心霊主義活動の本格化
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「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「心霊主義活動の本格化」の解説
ドイルは一次大戦前から心霊主義に関心を持っており、一次大戦での身内の死が原因で心霊主義に入ったとはいえないが、これをきっかけに心霊主義への傾斜を強めたことは確かなようである。1918年に著した最初の心霊主義に関する著作『新たなる啓示(The New Revelation)』の中でドイルは「戦争で多くの人の死に遭い、悲嘆を味わううちに、我々の愛する人は死後もなお生き続けているはずだとの確信に達した」と書いている。 一次大戦後のドイルは心霊主義の布教を自身の使命と心得るようになった。イギリスのみならずオーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ諸国、南アフリカ、ローデシア、ケニアなどを訪問しては心霊主義の講演を行った。1925年にはパリで開かれた国際心霊主義者連盟(英語版)の会議の議長を務めた。一次大戦後にドイルが心霊主義布教のために費やした金額は25万ポンドを超えると言われている。 コティングリー(英語版)の2人の少女(15歳と9歳)が妖精の写真を撮ったと話題になったコティングリー妖精事件をめぐっては、ドイルはこの写真を本物と判断し、『ストランド・マガジン』1920年12月号に掲載させた。さらに1922年には『妖精の到来(The Coming of the Fairies)』というタイトルでこの件を本にして出版した。ドイルがこれを信じたのは、少女に偽造写真を作る技術などあるわけがないと考えたこともあった。この写真の真偽はその後、イギリスで延々と論争され続けたが、60年以上後の1983年に至って写真を撮った2人の少女(この時点ではもちろん2人とも老婆になっていた)がそろって本から妖精の絵を切り取って作った偽造写真であることを認めたため、最終的に決着した。 『ストランド・マガジン』1925年7月号から心霊主義小説『霧の国』の連載を開始した。頑なに心霊主義を受け入れないチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める話であり、もちろんこの作品のチャレンジャー教授にはドイル本人が投影されている。またイギリスの心霊主義弾圧の法令を批判的に描いている。 『ストランド・マガジン』からの依頼でホームズ短編も執筆したが、この時期のホームズ作品はシャーロキアンからも精彩がないと評価されることが多い。もはやドイルにとってホームズは、心霊主義布教をやりやすくするための資金作りと名声維持の意味しかなくなっていたため、気持ちが十分に入っていなかったと言われている。またホームズ作品の舞台となるヴィクトリア朝とエドワード朝が作者にとって遠い過去の時代になってしまっていたことも原因と見られている。このころに書かれたホームズ短編作品は1927年に『シャーロック・ホームズの事件簿』として単行本化されている。 1929年にはアトランティス沈没を生き延びた人類が深海探査船に発見されるという内容のSF小説『マラコット深海(英語版)』を発表した。
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