1965年 - 1981年
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「中森明菜」の記事における「1965年 - 1981年」の解説
1965年(昭和40年)7月13日、東京都大田区に、6人兄弟・姉妹(2男4女)の5番目、三女として生まれる。兄弟姉妹たちは、父の名前にちなんで全員が「明」の付く名前であり、中森自身も同様の命名を受けた。「明るくにぎやかな家庭であってほしい」という母の願いからであった。なお、妹の中森明穂(四女で末子、2019年5月27日死去)も後に芸能界入りしたが、短期間で引退している。 出生後、東京都清瀬市に移り住み幼少期を過ごす。4歳から14歳までの10年間、練馬区のバレエ教室「横山昭子モダンバレエスタジオ」に通っていた。中森を教えていたバレエ教師は「14歳まで休むことなく通い続け、本当に真面目な子だった。フラメンコやタンゴのリズムに乗ると生きいきと踊り、将来はダンサーになるだろうと思っていた。また幼い頃から衣装にとてもこだわっていた」と語っている。 美空ひばりが好きだった母は、若い頃は歌手志望で「ひばりちゃんのような歌手になりたい」と言い、中森が幼い頃から美空ひばりの歌を聞かせ、歌い方の手ほどきをしていた。やがて中森は母の影響で歌手の夢を抱くようになり、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に幾度となく挑戦する。 1981年、『スター誕生!』本選3度目の挑戦となった8月2日の放送(7月11日収録)で、中森は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、同番組の史上最高得点となる392点で合格する。合格後、スカウトを受ける場となる決戦大会までのおよそ1か月間、日本テレビ音楽学院でボーカルとダンスレッスンを受ける。同年11月29日放送(11月11日収録)の決戦大会前の事前審査にあたる下見会を経て、12月6日放送(11月18日収録)の決戦大会で再び「夢先案内人」を歌唱。合計11社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がった。これを機に中森は、研音所属とワーナー・パイオニアとのレコード契約を決める。その後、1982年2月に行われる初レコーディングに向け、自身での発声練習に加えて、ボーカル・トレーナーの大本恭敬のもと、週に1、2度ほどレッスンを積んだ。
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