心霊主義
心霊主義
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「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「心霊主義」の解説
心霊主義は19世紀半ばから世界各地で盛んになっていた。イギリスにおける心霊主義の流行はヨーロッパやアジアでの流行に触発されてのものだったが、一度やってくるとイギリスが一番心霊主義の盛んな国となった。 ドイルと心霊主義の最初の出会いは、20歳のときの1880年にバーミンガムで行われた「死は全ての終わりか」という題の心霊主義講演を聞いたことだったが、この時のドイルは「唯物論者」だったといい、不信感をもって心霊話を聞いていたという。しかしやがて少なくない数の科学者が心霊術を認めていることを知ったドイルは、ケンブリッジ大学教授フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースが実在すると主張していたテレパシーを自ら実験した結果、それに成功したらしく、心霊現象に対して自分は頑固すぎたと反省したという。 その後、ドイルは降霊会に参加するようになった。最初に降霊を体験したときには、その霊がもたらした情報がでたらめだったのでドイルはがっかりしたが、2度目に降霊を体験をしたときには自分しか知らないことを言い当てられ、心霊が立証されたと感じたという。そしてその体験をした6年後の1893年11月に心霊現象研究協会に正式に入会するに至った。 冷静な論理の化身ホームズの生みの親が心霊主義組織に入会したことは一見矛盾して見えるため、当時も今もドイルにケチをつける者はこの点を批判したり嘲笑することが多いが、当時心霊主義はイギリス各界の権威ある人々から広く信じられていた。ドイルが入会したときの心霊現象研究協会の会長は、のちに首相となる政界の重鎮アーサー・バルフォアであり、哲学者ウィリアム・ジェームズ、博学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス、物理学者オリバー・ロッジ、化学者ウィリアム・クルックスなど名だたる科学者たちも参加していた。 このころのドイルはまださほど熱心に心霊主義を研究していたわけではなかったようである。前述したようにドイルの心霊主義への本格的傾倒は、身内の戦死が続出した第一次世界大戦後である。1920年代のドイルは体調が悪化し続けていたが、無理をしてでも心霊主義布教のために尽くしていた。自分の残りの人生はそのためだけに与えられていると思っていたという。
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心霊主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 02:04 UTC 版)
フランス人アラン・カルデック19世紀に創始した心霊主義のキリスト教スピリティズム(カルデシズム)では、転生が信じられており、神から与えられた自由意思によって、転生する間に過ちを起こしてカルマを形成し、この負債であるカルマによって、その人に災いが起こると考えられた。人間の苦しみの原因は自らが過去生で蓄積した負債であり、地上の生はこの負債の返済のためにある。また人生の苦しみは神の恩寵でもあり、苦しみを通じて負債が軽減されることは神の期待に沿うことであり、苦しみを乗り越えることは大きな栄光であると考えられている。スピリティズムにおいて、自由意思は負債の原因であると同時に救いを可能にするものであり、個人が救済されるか否かは全て個人の自由意思次第であり、救いは慈善活動、他者救済のみによって可能となる。 エドガー・ケイシー(後述)と同時代には、心霊主義の霊媒モーリス・バーバネルがおり、彼に憑依した霊であるという「シルバー・バーチ」という人格によると、転生とは償いや罰が問題ではなく、進化のためにあり、「業という借金」は「教訓を学ぶための大切な手段」であるとされ、懲罰的な意味合いは中心から外されているか、完全になくなっている。
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心霊主義
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「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」の記事における「心霊主義」の解説
1861年に義兄に宛てて、人類の多数にとってある種の宗教は必要であると書いた。ウォレスはまた骨相学を強く信じており、若い頃から催眠術にも関心を持っていた。レスターの学校では生徒たちを使って実験を行った。彼はまず催眠術の実験から始めた。これは論争の的であった。ジョン・エリオットストンのような初期の催眠術の実験者は医学界と科学界から厳しく批判された。ウォレスの催眠術に関する経験は後年の心霊主義の調査に引き継がれた。 1865年に姉ファニーと供に心霊主義の調査を始めた。まず文献を調査し、その後交霊会で観察した現象をテストしようと試みた。そしてそれらは自然的な現象であるという信念を受け入れた。残りの人生の間、少なくともいくつかの交霊会での現象は本物だったと確信したままだった。たとえ多くの詐欺の告発が行われても、トリックの証拠が提出されても、彼にとって問題ではなかった。 歴史家と伝記作家はいったい何がウォレスに心霊主義を受け入れさせたかで意見が一致していない。ある伝記作家は婚約者に婚約を破棄された時に受けた衝撃を示唆した。他の研究者はそれに対して、物質界と非物質界、自然界と人間社会のあらゆる現象に対して科学的で合理的な説明を見つけたいというウォレスの願望を強調することを好む。心霊主義は完全に唯物論的で機械論的な科学にさらされており、英国国教会のような伝統的な教義を受け入れがたいと感じていた教養あるビクトリア朝時代の人々の心に響いた。しかしウォレスの視点を深く追求した何人かの研究家は、これはウォレスの科学や哲学の問題ではなく、宗教に関する問題だったと強調した。 心霊主義と関係した19世紀の知識人には若い頃のウォレスが憧れた社会改革者ロバート・オウエンや、物理学者ウィリアム・クルックス、ジョン・ウィリアム・ストラット、数学者オーガスタス・ド・モルガン、スコットランドの出版業者ロバート・チェンバースなどがいた。 ウォレスの心霊主義の公然とした支持と、心霊主義に向けられた詐欺の告発に対する擁護は1870年代に彼の科学的な評判を傷つけた。以前は親しいであった同僚の科学者たち、例えばベイツ、ハクスリー、ダーウィンとの間は緊迫し、彼らはウォレスがあまりに信じやすいと感じた。他の人々、生理学者ウィリアム・カーペンターや動物学者レイ・ランケスターはこの問題に関して公然とウォレスの敵対者となった。 ウォレスと他の心霊主義擁護の科学者(特にウィリアム・クルックス)は書籍や新聞から広い批判を受けた。特に医学雑誌ランセットは彼らを痛烈に批判した。1879年にダーウィンがウォレスへの年金交付のために博物学者から賛同を得ようとしたとき、ジョセフ・フッカーは次のように述べた。 ウォレスはかなり立場を失った。心霊主義への執着だけでなく、イギリス学術会議の彼のセッションの会合の意見に反してわざと開いた心霊主義に関する会議のためにも。彼は好ましくないやり方でそれを行ったと言われている。それが理事会に引き起こした憤りの声を私はよく覚えている。 フッカーは最終的には請願を支持することに同意した。
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心霊主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:30 UTC 版)
心霊調査協会の初期のメンバーの牧師で心霊主義のステイントン・モーゼスは、自動筆記で多くの文書を残した。これは本人が亡くなると、『霊訓』(心霊の教義)として出版された。モーゼスはこの一部を生前に『光明』という小冊子にまとめたが、自分の鉛筆を動かした心霊のなかに、プラトン、アリストテレス、旧約聖書の預言者と称するものがいると困惑を隠していない。
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