1965年 - 1969年
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「平城・相楽ニュータウン」の記事における「1965年 - 1969年」の解説
1965年(昭和40年) 2月15日 - 京阪電気鉄道が奈良市歌姫町の土地の一部を買収。 3月12日 - 平城地区・相楽地区の地区決定。 3月16日 - 平城地区の用地買収が始まる。鑑定額は住友信託銀行と大和銀行の平均が4,205円で、実際の買収額は1坪4,200円以内。 3月25日 - 京阪電気鉄道が奈良市歌姫町の土地の一部を日本住宅公団へ売却。 6月 - 日本住宅公団が「平城地区における住宅団地計画」を明らかにする。 6月10日 - 日本住宅公団大阪支所宅地開発部長山岡順二らが奈良県庁企画課に赴く。 日本住宅公団が奈良県教育長と遺跡について事前協議。 7月26日 - 京阪電気鉄道が奈良市歌姫町の土地の一部を日本住宅公団へ売却。 9月22日 - 京阪電気鉄道が奈良市歌姫町の土地の一部を日本住宅公団へ売却。 12月 - 公団法第34条に基づき、住宅建設計画と宅地造成計画について奈良県側の知事・市長への意見聴取が行われる。 1966年(昭和41年) 3月 - 相楽地区の用地買収が始まる。鑑定額は不動産研究所が4,430円、大和銀行が4,460円、住友信託銀行が4,680円で、実際の買収額は1坪4,300円以内。なお、奈良県側と京都府側の買収地は、もともと近畿日本鉄道が自身で所有していたものと個人から近畿日本鉄道に委託されたもの、個人や相互土地から京阪電気鉄道・富国開発に委託されたもの、個人が所有しているものからなる。 日本住宅公団が京都府教育長と遺跡について事前協議。 3月11日 - 平城地区・相楽地区の変更地区決定。 7月1日 - 日本住宅公団平城開発事務所が開所。 9月 - 日本住宅公団が「平城住宅団地マスタープラン」を作成。 9月 - 公団法第34条に基づき、住宅建設計画と宅地造成計画について京都府側の知事・市長への意見聴取が行われる。 11月 - 京都府が日本住宅公団に再協議を求める。 日本住宅公団は京都府と協議を開き、ニュータウン計画について開発を見送ることを決定。 10月 - 国道24号線バイパス線の計画が決定。 1967年(昭和42年) 5月31日 - 人口増加に伴う水不足によって1966年7月20日に学園前を中心とする奈良市西部地域で発生した、初めての20日間もの大規模な断水などを受け、奈良市は日本住宅公団に財政不足と上水道の供給が困難であることを理由に、事業の中止を申し入れる。 12月28日 - 奈良市が「開発行為等に伴う都市施設の整備に関する指導要綱」を施工。 1968年(昭和43年) 2月22日 - 平城地区の用地買収が終了。 2月 - 相楽地区の用地買収が終了。 11月 - 奈良市が平城ニュータウンの受け入れ計画をまとめる。 12月7日 - 奈良市と日本住宅公団が公共事業および公益施設整備事業等について協力することなどが書かれた覚書を交換。 12月28日 - 平城地区の土地区画整理区域が決定。 12月 - 奈良市が建設省に平城ニュータウン計画決定の申請を行う。 1969年(昭和44年) 5月 - 水道幹線道路「都市計画街路外環状線」北部地区が着工。なお、この工事は平城土地区画整理事業最初の工事で、道路はその後奈良阪南田原線に改称。
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1965年 - 1969年
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「阪神タイガース」の記事における「1965年 - 1969年」の解説
1965年から1967年まで3年連続の3位。1968年と1969年は、いずれも巨人と優勝争いを繰り広げるも結果はいずれも巨人の優勝を許し、1968年は巨人と5ゲーム差、1969年は巨人と6.5ゲーム差の2年連続2位に終わる。1966年、藤本は杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年まで監督を務め、同年オフに勇退。後任には後藤次男が就任。
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