経済と人口とは? わかりやすく解説

経済と人口

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 14:34 UTC 版)

仙台藩」の記事における「経済と人口」の解説

仙台藩主な産物は米である。江戸時代には、北上川流域湿地帯開拓などの新田開発により、18世紀以降内高が約100万石に達する程、多くの米・農作物収穫できるようになったまた、買米制呼ばれる事実上専売制度導入されていた。その米を海路江戸運んで大きな利益得た萱場木工の『古伝密要』によると、大凶作でない限り仙台藩毎年25 - 30万石の米・農産物(主に大豆)を輸出していたが、この内10万石は江戸以外の地へ輸出される「脱石」となり、また南部藩から輸入された「北米5万石を加え石巻より江戸へ毎年20 - 25万石の米・農産物輸送された。この内江戸で登米役米を除く約半分10万石が「仙台米」として江戸流通したという。仙台米の江戸へ輸出始まったのは寛永9年1632年)で、明和7年1770年)に書かれた『煙霞綺談』は「今江三分一奥州米なり」と記述している。一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ仙台藩大坂蔵屋敷設置していた。石巻はこれらの航路拠点として大い発展した。 以下に一関藩含めた仙台藩内高(1貫=10石で換算)の変遷をまとめる。表高620056石5斗4升だが、新田開発により18世紀初頭内高100万石を超えた仙台一関藩内高変遷元号西暦高 (石高に換算)出典天正 1591年ごろ 428,142.57 仙台国御郡方式文禄 1595年ごろ 513,771.08 仙台国御郡方式慶長3年 1598年 557,602.00 仙台叢書別集 慶長6年 1601年 600,000.00 伊達家記録抜書 寛永11年 1634年 (領知高) 600,000.00 将軍家御判物 (本地分) 654,110.88 寛永検地 寛永17年 1640年 745,293.38 仙国御郡方式目 (寛永検地高) 寛文3年 1663年 829,801.82 仙国郡旧記延宝4年 1676年 850,057.30 御蔵入延宝四年之書上 貞享元年 1684年 930,195.42 仙国郡旧記貞享2年 1685年 930,208.76 仙国郡旧記貞享3年 1686年 935,383.23 仙国郡旧記元禄1690年ごろ 945,084.40 仙国郡旧記宝永7年 1710年 839,991.80 武家手控 享保2年 1717年 995,880.00 仙台叢書別集 享保3年 1718年 1,007,676.91 出入司職鑑 元文3年 1738年 1,016,486.99 出入司職鑑 延享元年 1744年 1,019,953.62 出入司職鑑 宝暦4年 1754年 1,021,831.68(奥州分) 999,002.76 古伝要 文12年/文化13年 1815年/1816年 1,017,218,30 伊達家出入司文書 文政7年 1824年 1,009.461.00 御財用方十ヶ条申達天保9年 1838年 1,014,909.76 伊達家勘定方 嘉永5年 1852年 1,012,829.42(奥州分) 947,736.95 伊達家勘定方 安政元年 1856年 1,013,521.62 伊達家出入司文書 明治元年 1868年 (奥州分) 980,000.00 旧仙台藩概要 以上は藩内の租税算出基礎となる内高での数字であるが、寛政9年1797年)に書かれ萱場木工の『古伝密要』によると、奥州領分内高999002石7斗6升に対して貢租53%の529476石7斗6升2合8勺を税収とし、実際の米の収穫高は税収の3倍、雑穀収穫高は税収とほぼ同じであるという過剰の仮定により、仙台藩奥州領分の米・雑穀実高合計税収の4倍(内高の2.12倍)の2117906石1斗5升1合と見積もっている。また江戸時代末期安井息軒の『読書余適』には「二百万石余」、同じく江戸時代末期帆足万里『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。このことから仙台藩実高200 - 250万石達したとする説が広く流布しているが、これらの数字何れも推論に基づく誇張され数字であり、実態とかけ離れている。地租改正後の旧仙台藩領分の明治10年 - 明治12年ヶ年平均農作物換算石高130万石(内、米91万石大豆12万石米価換算12万石相当)、大麦22万石米価換算10万石相当)など)であり、豊作時に米の収穫高だけで内高上回ることがあったというのが実態である。 寛永17年1640年)の検地高74529貫338文(745293石3斗8升相当)に占め田畑の高と反別以下の通りで、米の収穫高は総農産高の8割以上を占めていた。また雑穀としては大豆重要な商品作物として広く栽培されたが、冷害に強いとされるヒエ商品価値低く、あまり栽培されなかった。 寛永17年検地田・畑茶畑高 (石高に換算)反別1町当たり収量608,571.66 5万0244町4反2畝2212石1斗1升2合2勺 畑 126,048.98 45109町6反6畝13歩 2石7斗9升4合3勺 茶畑 10,672.74 305町4反7畝19歩 3石4斗9升3合9勺 合計 745,293.38 95659町5反6畝24歩 7石7斗9升4勺 また延宝4年1676年)には蔵入地31%を占めていたが、貞享年間1684年ごろ)では以下のような知行構成となっており、蔵入地若干減退している。 貞享年間知行高反別合計本地新田茶畑合計石高に換算) 935,383.23 765,606.48 159,487.57 10,289.18 内、御蔵入 278,809.43 214,253.67 54,472.43 10,083.33 内、給人 655,131.69 549,937.13 104,909.09 195.43 内、除屋敷 1,442.11 1415.68 16.05 10.38 本地新田反別 (町歩) 126,190 99.606 26.584 内、田 66,183 52,663 13.520 内、畑 60,007 46,943 13.064 1町当たり収量 7石4斗1升2合5勺 7石6斗8升6合3勺 5石9斗9升9合4勺 田畑反別安永4年1775年)には131031町7反3畝歩にまで増加し御蔵入地の割合も、幕末安政3年1858年)には39%まで増加したしかしながら依然として御蔵入地の割合低く、これが凶作時などの緊縮財政時には大きな負担仙台藩与えた例え中津川武蔵の『御在方全体之犠等品々御奉行衆被御聞届取調十ヶ条申達候留』によると、文政6年1823年)において御蔵入地からの年貢は、米71900石、大豆4300石、金42000両に過ぎなかった。 このように米に頼りすぎた経済は、藩に他の産品開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場状況によって翻弄され、不安定であった。特に買米制凶作弱く凶作起きれば藩は大借金抱え豊作でかつ米相場高値推移の年には積年借金一気返済できてしまうといった具合である。まさに「農業博打である」という格言地で行く経営であった仙台藩幕府提出した報告書によれば天明3年1783年)、天明4年1784年)にはそれぞれ565000石、532000石の損毛高を計上し内高ベースでの米生産高は平年半分であったという。また天保7年1836年)には915784石の損毛高を計上し米の生産高は10万石しかなかった。 また、凶作が起こると領内大変な食料不足見舞われ農民だけではなく武士階級の者までが餓死した伝えられているが、これは他の藩には全く見られない現象であった実際天明元年1781年)に502124人を数えた陸奥領内方人口は、天明の大飢饉後の寛政元年1789年)には409632人にまで減少している。死因としては大凶作による餓死よりも、体力衰えたところで流行した疫病(「傷寒」(腸チフスか)、「多羅病」など)の方が遥かに大きく餓死20万人というのは大げさ伝聞といえるものの、藩全体人口10万単位減少したのは事実である。凶作原因としては、やませによる冷害天明3年1783年)の浅間山火山噴火のほか、新田開発集中した北上川洪水による度重なる水害挙げられる一方で飢饉人為的要因としては買米廻米制度挙げられる例え天明の大飢饉では凶作前年天明2年1782年)に投機的廻米のため、食糧備蓄取り崩したことも飢饉拍車を掛けたと五十嵐左衛門の『飢饉録』で糾弾されている。18世紀中ごろから幕末までは、仙台藩新田開発滞り、ほぼ内高100万石のまま推移した。 以下に一関藩含めた仙台藩構成別人口の変遷をまとめる 。表にまとめた人口の他、陸奥領・一関藩の郡方人口については他の年代のものも記録として残っているが、これらについては江戸時代の日本の人口統計参照。また表中、享保2年1717年)の数値地域別人口で、陸奥領と一関藩の郡方人口の項に示されている数字武家等を含む。 仙台一関藩構成別人口の変遷身分地域寛文8年1668年延宝2年1674年貞享3年1686年元禄3年1690年元禄8年1695年元禄15年1702年享保2年1717年享保17年1732年寛保2年1742年宝暦7年1757年天明6年1786年寛政元年1789年享和2年1802年文政8年1825年文政11年1828年慶応3年1867年一門諸士・諸組・諸職151,211 176,057 194,203 205,916 × 185,570 133,174 143,208 149,465 仙台藩 202,541 × 182,678 171,639 130,509 140,438 146,352 岩沼一関藩 3,375 × 2,892 2,665 2,770 3,113 仙台町方 18,493 20,073 22,501 22,706 × 20,374 11,610 13,302 13,749 仙台寺院方 9,209 9,224 2,554 2,884 × 6,249 4,007 4,496 4,695 郡方 428,955 515,472 557,019 599,241 588,251 617,323 × 647,427 603,868 447,491 478,064 519,893 陸奥473,892 512,941 507,900 542,268 819,162 559,204 534,901 411,496 409,632 440,799 481,180 490,571 556,983 岩沼一関藩 41,580 25,756 26,694 31,314 26,293 21,877 20,259 21,671 23,032 近江領 8,332 9,095 9,380 8,917 7,982 8,089 8,129 常陸領 9,990 10,194 9,840 9,299 7,611 7,358 7,402 下総領 (1712年以降) 150 155 143 147 150 総人口 607,868 720,826 776,277 819,749 869,846 816,061 596,282 598,001 639,070 687,802 699,334 表に示すように、仙台藩総人口占め武家割合22 - 25%と非常に高かったしかしながら明治2年時点で33128家172239人いた士分の内、陪臣2万3477家115771人のほぼ全てと、伊達家直属家臣団9651家5万6468人の内1993家9965人は帰農することとなり、士卒族の地位得たのは士族2万9408人、卒族1万3091人のみである。 稲作以外の産業としては、三陸沖漁場持ち良港恵まれたことなどから、三陸海岸採れるアワビサメを、干鮑フカヒレ加工して長崎俵物」として清に輸出していた。特に三陸産の干しアワビ仙台藩領気仙郡吉浜村現・岩手県大船渡市)から名前を取って吉品(カッパンパオ)」と呼ばれていた。 さらに鉱山資源日本国内としては豊富であり、鉄鋼業と、馬産奨励して成功したことや、三陸沖漁場持ち良港恵まれたことなどがあげられるこのため前述の米の他に塩、漆、水産物煙草紅花海産物も藩の専売品であったこのような恵まれた環境ではあったが、御蔵入地からの年貢は約10万 - 20万石程度変動した江戸時代後期以降先述偏った財政に、天明の大飢饉天保の大飢饉などの凶作欧米列強対す海岸防備による出費が藩財政直撃した天保10年には幕府許可もらって参勤交代延期する状況であったが、幕末には民部藩札発行行って経済混乱起こし但木成行は、表高62万石ありながら10万分限での藩財政運営宣言した

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経済と人口

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ウォルドーフ (メリーランド州)」の記事における「経済と人口」の解説

ウォルドーフはベッドタウンであり、ワシントンD.C.大都市圏の他の地点で働くために通勤する住人が多い。特にアメリカ空軍アンドリュース基地で働く人が多い。ウォルドーフの中での職は主にサービス業商業仕事である。近くにある2階建てショッピングモールのセントチャールズ・タウンセンターが1988年オープンし2007年改修された。そのセンターにはメリーランド州内の数郡、ワシントンD.C.バージニア州一部から買い物客や、食事をする人を集めており、「南メリーランド州買い物首都」としてチャールズ郡が繁栄することになった。町を通る幹線道アメリカ国道301号線が「ウォルドーフ・モーター・マイル」を歌っており、主に北行きの道路沿いにカーディーラ店が並んでいる。2005年、ウォルドーフは3番目の高校ノースポイント高校開校し先進的な科学技術教育始めた24時間スポーツ施設とアイススケート・リンクのキャピタル・クラブハウスも同年オープンした2014年には4番目の高校としてセントチャールズ高校開校したトマス・ストーン高校もウォルドーフの町内にある。さらに南メリーランド・カレッジの分校もある。2006年ショッピングセンターをさらに2か所建設する案が公表された。その1つは高級志向であり、「ライフスタイル」のレイアウトで客を呼ぶ考えである。ウェスタン・パークウェイと州道228号線(ベリー道路)の交差点中層ビル建てるオフィスパークの建設始まった。そこには2010年にレジデンス・インがオープンしその道向かいには別の新しホテルオープンしたマイナーリーグ野球チームサザンメリーランド・ブルークラブスがウォルドーフを本拠地にしている。

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