1965–1969とは? わかりやすく解説

1965–1969

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:11 UTC 版)

ローリング・ストーンズ」の記事における「1965–1969」の解説

セカンドアルバムザ・ローリング・ストーンズ No.2』は1965年1月リリースされチャート1位となり、アメリカ盤2月に『ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!』がリリースチャート5位となる。アルバムシカゴのチェス・スタジオおよびロサンゼルスRCAスタジオで録音された。1965年1月から2月にかけてバンドオーストラリアとニュージーランド34回のショー行い100,000人が動員された。 ジャガーリチャード名義作曲した曲で(当時キース・リチャーズファミリー・ネームリチャード名乗っていて、1970年代後半リチャーズ戻した)、最初にイギリスシングルチャート1位になったのは「ラスト・タイム」(1965年2月)であり、同曲はアメリカでは9位であったキースは後にこの曲を「ストーンズにとって作曲について考え橋渡しとなった曲だ。それは俺たち信用レベル与えどのようにやっていくかの小道となった。」との認識語ったバンドにとっての初の世界的ナンバー1ヒットは「サティスファクション」であり、同曲は1965年5月3回目北米ツアーの間に録音された。ファズで歪ませた特徴的なギターリフ始まりキースホーンセクションガイドにしようと思い描いたオールダム意見異にし、ホーンオーバーダブせずに「サティスファクション」をリリースした。「サティスファクション」は1965年6月アメリカでリリースされ全米で4週連続No.1となる。以後、このソングライターチームによって何曲もの大ヒットナンバーを生んでいる。 アメリカ版アウト・オブ・アワ・ヘッズ』(1965年7月)もチャートNo.1となる。同作には7曲のオリジナル(ジャガー・リチャーズ名義が3曲、ナンカー・フェルジ名義が4曲)収録された。ストーンズ世界的No.1となった2番目の曲「一人ぼっちの世界 (Get Off of My Cloud)」は1965年秋にリリースされ続いてアメリカでディッセンバーズ・チルドレン』がリリースされた。 1966年4月アメリカ6月)にリリースされた『アフターマス』(イギリス1位;アメリカ2位)は、ストーンズにとって全曲オリジナルとなった初のアルバムであった。このアルバムブライアンギターハーモニカばかりでなく多く貢献果たした中東からの影響色濃くした「黒くぬれ! (Paint It, Black)」ではシタール演奏しバラードの「レディ・ジェーン」ではダルシマー演奏したまた、アンダー・マイ・サム」ではマリンバ演奏した。そして、12分にも及ぶ「ゴーイン・ホーム」はトップセラーのロックアルバムに収録された初のジャムセッションとして注目された。 ストーンズイギリスおよびアメリカにおけるシングルチャートでの成功1966年ピーク達した。「19回目の神経衰弱(19th Nervous Breakdown)」(1966年2月イギリス2位アメリカ2位)の後には最初英米ナンバー1の「黒くぬれ!」が続いた。「マザーズ・リトル・ヘルパー」(1966年6月)はアメリカでのみシングルリリースされ、8位となった。同曲は麻薬乱用問題言及した初のポップソング一つであった。この曲でミック通常使うアメリカ南部アクセントよりも自身の自然なロンドン訛り歌っている。 1966年9月の「マザー・イン・シャドウHave You Seen Your Mother, Baby, Standing in the Shadow?)」(イギリス5位;アメリカ9位)はいくつかの点で注目値したストーンズの曲で初めブラスセクション取り入れジャケット裏の写真女装したメンバーの物であったまた、ピーター・ホワイトヘッドによって初のプロモーションフィルム作られた。 1967年1月、『ビトウィーン・ザ・バトンズ』(イギリス3位アメリカ2位)がリリースされる本作アンドリュー・オールダムプロデューサーとして関わった最後アルバムであった(バンドマネージャーとしての役割1965年アラン・クレイン引き継がれていた)。アメリカ版では両A面シングルの「夜をぶっとばせLet's Spend the Night Togetherc/w ルビー・チューズデイ」が収録されアメリカでは1位、イギリスでは3位となったバンドニューヨークでエド・サリヴァン・ショー」に出演、「夜をぶっとばせ」を演奏したが、歌詞を「let's spend some time together」に変えるよう要請された。 1967年前半ミックキースブライアン気晴らし始めた麻薬に対してニュース・オブ・ザ・ワールド」紙が「Pop Stars and Drugs: Facts That Will Shock You」と題した3部構成記事発表した後、当局による摘発を受ける。記事ではザ・フーピート・タウンゼントクリームジンジャー・ベイカーらが参加したムーディー・ブルース主催したLSDパーティについて述べトップスター達が薬物使用していることを暴露した最初記事ではドノヴァンターゲットにされ(すぐ後に摘発され罰金刑を受ける)、第2回2月5日発行)でストーンズターゲットにされた。 記事提供者ロンドン高級クラブブレーズ一晩過ごしたが、そこでストーンズメンバー数個ベンゼドリン錠剤所持しハシシのかけらを示し彼の住居仲間誘ってそれを吸ったとされた。記事ではこれはミック・ジャガーのことであるとしたが、これは間違いであったとされた。事実提供者はこれはブライアン・ジョーンズのことであるとした。記事発表された夜、ミックはエイモン・アンドリュースのトークショー出演、同紙を名誉毀損訴えると発表した1週間後2月12日日曜日サセックス警察キース運転手からの内通受けてレッドランズキース自宅行われていたパーティ捜査した逮捕者はいなかったものの、警察麻薬容疑証拠品押収、後にミックキースおよび友人画商ロバート・フレーザーが告発された。キース2003年に「レッドランズ警察捕まったとき、俺たちはこれが全体異なったボールゲームであり、楽しみが止まったんだと突然分かったのさ。その時までそれは、まるでロンドン自分欲しいときにできた美しい空間に存在しているかのようだったんだ。」警察の捜査責任者は後に加えた。「私がそれを聞いたとき、彼は2度同じように歩かなかった。」 警察の捜査結果待っている間の1967年3月ミックキースブライアンは、マリアンヌ・フェイスフルブライアンガールフレンドアニタ・パレンバーグなどの友人一緒にモロッコへの短期旅行行った。この旅行の間にブライアンアニタの関係は悪化しアニタキースと共にモロッコ離れたキースは後に「そいつは俺とブライアンとの最後の釘だった。奴は俺を決し許さないだろうし、俺は奴を責める気は無いが、最悪出来事起こった。」と語っている。キースアニタその後12年間を共に過ごしたこの様メンバー間の関係は複雑だったにも関わらずストーンズ1967年3月から4月にかけてヨーロッパツアー行った。このツアーでは、ポーランドギリシャイタリアでの初のコンサート含まれた。 1967年5月10日ミックキースフレーザーはレッドランドでの一件関連して逮捕された。同日ブライアン自宅警察によって捜査され大麻所持容疑ブライアン逮捕された。メンバー5人の内3人が麻薬容疑逮捕されることとなり、ミックキース6月末に起訴された。6月29日ミックはアンフェタミン錠剤4錠の所持容疑で3ヶ月禁固刑宣告された。キース自宅敷地内大麻喫煙許したことで懲役1年有罪判決受けたミックキースその時点で投獄されたが、翌日には上訴保留して保釈された。タイムズ紙は「牛刀を以て割くのは誰だ? -Who breaks a butterfly on a wheel?-」と題したウィリアム・リーズ=モッグによる擁護記事掲載した記事ミックが「純粋に匿名若者」よりもマイナーな最初犯罪はるかに厳し扱い受けていたことを指摘している。 上告判決待っている間、バンドファンが示す忠誠心への感謝の気持ちとして、ニューシングルこの世界に愛を(We Love You)」を録音した。それは刑務所ドアが閉まる音で始まりプロモーションフィルムにはオスカー・ワイルド裁判暗示含まれていた。7月31日控訴裁判所キース判決覆しミック判決条件付き釈放至ったブライアン裁判1967年11月行われた最初求刑控訴した後の12月ブライアン1000ポンド罰金科せられ、3年間の保護観察専門的な治療を受けるよう命じられた。 1967年12月ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドリリース直後に『サタニック・マジェスティーズ』(イギリス3位アメリカ2位)がリリースされた。『サタニック・マジェスティーズ』はミックキースブライアン訴訟問題抱えるという難し状況の下でレコーディングが行われた。バンドはこのセッション中にプロデューサーアンドリュー・オールダム袂を分かったこの分裂は少なくとも公的に友好的であったが、ミック2003年に「アンドリュー去った理由は、彼は俺たち集中していないと考え俺たちは幼稚であると思ったからだ。本当に最悪な瞬間だった。そして俺はアンドリューにとっても最悪な瞬間だったろうと思ったよ。そこには気を散らすようなことがたくさんあって、その時点で集中させる必要があった。それはアンドリュー仕事だった。」と語っている。 このように、『サタニック・マジェスティーズ』はストーンズが自らプロデュースした最初アルバムとなった。そのサイケデリックなサウンドカバーアート補完されマイケル・クーパー英語版)による3D写真貼り付けられた。クーパーは『サージェント・ペパー』のカバー写真担当していた。ビル・ワイマンの「イン・アナザー・ランド」はシングルカットもされたが、これはミックリードを歌わなかった初の曲となったバンド1968年前半数ヶ月間、次のアルバム素材取り組んだ。このセッションから5月シングルとして「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」がリリースされた。この曲とアルバムベガーズ・バンケット』(イギリス3位アメリカ5位)は、カントリーソングとブルースからインスパイアされた曲を網羅しバンドルーツへの回帰示しプロデューサージミー・ミラーとのコラボレーション始まりとなった本作には「ストリート・ファイティング・マン」(1968年5月政治的な騒乱影響受けた)と「悪魔を憐れむ歌Sympathy for the Devil)」も収められた。「悪魔を憐れむ歌」は、「歌詞が神を冒涜している」という宗教団体からの抗議起こり、このアルバム大量に燃やされるという事件があった。この曲のレコーディング風景は、ジャン=リュック・ゴダール監督による音楽映画ワン・プラス・ワン』として記録されている。 『ベガーズ・バンケット』はリリース直後好意的に評価された。キースこの頃からリズムパート(しばしばカポ一緒に)にオープン・チューニング使い始めた。1968年にはオープンEまたはオープンDチューニングが最も顕著だった1969年なるとしばしば5弦のオープンGチューニング(6弦は取り外した)を使うようになり、1969年シングルホンキー・トンク・ウィメン」、 「ブラウン・シュガー」(『スティッキー・フィンガーズ1971年)、 「ダイスを転がせTumbling Dice)」(カポIV)、「ハッピー」(カポIV)(『メインストリートのならず者(Exile on Main St.)』1972年)、「スタート・ミー・アップ」(『刺青の男Tattoo You)』1981年)などで聴かれようになった1968年末には『ロックンロール・サーカス』の撮影が行われた。同作にはジョン・レノンオノ・ヨーコ、ザ・ダーティ・マック、ザ・フージェスロ・タルマリアンヌ・フェイスフルタジ・マハールらが出演した映像28年間にわたって公開されなかったが、最終的に1996年正式にリリースされた。2004年10月にはDVD版リリースされた。 『ベガーズ・バンケット』のリリース後ブライアン・ジョーンズはますますトラブル起こしバンドへの貢献散発的なものとなっていた。ミックブライアンが「この生き方には心理的に適していない」と述べている。彼の薬物使用障害になっており、彼はアメリカ合衆国ビザ取得することができなかった。キースは、ブライアンの家で6月行われたミックキースチャーリー話し合いブライアンは「再びロードに出る」ことができない認め、「俺は辞める。そしてもし俺がそうしたければ俺は戻ってくることができる。」と言ってバンド脱退した、と伝える。脱退から1ヶ月足らず1969年7月3日ブライアンハートフィールドにあるコットフォード・ファームの自宅プールで、不思議な状況の下に溺死しているところを発見された。ちなみにブライアン邸は、以前『クマのプーさん』作者として有名なA・A・ミルン住んでいた家でもある。 ストーンズブライアンの死から2日後となる7月5日に、ロンドンハイド・パークにあるブラックヒル・エンタープライズの無料コンサート演奏を行う予定だった。彼らはブライアン追悼としてコンサートを行うことに決めたブライアン後任となる新ギタリストジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ出身ミック・テイラー決定しテイラーとの最初コンサートは、推定250,000人のファンの前で行われた演奏はグラナダテレビの制作チームによって撮影されイギリスでは『ストーンズ・イン・ザ・パーク』として放映された。ミックパーシー・ビッシュ・シェリー友人ジョン・キーツの死を悼んで書いた詩「アドナイス(英語版)」からの一節朗読した。彼らはブライアン記憶の中で何千匹もの放ったショーオープニングでジョニー・ウィンターの「アイム・ユアーズ・アンド・アイム・ハーズ」が演奏された。 また、次回作の『レット・イット・ブリード』(1969年12月)からの未発表曲「ミッドナイト・ランブラー」「むなしき愛(Love in Vain)」および『メインストリートのならず者』(1972年5月)からの「ギブ・ミー・ア・ドリンク」も演奏された。このコンサートリリースされたばかりの「ホンキー・トンク・ウィメン」の初演でもあった。ブラックヒル・エンタープライズのステージ・マネージャー、サム・カトラーは彼らを「世界最大のロックンロール・バンド」として紹介したカトラーその後ストーンズのロードマネージャーとなり、69年アメリカツアーでは前述紹介繰り返した。 『レット・イット・ブリード』(イギリス1位;アメリカ3位)は12月リリースされた。60年代最後アルバムである本作には「ギミー・シェルター」が収録された。この曲では女性ヴォーカリストとしてメリー・クレイトンリトル・フィートメンバーであるサム・クレイトンの姉)が起用され有名なソロ部分歌っている。 その他には「無情の世界(You Can't Always Get What You Want)」(ロンドン・バッハ合唱団コーラス参加したが、他の収録曲内容から恐れ」たためクレジット削除要求した。しかしその後この要求撤回した。)、「ミッドナイト・ランブラー」、ロバート・ジョンソンカヴァーである「むなしき愛」が含まれた。ブライアンテイラーそれぞれ2曲に参加している。 ストーンズアメリカツアー直後サンフランシスコから東に約50マイル離れたオルタモント・スピードウェイで行われたオルタモント・フリーコンサート出演。このコンサートストーンズからのクリスマスプレゼントとして入場無料企画されたものであったが、20万人から50万人観客殺到したことに加え設営準備不足から大混乱陥った警備雇われ暴走族ヘルズ・エンジェルスが、観客黒人青年メレディス・ハンターが武器持っていたとして彼を刺殺するという、いわゆるオルタモントの悲劇」も起こったツアー一部とオルタモント・コンサートの様子メイスルズ兄弟の手によって『ギミー・シェルター』に収められた。また、海賊版広く出回るようになったため(本ツアーの様子は「Live'r Than You'll Ever Be」としてリリースされた)、その対応として『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウトイギリス1位;アメリカ6位)』が1970年リリースされた。評論家のレスター・バングスは史上最高のライブアルバム評している。 この年大晦日には60年代ヒット曲特集したBBC製作番組Pop Go The Sixties」に出演しストーンズは「ギミー・シェルター」を演奏している。

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