田崎廣助とは? わかりやすく解説

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田崎広助

読み方たざき ひろすけ

洋画家福岡県生。名は広次。坂本繁二郎師事する戦後広稜会を結成、また東郷青児らと日伯現代美術展を開催し、その功績によりブラジル政府よりグラン・クルーズ章、コメンダドール・オフィシアール章を受ける。日本芸術院会員一水会運営委員日展理事日伯美術連盟会長文化勲章受章昭和59年1984)歿、85才。

田崎広助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/01 08:27 UTC 版)

田崎 広助(たさき ひろすけ、1898年〈明治31年〉9月1日 - 1984年〈昭和59年〉1月28日)は、洋画家福岡県八女郡北山村(現・八女市立花町)生まれ。本名・田﨑廣次。

経歴

この節の出典:[1][2]

1917年福岡県師範学校(現福岡教育大学第二部卒業、坂本繁二郎安井曾太郎に師事。関西美術院にも通った。

二科展出品後の1932年渡仏、留学中の1933年サロン・ドートンヌ賞受賞。1935年、帰国。

1939年一水会の創立に参加。

戦後、広稜会を結成、また東郷青児らと日伯現代美術展(伯剌西爾、ブラジルのこと)を開催。

1949年より日展審査員、(以後1958年日展評議員、1967年理事、1978年顧問を勤める。)

1961年日本芸術院賞受賞、1967年日本芸術院会員。

1968年勲三等瑞宝章受章。 1974年ブラジル政府からコメンダドール章、オフィシエ章受章。

1975年文化勲章受章、文化功労者

墓所は寛永寺第二霊園。

田崎没後1986年、(昭和61年)軽井沢田崎美術館[3]が開館。

2017年、(平成28年)故郷八女市に田崎廣助美術館が開館[4]

幼少期

1898年(明治31年)9月1日、父・田﨑作太郎と母・モトの長男として、福岡県八女郡北山村(現・八女市立花町)に生まれる。絵心が芽生えたきっかけは、3歳の頃に母・モトが嫁入りの時に持ってきた高価な銅の桐たんすに、金火箸で模様を刻み込んだのがはじまりだとされている。これは、当時幼かった広助が、母を喜ばせてやりたいという一心の下での行動であったが、作品を見たとたんに凍りついた母の表情に事の重大さに気付き、後の祭りだと悟る。なお、広助はこの時の作品を人生初の「処女作」であり、後に彼自身のライフワークとして、画家の道を歩み始めた衝動の芽生えであったと、自らの伝記「東洋の心」(1979年・西日本新聞社出版)の中で物語っている。また、画の本能は、母・モトから受け継いだものと述懐しており、幼年期は、主に故郷の恵まれた山河等の大自然を駆け巡り、雄大な自然を相手に無心に絵を描いていったという。

雅号・広助の由来

広助という雅号については、本人曰く母方の姓に由来するという。母・モトの実家は立花藩漢学者の家柄で、助広と名乗っていた。その助広をひっくり返して広助にしたのが、雅号の由来とされている。また、中学時代にすでに「田崎草雲」という雅号を名乗り、得意げになっていたが、ほどなくして、父や親族らの話から、すでに幕末から明治初年にかけて南画の達筆な同姓同名の人物(田崎草雲)が存在していたことが判明し、意気消沈したという。しかし反面、草雲が没した年と広助の出生が同じだったことから、親族間では「草雲の生まれ変わりに違いない」などと囁かれたと伝えられている。その後、作家である長男の調査により、草雲と広助は人相や骨柄が酷似していたとされている。

八女中学時代

1905年(明治38年)4月、北山村立北山尋常小学校から福岡県立八女中学校へ進学。自宅から町の中学まで、実に約二里(8キロ)ほどの距離があったため、当初は寄宿舎へ入れられたが、中学3年の時より寄宿舎を出て、自宅から通学しはじめる。特に雨が振り、地がぬかるむ日は、一張羅の長靴をぶら下げ、裸足で急いで学校まで走ったという。そして、後にこの時の経験が、彼の強靭な健脚を鍛え上げ、後年、画家になり、「山岳画家」と呼ばれる礎になったとされている。ゆえに老年、病気にならずに済んだのは、この時の経験の賜物であったと述懐している。また、この時、田崎の絵の才能を見込んだ恩師の強い期待と推薦により、美術学校を志願するが、父・作太郎の反対に遭い、くしくも断念することを余儀なくされたという。

福岡師範時代

1916年(大正5年)、八女中学を卒業後、福岡師範学校第二部へ進学。父・作太郎の長男であるがゆえに強い期待をかけられ、教師の資格を取るべく、嫌々ながらも師範学校に入学する。ここで、恩師・東本貞二(とうもとていじ)と出会い、師範学校を終えた後、1917年(大正6年)20歳の春、福岡県八女郡上妻村の上妻高等小学校に奉職。この時に独学で絵画修業をするようになる。なお、この時に仲間の画学生らが催した洋画展に出品作を出し、田崎の作品だけ売れ、当時の価格にして、十二円(当時の教師の月給が十九円ほど)で絵が売れたという。買い手は、久留米市の大きな呉服屋の旦那で、最初に売れた作品は、「祈祷院の雪景色」という12号ほどの油絵だった。これを契機に名が売れ始め、以後活躍の幅が広くなったとされている。

上京と勘当

1920年(大正9年)の春、県立高等女学校の教師ポストに空き席が入り、恩師・東本貞二の推薦もあり、図画の教諭として採用される予定であった。知らせを知った父・作太郎も喜びに沸く中、反面、田崎自身はこの時、新任地へ向かうべき切符は購入せず、恩師と父への申し訳ない想いを残しつつも、反対に東京行きの切符を購入し、ほどなくこれを知った厳格な父は、彼を勘当したという。なお、田崎はこの時の彼自身の心境を「偶発的ではあったが、久しく鳴動を続けながら耐えた火山が、必然的に一気に噴火した瞬間でもあった」と回顧している。

関東大震災に遭い被災する

1923年(大正12年)9月1日、本郷の駒本小学校にて図画の教鞭をとりつつ、絵の勉強に明け暮れていた中、絵仲間達を連れ立って、上野の森に出かけ、下宿先へ戻って間もなく関東大震災に遭い被災する。駆けつけてきた弟の貞吉とともに、最寄の学校にて救援活動をするが、震災から一か月半ほどした後、東京を去り、京都へ移り住む。

作風

風景画、特に日本の山を多く描き、その中でも阿蘇山を題材にしたものが多い。代表作は「初夏の阿蘇山」。 晩年は「朱富士」を好んで描いた。

作品所蔵先

脚注

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『田崎広助』 - コトバンク
  2. ^ 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『田崎広助』 - コトバンク
  3. ^ 長野県博物館協議会ホームページ 信州ミュージアムガイド参照
  4. ^ 田崎廣助美術館hp参照

参考文献

  • 『東洋の心―絵筆と共に八十年』(1979年西日本新聞社)

関連項目

  • 田崎に師事した画家(一水会)

外部リンク




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