ポリサリオ戦線は1976年6月には首都ヌアクショットに侵攻、さらに西サハラとの国境線上にあるフデリックの鉄鉱山に打撃を与えることができた。これによりモーリタニアはポリサリオ戦線と和平を結び、1979年にはこの地域の領有権を放棄する。しかし同時にモロッコ軍が放棄された南部にも侵攻して支配下に治め、南部諸州として実効支配下に置いた。この状態を解決するため国際連合が仲裁に入り、1991年には解決計画が両者間にて合意が成立し、住民投票によって帰属の意思を問うことが決定され、停戦が成立した。同時にこの停戦を監視する国際連合西サハラ住民投票ミッション(MINURSO)の平和維持軍も設立された。しかし投票資格をめぐって両者間は対立し、停戦は継続しているものの投票は無期延期となったままである。現在ではモロッコ軍は内陸部の無人地域との間に砂の壁と呼ばれる壁を築いて海岸沿いの有人地域を制圧しており、西サハラ側は壁の外側を支配している。
1990年代に入ると、気候の乾燥化による経済の悪化や中央政府の腐敗などに反対して、マリやニジェール北部に居住するトゥアレグ人が反乱を起こすようになった。この反乱はすぐに中央政府と和平が結ばれたが、2012年にはマリ北部で反乱が再燃。北部を完全に掌握し、アザワドとして独立を宣言した。
21世紀にはいるとイスラーム・マグリブのアル=カーイダ機構(AQIM)の勢力拡大に対抗するため、対テロ戦争の一環として2007年よりトランス・サハラにおける不朽の自由作戦が開始された。
- ^ a b c フジテレビトリビア普及委員会 『トリビアの泉〜へぇの本〜 2』講談社、2003年。
- ^ 「週刊朝日百科世界の地理98 モロッコ・モーリタニア・西サハラ」朝日新聞社 昭和60年9月8日 p10-215
- ^ 「週刊朝日百科世界の地理99 アフリカ西部諸国」朝日新聞社 昭和60年9月15日 p10-236
- ^ 「リビアを知るための60章」 p222 塩尻和子 明石書店 2006年8月15日
- ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.174
- ^ 「キリマンジャロの雪が消えていく―アフリカ環境報告」p158 石弘之(岩波新書、2009)
- ^ 「ビジュアルシリーズ世界再発見2 北アフリカ・アラビア半島」p26 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷
- ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.173
- ^ 石弘之著『地球環境報告』岩波書店《岩波新書(新赤版33)》 1988年 130ページ
- ^ “アフリカに築かれる「緑の万里の長城(Great Green Wall)」”. 一般社団法人環境金融研究機構 (2016年9月7日). 2021年3月29日閲覧。
- ^ 2009年8月3日、ナショナルジオグラフィック ニュース「サハラ砂漠、気候変動で緑化が進行か」
- ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 p371 ISBN 4254166621
- ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p184
- ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p9 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
- ^ “砂漠の真ん中でカローラとすれ違う アフリカ道路事情(1) <アフリカン・メドレー>”. 岩崎有一 (アサヒカメラ.net). (2015-07-08 11:00 (JST)) 2015年7月17日閲覧。
- ^ “サハラ砂漠に92人の遺体、行き倒れたニジェール難民”. AFP (フランス通信社). (2013年11月2日) 2013年11月10日閲覧。
- ^ サハラ砂漠に水・食糧なしで放置、移民67人を救助 ニジェール AFP(2017年7月10日)2017年7月10日閲覧
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