経済と人口
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仙台藩の主な産物は米である。江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発により、18世紀以降は内高が約100万石に達する程、多くの米・農作物を収穫できるようになった。また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。その米を海路江戸に運んで大きな利益を得た。萱場木工の『古伝密要』によると、大凶作でない限り仙台藩は毎年約25万 - 30万石の米・農産物(主に大豆)を輸出していたが、この内10万石は江戸以外の地へ輸出される「脱石」となり、また南部藩から輸入された「北米」5万石を加え、石巻より江戸へ毎年約20万 - 25万石の米・農産物が輸送された。この内、江戸での登米や役米を除く約半分の10万石が「仙台米」として江戸に流通したという。仙台米の江戸への輸出が始まったのは寛永9年(1632年)で、明和7年(1770年)に書かれた『煙霞綺談』は「今江戸三分一は奥州米なり」と記述している。一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、仙台藩は大坂に蔵屋敷を設置していた。石巻はこれらの航路の拠点として大いに発展した。 以下に一関藩を含めた仙台藩内高(1貫=10石で換算)の変遷をまとめる。表高は62万0056石5斗4升だが、新田開発により18世紀初頭に内高は100万石を超えた。 仙台・一関藩内高の変遷元号西暦高 (石高に換算)出典天正 1591年ごろ 428,142.57 仙台国御郡方式目 文禄 1595年ごろ 513,771.08 仙台国御郡方式目 慶長3年 1598年 557,602.00 仙台叢書別集 慶長6年 1601年 600,000.00 伊達家記録抜書 寛永11年 1634年 (領知高) 600,000.00 将軍家光御判物 (本地分) 654,110.88 寛永惣検地 寛永17年 1640年 745,293.38 仙国御郡方式目 (寛永惣検地高) 寛文3年 1663年 829,801.82 仙国郡村諸旧記抄 延宝4年 1676年 850,057.30 御蔵入延宝四年之書上 貞享元年 1684年 930,195.42 仙国郡村諸旧記抄 貞享2年 1685年 930,208.76 仙国郡村諸旧記抄 貞享3年 1686年 935,383.23 仙国郡村諸旧記抄 元禄? 1690年ごろ 945,084.40 仙国郡村諸旧記抄 宝永7年 1710年 839,991.80 武家手控 享保2年 1717年 995,880.00 仙台叢書別集 享保3年 1718年 1,007,676.91 出入司職鑑 元文3年 1738年 1,016,486.99 出入司職鑑 延享元年 1744年 1,019,953.62 出入司職鑑 宝暦4年 1754年 1,021,831.68(奥州分) 999,002.76 古伝密要 文化12年/文化13年 1815年/1816年 1,017,218,30 伊達家出入司文書 文政7年 1824年 1,009.461.00 御財用方十ヶ条申達留 天保9年 1838年 1,014,909.76 伊達家勘定方 嘉永5年 1852年 1,012,829.42(奥州分) 947,736.95 伊達家勘定方 安政元年 1856年 1,013,521.62 伊達家出入司文書 明治元年 1868年 (奥州分) 980,000.00 旧仙台藩治概要 以上は藩内の租税算出の基礎となる内高での数字であるが、寛政9年(1797年)に書かれた萱場木工の『古伝密要』によると、奥州領分内高99万9002石7斗6升に対して貢租率53%の52万9476石7斗6升2合8勺を税収とし、実際の米の収穫高は税収の3倍、雑穀の収穫高は税収とほぼ同じであるという過剰の仮定により、仙台藩奥州領分の米・雑穀の実高合計を税収の4倍(内高の2.12倍)の211万7906石1斗5升1合と見積もっている。また江戸時代末期の安井息軒の『読書余適』には「二百万石余」、同じく江戸時代末期の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。このことから仙台藩の実高は200万 - 250万石に達したとする説が広く流布しているが、これらの数字は何れも推論に基づく誇張された数字であり、実態とかけ離れている。地租改正後の旧仙台藩領分の明治10年 - 明治12年三ヶ年平均農作物米換算石高は130万石(内、米91万石、大豆12万石(米価換算で12万石相当)、大麦22万石(米価換算で10万石相当)など)であり、豊作時に米の収穫高だけで内高を上回ることがあったというのが実態である。 寛永17年(1640年)の検地高7万4529貫338文(74万5293石3斗8升相当)に占める田畑の高と反別は以下の通りで、米の収穫高は総農産高の8割以上を占めていた。また雑穀としては大豆が重要な商品作物として広く栽培されたが、冷害に強いとされるヒエは商品価値が低く、あまり栽培されなかった。 寛永17年惣検地田・畑・茶畑高 (石高に換算)反別1町当たり収量田 608,571.66 5万0244町4反2畝22歩 12石1斗1升2合2勺 畑 126,048.98 4万5109町6反6畝13歩 2石7斗9升4合3勺 茶畑 10,672.74 305町4反7畝19歩 3石4斗9升3合9勺 合計 745,293.38 9万5659町5反6畝24歩 7石7斗9升4勺 また延宝4年(1676年)には蔵入地が31%を占めていたが、貞享年間(1684年ごろ)では以下のような知行構成となっており、蔵入地が若干減退している。 貞享年間の知行高・反別合計本地新田茶畑高合計(石高に換算) 935,383.23 765,606.48 159,487.57 10,289.18 内、御蔵入 278,809.43 214,253.67 54,472.43 10,083.33 内、給人 655,131.69 549,937.13 104,909.09 195.43 内、除屋敷 1,442.11 1415.68 16.05 10.38 本地・新田反別 (町歩) 126,190 99.606 26.584 内、田 66,183 52,663 13.520 内、畑 60,007 46,943 13.064 1町当たり収量 7石4斗1升2合5勺 7石6斗8升6合3勺 5石9斗9升9合4勺 田畑の反別は安永4年(1775年)には13万1031町7反3畝歩にまで増加し、御蔵入地の割合も、幕末の安政3年(1858年)には39%まで増加した。しかしながら依然として御蔵入地の割合は低く、これが凶作時などの緊縮財政時には大きな負担を仙台藩に与えた。例えば中津川武蔵の『御在方全体之犠等品々御奉行衆被御聞届取調十ヶ条申達候留』によると、文政6年(1823年)において御蔵入地からの年貢は、米7万1900石、大豆4300石、金4万2000両に過ぎなかった。 このように米に頼りすぎた経済は、藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。特に買米制は凶作に弱く、凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。仙台藩が幕府に提出した報告書によれば、天明3年(1783年)、天明4年(1784年)にはそれぞれ56万5000石、53万2000石の損毛高を計上し、内高ベースでの米生産高は平年の半分であったという。また天保7年(1836年)には91万5784石の損毛高を計上し、米の生産高は10万石しかなかった。 また、凶作が起こると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までが餓死したと伝えられているが、これは他の藩には全く見られない現象であった。実際、天明元年(1781年)に50万2124人を数えた陸奥領内郡方人口は、天明の大飢饉後の寛政元年(1789年)には40万9632人にまで減少している。死因としては大凶作による餓死よりも、体力の衰えたところで流行した疫病(「傷寒」(腸チフスか)、「多羅病」など)の方が遥かに大きく、餓死20万人というのは大げさな伝聞といえるものの、藩全体の人口が10万人単位で減少したのは事実である。凶作の原因としては、やませによる冷害や天明3年(1783年)の浅間山の火山噴火のほか、新田開発の集中した北上川の洪水による度重なる水害が挙げられる。一方で飢饉の人為的要因としては買米・廻米制度が挙げられる。例えば天明の大飢饉では凶作の前年の天明2年(1782年)に投機的廻米のため、食糧備蓄を取り崩したことも飢饉に拍車を掛けたと五十嵐荘左衛門の『飢饉録』で糾弾されている。18世紀中ごろから幕末までは、仙台藩の新田開発は滞り、ほぼ内高100万石のまま推移した。 以下に一関藩を含めた仙台藩の構成別人口の変遷をまとめる 。表にまとめた人口の他、陸奥領・一関藩の郡方人口については他の年代のものも記録として残っているが、これらについては江戸時代の日本の人口統計参照。また表中、享保2年(1717年)の数値は地域別人口で、陸奥領と一関藩の郡方人口の項に示されている数字は武家等を含む。 仙台・一関藩の構成別人口の変遷身分・地域寛文8年(1668年) 延宝2年(1674年) 貞享3年(1686年) 元禄3年(1690年) 元禄8年(1695年) 元禄15年(1702年) 享保2年(1717年) 享保17年(1732年) 寛保2年(1742年) 宝暦7年(1757年) 天明6年(1786年) 寛政元年(1789年) 享和2年(1802年) 文政8年(1825年) 文政11年(1828年) 慶応3年(1867年) 一門・諸士・諸組・諸職人 151,211 176,057 194,203 205,916 × 185,570 133,174 143,208 149,465 仙台藩 202,541 × 182,678 171,639 130,509 140,438 146,352 岩沼/一関藩 3,375 × 2,892 2,665 2,770 3,113 仙台町方 18,493 20,073 22,501 22,706 × 20,374 11,610 13,302 13,749 仙台寺院方 9,209 9,224 2,554 2,884 × 6,249 4,007 4,496 4,695 郡方 428,955 515,472 557,019 599,241 588,251 617,323 × 647,427 603,868 447,491 478,064 519,893 陸奥領 473,892 512,941 507,900 542,268 819,162 559,204 534,901 411,496 409,632 440,799 481,180 490,571 556,983 岩沼/一関藩 41,580 25,756 26,694 31,314 26,293 21,877 20,259 21,671 23,032 近江領 8,332 9,095 9,380 8,917 7,982 8,089 8,129 常陸領 9,990 10,194 9,840 9,299 7,611 7,358 7,402 下総領 (1712年以降) 150 155 143 147 150 総人口 607,868 720,826 776,277 819,749 869,846 816,061 596,282 598,001 639,070 687,802 699,334 表に示すように、仙台藩総人口に占める武家の割合は22 - 25%と非常に高かった。しかしながら明治2年の時点で3万3128家17万2239人いた士分の内、陪臣2万3477家11万5771人のほぼ全てと、伊達家直属家臣団9651家5万6468人の内1993家9965人は帰農することとなり、士卒族の地位を得たのは士族2万9408人、卒族1万3091人のみである。 稲作以外の産業としては、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどから、三陸海岸で採れるアワビやサメを、干鮑やフカヒレに加工して「長崎俵物」として清に輸出していた。特に三陸産の干しアワビは仙台藩領の気仙郡吉浜村(現・岩手県大船渡市)から名前を取って「吉品鮑(カッパンパオ)」と呼ばれていた。 さらに鉱山資源が日本国内としては豊富であり、鉄鋼業と、馬産を奨励して、成功したことや、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどがあげられる。このため前述の米の他に塩、漆、鉄、水産物、煙草、紅花、海産物も藩の専売品であった。 このような恵まれた環境ではあったが、御蔵入地からの年貢は約10万 - 20万石程度で変動した。江戸時代後期以降は先述の偏った藩財政に、天明の大飢饉、天保の大飢饉などの凶作や欧米列強に対する海岸防備による出費が藩財政を直撃した。天保10年には幕府に許可をもらって参勤交代を延期する状況であったが、幕末には芝多民部が藩札発行を行って経済混乱を起こし、但木成行は、表高62万石でありながら10万石分限での藩財政運営を宣言した。
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経済と人口
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「ウォルドーフ (メリーランド州)」の記事における「経済と人口」の解説
ウォルドーフはベッドタウンであり、ワシントンD.C.大都市圏の他の地点で働くために通勤する住人が多い。特にアメリカ空軍アンドリュース基地で働く人が多い。ウォルドーフの中での職は主にサービス業や商業の仕事である。近くにある2階建てショッピングモールのセントチャールズ・タウンセンターが1988年にオープンし、2007年に改修された。そのセンターにはメリーランド州内の数郡、ワシントンD.C.、バージニア州の一部から買い物客や、食事をする人を集めており、「南メリーランド州の買い物首都」としてチャールズ郡が繁栄することになった。町を通る幹線道のアメリカ国道301号線が「ウォルドーフ・モーター・マイル」を歌っており、主に北行きの道路沿いにカーディーラ店が並んでいる。2005年、ウォルドーフは3番目の高校ノースポイント高校を開校し、先進的な科学技術の教育を始めた。24時間スポーツ施設とアイススケート・リンクのキャピタル・クラブハウスも同年にオープンした。2014年には4番目の高校としてセントチャールズ高校が開校した。トマス・ストーン高校もウォルドーフの町内にある。さらに南メリーランド・カレッジの分校もある。2006年、ショッピングセンターをさらに2か所建設する案が公表された。その1つは高級志向であり、「ライフスタイル」のレイアウトで客を呼ぶ考えである。ウェスタン・パークウェイと州道228号線(ベリー道路)の交差点に中層ビルを建てるオフィスパークの建設が始まった。そこには2010年にレジデンス・インがオープンし、その道路向かいには別の新しいホテルがオープンした。マイナーリーグ野球チームのサザンメリーランド・ブルークラブスがウォルドーフを本拠地にしている。
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