党派闘争の激化(正面戦段階)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 00:56 UTC 版)
「社青同解放派」の記事における「党派闘争の激化(正面戦段階)」の解説
1972年4月28日 大阪城公園で革マル派部隊が解放派を蹴散らす。革マル派学生木下正人が死亡。この死は心臓麻痺によるもので、この結果の対立はいったん小康状態になる。 1972年11月8日 革マル派が早稲田大学で早大生川口をリンチで殺害。早稲田解放闘争が始まり。WAC(早大行動委員会)が結成され、革マル派は次々と自治会執行部から罷免される。再度、早大支配をねらう革マル派は学生集会を襲撃し出すが、自衛武装を始めたWACに、解放派、ブント等が助太刀に駆けつけ正面戦の対峙が続く。 1973年5~6月 早稲田大学で革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕。
※この「党派闘争の激化(正面戦段階)」の解説は、「社青同解放派」の解説の一部です。
「党派闘争の激化(正面戦段階)」を含む「社青同解放派」の記事については、「社青同解放派」の概要を参照ください。
党派闘争の激化(アジト襲撃と病院送り段階)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 00:56 UTC 版)
「社青同解放派」の記事における「党派闘争の激化(アジト襲撃と病院送り段階)」の解説
1973年9月14~15日 深夜、新学期の直前、早稲田解放闘争の継続を恐れた革マル派150名が神奈川大学に泊り込んだ解放派部隊約50人に4時間にわたり夜襲をかける。この結果、解放派部隊のほとんどが入院という大きな打撃を受ける。このとき攻撃側のレポが2人捕まる。寮にいた現場指導部の永井啓之は、最大の目標は集めうる部隊でのキャンパスへの救援であると、レポへのリンチを制止し反撃の準備に全力で取り掛かる。早朝ぐったりしたレポ2名を運びだし放置する。この2名が死亡し、北條全学連委員長、永井啓之が指名手配されてしまう。 1973年9月16日 革マル派はWAC(早大行動委員会)を三越デパート屋上で襲撃 (参考)1973年10月20日 神大事件の影響もあるのか、2年間の臥薪嘗胆のすえ、中核派がついに革マル派への攻勢を開始する(殺人段階に入る)。 1974年 ガスの検針員を装った革マル派の襲撃部隊が滝口弘人他十人近くを襲撃(中延ハイツ事件)。一年後の1975年に報復として解放派は、革マル派全学連本部創造社に対して武装襲撃。 (参考)1975年3月14日 革マル派が中核派の本多延嘉書記長を暗殺(全面戦争の開始) 1975年6月24日 加藤登紀子(夫が「反帝全学連」結成の際歩調を合わせた解放派との縁で貸した、伊東)の別荘で会議中、水中銃などを手にした革マル派に襲撃され、元九州大学生で革労協福岡県委員会のリーダー、石井真作が殺され狭間嘉明が瀕死の重傷を負う(狭間の口元に手をあててきたので、咄嗟に息を止めたとの事)。報復としてこの後、10月8日に立正大で秋本を、それから三週間後の27日に東大で梅田をそれぞれ殺害。
※この「党派闘争の激化(アジト襲撃と病院送り段階)」の解説は、「社青同解放派」の解説の一部です。
「党派闘争の激化(アジト襲撃と病院送り段階)」を含む「社青同解放派」の記事については、「社青同解放派」の概要を参照ください。
- 党派闘争の激化のページへのリンク