党派的行動と新領土における奴隷制問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 03:15 UTC 版)
「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「党派的行動と新領土における奴隷制問題」の解説
党派抗争を強くしたもう一つの問題は奴隷制であり、とくに西部の準州がアメリカ合衆国の州として加盟を求めた時にそこで奴隷制を認めるかという問題だった。1800年代初期に綿花ブームが続いていたとき、奴隷制は大規模であればそれだけ経済的に引き合うものとなり、北部人は道徳的側面では無関心であったとしても経済的脅威としては認識し始めていた。奴隷制の即刻廃止に賛成する北部人は比較的少なかったが、新しい領土にそれが拡張することには反対する者が多く、奴隷を利用することは自由労働者の賃金を下げるという見方があった。 これと同時に南部人は次第に北部の経済と人口の成長を南部の利益に対する脅威と認識するようになっていった。アメリカ合衆国が作られてからの数十年間に新しい州が加盟し、北部と南部はその党派的違いを乗り越えて、奴隷州と自由州の数を等しく加盟させることでバランスを保っていた。この妥協的方法によって上院における力の平衡は無期限に保たれていた。しかし、下院の場合は事情が異なっていた。北部の工業化が進み、ヨーロッパからの移民が流入してその人口が増していくと、下院においては北部が多数派となり、南部政治指導者達はそれを不快に感じるようになっていった。南部人は連邦政府でその利益を守るに必要な代議員数を送っていないために、政府に翻弄されるようになることを恐れるようになった。1840年代後半までにミシシッピ州出身のジェファーソン・デイヴィス上院議員は、連邦議会で北部が多数を占めることはアメリカ合衆国政府を「北部強化のエンジン」にすると述べ、北部の指導者達は南部民衆の犠牲においてアメリカ合衆国の工業化を促進する」構想を持っているとも言った。 米墨戦争の結果、自由州と奴隷州の境界より南側に新しい領土が加わることを北部人の多くは警告と捉え、新領土における奴隷制問題は劇的に熱い問題に変わった。党派的抗争が4年間続いた後で、1850年妥協によりなんとか内戦は避けられた。このときカリフォルニア州は州南部を含めて自由州として加盟を認められて別に奴隷州を作ることを免れ、ニューメキシコ準州とユタ準州では奴隷制を認められるという複雑な取引があり、さらには1850年の逃亡奴隷法では、どこで見つかった逃亡奴隷も全国民に再捕獲を助けることを求める強力な法が成立した。その4年後、連続した妥協で購われていた平和は遂に終わりになった。連邦議会はカンザス・ネブラスカ法によって奴隷制問題を各準州に済む住民の投票による判断に委ね、それによって奴隷制擁護派と反対派の対立する移民集団が新しく開発された地域に競って入植するような法と秩序の崩壊を誘発した。
※この「党派的行動と新領土における奴隷制問題」の解説は、「アメリカ合衆国南部の歴史」の解説の一部です。
「党派的行動と新領土における奴隷制問題」を含む「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事については、「アメリカ合衆国南部の歴史」の概要を参照ください。
- 党派的行動と新領土における奴隷制問題のページへのリンク