狭山事件
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狭山事件(さやまじけん)は、1963年(昭和38年)5月に埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女を被害者とする強盗強姦殺人事件、およびその裁判で無期懲役刑が確定した元被告人の男性が再審請求を申し立てている事件。
注釈
- ^ 1962年11月19日、I養豚場の雇い主の指図により建築現場から杉柱材16本を盗み出した件。ならびに、1963年1月下旬ごろ、農家から鶏3羽を盗んで食べた件。ならびに、同年3月6日、農家から鶏2羽を盗んで食べた件。ならびに、1963年3月7日、作業衣1着を盗んだ件。
- ^ 1963年1月7日、I養豚場の雇い主らと共謀し、茅120束を盗んだ件。
- ^ 1962年11月23日ごろ、愚連隊仲間と共に17歳の少年に集団暴行を加え、全治5日間の顔面打撲傷を与えた件。
- ^ 1963年1月7日ごろ、愚連隊仲間と共に前出の17歳の少年に集団暴行を加えた件。ならびに、1963年2月19日ごろ、交通トラブルに関連して農協職員の顔面を2回殴打した件。
- ^ 割賦で買ったオートバイの代金の支払いを終えぬまま、1962年6月中旬、これを知人に転売した件。石川は、この種の月賦詐欺を10件以上繰り返し、道端の耕耘機からガソリンを盗んで「こうすればガソリンスタンドへ行かずに済む」と自慢していたこともあるが、それまでは刑事事件にならなかった(『読売新聞』1963年6月30日付、p.11)。
- ^ 中核派は「狭山差別裁判を徹底糾弾し、石川一雄氏の戦いを支援する全国連絡会」(略称、狭支連)と称する団体を組織し、機関紙『狭支連新聞』を刊行していた[9][10]。
- ^ 石川の小学校時代の元同級生たちの家を訪ね歩いた本田豊は、石川以外にも卒業生名簿に名前の載っていない生徒が何人かいたことを指摘し、「1955(昭和30)年前後2年間の『朝日新聞』や『毎日新聞』の埼玉版を見ていると、長欠・不就学児童の記事がよく出てくる。家が貧乏のために昔ながらの『口べらし』に、他家へ前借金で身売りする子供が後を絶たなかった現実が紙面をかざっている」と述べている[14]。
- ^ 立花隆は「革マル派は、狭山闘争にはあまり熱意をもっていなかった。もともとプロレタリアートの階級闘争中心主義である革マル派は、農民運動である三里塚闘争に好意をもっていなかったように、部落解放運動にも好意をもっていなかったのである」と記している[20]。
- ^ 小松川事件が発生した1958年当時、日本にはかつての植民地支配に対する歴史的反省から、いわゆる進歩的知識人を中心に、加害者の在日韓国人少年に同情する論調が多く、東京高裁が加害者少年に「国籍のいかんに拘らず、人間としての重大な責任を問わなければならない」と死刑を宣告したのに対し、「李少年をたすける会」が
との声明を出した他、被害者少女の遺族も私ども日本人としては、過去における日本と朝鮮との不幸な歴史に目をおおうことはできません。李少年の事件は、この不幸な歴史と深いつながりのある問題であります。この事件を通して、私たちは、日本人と朝鮮人とのあいだの傷の深さを知り、日本人としての責任を考えたいと思います。したがって、この事件の審理については、とくに慎重な扱いを望みたいのであります。
と申し出た。これまで、日本人は朝鮮人に大きな罪をおかしてきました。その大きな罪を考えると娘がこうなったからといって、恨む筋あいはありません。もしも珍宇君が減刑になって出所したら、うちの会社にひきとりましょう。[32] - ^ 被害者の家は、家屋5棟、宅地1反3畝、畑2町3反、山林1町3反、土地1万1190坪を所有する地主であった[35]。
- ^ 脅迫状は一度封印してから犯人に開封された跡があり、封筒の宛名書きもまた青色のボールペンで書かれていた[36]。弁護側鑑定では、封筒に「女」「死」「2」などの文字を書いた上で、インク消しを用いて消した跡があるとされた[36]。また、封筒からは滑り止めゴム付き手袋と軍手の2種類の手袋の痕跡も見つかった[36]。複数の指紋も検出されたが、そのうち特定されたのは被害者の長兄のものと警察官のものだけであった[36]。
- ^ この「きなかったら」は狭山の土地言葉の一つ。狭山付近で育った伊吹隼人によると、「狭山から通う農家や職人・労務者の息子などの大半が『こなかったら』を『きなかったら』と言い、作文の際にも『こなかったら』を『きなかったら』『きなかたら』などと書いていた」という[39]。また埼玉県では「来る」「する」が上一段化される傾向が強く、「キナイ」「シナイ」から「キル」「シル」まで聞くことができるという[40]。
- ^ この点について、事件当時の所沢警察署長・細田行義は、脅迫状の発見・届出に先立つ午後6時半過ぎごろに埼玉県警から「女子高生行方不明、誘拐の可能性あり」との連絡を受けたと証言している(細田証言)。ただしこの証言は裁判では採用されていない[41]。
- ^ 養豚場の経営者の末弟は強姦の前科を持っていた上、養豚場の近隣者で、養豚場に出入りしていた男もまた強姦の前科持ちであった。狭山事件二審第16回公判調書によると、石川一雄の兄も「みんなIのところの若い者がね、人を脅迫したり結局は暴力を振ったりするという」ので、一雄に「(I養豚場を)やめるように」言って退職させ、自分のもとで鳶の手伝いをさせた、という。
- ^ 当初、被害者の遺体から検出されたのは「B型あるいはO型」の血液だったと報じられていた(『読売新聞』1963年5月22日付、p.10)。
- ^ このIKは、1963年5月15日、『埼玉新聞』に「きょうにも逮捕か 女高生殺し堀兼の青年A」と報じられたが、事件当日のアリバイがあった上、血液型もBではなかったので女高生殺しでは逮捕されなかった(ただし1963年6月4日に窃盗容疑で後述TAとともに逮捕されている)[56]。なお、(検証・狭山事件, p. 54-55)によるとIKは被害者の顔見知りだったというが、2審第55回公判でIKは被害者の家族とつきあいはなかったし顔も名前もまったく知らなかったと証言している。
- ^ 石川の手記「真実の記録 狭山事件はこうしてつくりあげられた」では港会を「現東声会とか」と記しているが、港会は住吉会の前身である。
- ^ 1962年暮れまで養豚場に勤務しており、石川と仲が良かった[61]。1963年6月4日に養豚場経営者IKとともに窃盗容疑で逮捕された時、女高生殺しは石川一雄とTAと大工TIの3人による犯行ではないかと捜査官から訊かれた[62][63]。1963年6月5日には植木職のOS(1962年3月に石川一雄とTAに所沢の農家の野良仕事を紹介したことがあった[64])により
との証言がなされたが、TAは女高生殺しについてはアリバイがあった[61]。ただしTAは1962年11月上旬ごろ、所沢の駅のホームで出会った男性に因縁をつけ、小学校の校庭に連れ出し、養豚場経営者の弟のIYともども集団で暴行し、このとき脅し取った腕時計を質屋に入れ[59]、傷害罪と窃盗罪で執行猶予つきの有罪判決を受けている。(事件当日、5月1日14時ごろ[64] に通称「山学校」付近で─引用者註)「二人の男が立って、私の方に顔を向けているのを見ました。その途端に(中略)石川一雄とTAであることが判った」 - ^ 女高生殺しについて検察官の河本仁之は、石川一雄の兄、K兄弟のひとりであるKY、K兄弟のもうひとりであるKIの3人による犯行ではないかと疑っていたことがある[62]。
- ^ ある事件のため裁判費用に困っており家計も苦しかったこと、筆跡が脅迫状に酷似していたとされること、アリバイが不確かだったこと、犯人と声が似ていたとされること、犯行現場や佐野屋に地の利を得ていること、土木工事に雇われることが多く地下足袋をよく使っていたことが疑惑の根拠となった[69]。
- ^ 狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』p.73では「昭和29年頃、入曽~入間川間で起った電車転覆未遂事件の容疑者として逮捕されたことがあり、この妨害事件が起った時、父と私は花嫁女学校(通称山学校)で働いてい、雇い主のTさんが証明してくれたから犯人にされずに済んだ」と述べている。
- ^ 正確には
というのが石川の自供であった。ただし冤罪論の立場からは、石川が「3人共犯」の自供を始めたのはカバンが発見された後とされ、「3人共犯」の供述調書の日付が6月20日になっているのは警察のでっちあげである、と主張されていた。「3人共犯」の自供日について、部落解放同盟中央本部『狭山差別裁判 第3版』(部落解放同盟中央出版部、1972年)p.311では6月23日としており、北川鉄夫『狭山事件の真実』p.217では「早くて6月21日」、p.269では「6月23日頃」、p.288では6月23日としている。その根拠は石川一雄自身の手記「真実の記録」(『部落』1971年7月号)であった。これは、カバンの発見(6月21日)が真に石川の供述の結果だったかどうかという論点にかかわる問題であり、冤罪側に立つなら石川の供述は6月22日以後でなければ不都合だが、2013年現在では部落解放同盟中央本部も3人共犯の自供がなされた日を「6月20日」頃としている(狭山事件年表)。俺は関さん、Yちゃんは殺さないんだ。手紙を書いたのは俺で持って行ったのも俺なんだ。シャベルを盗んだのは俺なんだ。おまんこしたのは入間川の友達で、殺したのは入曽の友達なんだ。 - ^ 「6月23日には単独犯行を自白」というのは部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編『無実の獄25年 狭山事件写真集』p.126(解放出版社、1988年)による。しかし、部落解放同盟中央本部『狭山差別裁判 第3版』(部落解放同盟中央出版部、1972年)p.312では、単独犯行の自白は6月26日になされたことになっており、両書の記述には矛盾がある。
- ^ 石川は当初、虚偽のアリバイの拠り所として兄を使っていたにもかかわらず、「兄が犯人ではないかと思った」と述べ、「一家の大黒柱である兄が逮捕されたら大変なことになると思い、自分が罪をかぶることにした」[108][109][110][111] とも供述している(石川はまた、検事から犯人は兄ではないかと言われて怒り、湯呑茶碗を投げつけようとしたことがある、とも言っている)。しかし石川のこの供述には、自ら犯人と疑っている者と一緒にいたと主張してもアリバイにはならない矛盾があり、この点を寺尾判決[要出典]から「極めて不自然」「奇怪な供述」「到底そのまま信用することはできない」と批判された[73]。石川はまた「身代金騒ぎが深夜十二時過ぎとは知らなかった」とされてもいるが[112]、石川が1963年5月23日付で埼玉県警察狭山警察署長に宛てて出した上申書は
との内容であり、身代金の受け渡し指定時刻は、ここに「午後12時」と明記されていた。「いまわたくしにをたずねの五月1日のばんのほりかねのなかだいさくさんのところいてかみを
もでいてをどかしむすめのいのちがほしければ
かねを20まいんお女のひとにもたして五月二日
のごご12時2さのや門のまいまでとどけろといて
きんに10まんいをとりそこねたことわわたくし
のやたことでわありません」 - ^ これについて石川は「私がIさん方に仕事をして居る頃は土、日曜日以外は五時頃上げてきた事は一度もありませんでしたがこの日はこの様な時間に来たので私は今ではヘンに思われて成りません」と荻原佑介あて書簡(1965年11月22日)に記している。狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』p.230による。
- ^ 石川一雄は2013年に「事件が起きた時間帯には両親と妹2人と弟と6人でご飯を食べていた」と主張しているが[115]、確定判決によると被害者の死亡推定時刻は5月1日16時20分ごろであり[48]、この時刻の石川の姿は目撃証言がない。
- ^ 判事として二審を担当した寺尾正二は石川の発言の中に、性交経験について当初童貞と自称していた(二審の第26・66回公判の供述では前言撤回し、事件までに複数の女性と性交していた旨を認めている)、1963年6月20日に裁判官の勾留質問で被害者について「知らないから知りません」と陳述した(しかし同日付で石川は埼玉県警狭山署川越分室の留置場の壁板に被害者への詫び文句を爪書きし、なおかつ「自分を含む3人の犯行だった」と自供している)、「自分を含む3人の犯行だった」と自供したのは6月23日だったと二審で主張した(実際は6月20日のことであったと認められる)、などの虚偽が含まれていることを指摘し、石川を「意識的、無意識的に虚実を取り混ぜて供述する傾向が特に顕著」と評した。これは「石川うそつき論」と呼ばれる。また寺尾は弁護側の主張について「被告人の供述の微細な食い違いや欠落部分を誇張し、それゆえ被告人は無実であると終始主張している。これは全く短絡的な思考であって誤りであると言わざるを得ない」とも批判した。
- ^ 「石川が家へ来てから字を書く所は見ておりませんし,石川の書いたものも見たことはないが,家へ来たとき,青インクの小瓶を箱に入ったまま持っていたし,万年筆も持っていて,1回石川とジョンソン基地へ残飯上げに行ったとき,入門証を書くとき,石川から万年筆を借りて書いたことはあったが,石川がボールペンを持っているかどうかは知りません」(I養豚場経営者の検察供述調書。1963年6月8日)ただし石川一雄がときどきボールペンを使っていたことは、一雄の兄が証言している(『読売新聞』1963年6月27日付)。
- ^ 「石川は、私の家に居るとき、読んでいたものは歌の本とか週刊明星が主でしたが、私が野球が好きで報知新聞をとっていると、この新聞の競輪予想欄を見ては、しるしをつけていたし、私の家でとっている読売新聞も読んでおりました。また、去年の12月ごろ、石川が自動車の免許証を取りたいと言っていたとき、私が免許証をとるとき使った交通法規の本と自動車構造の本を石川に貸してやったら、それを少し読んでいるのは見ました」(I養豚場経営者の検察供述調書。1963年6月8日)
- ^ 当時、被害者宅やその所在地を尋ねたとされる近隣農家には表札はなく、石川自身は2008年5月のインタビューで「脅迫状届けに行くのに、被害者の自転車に乗って近所の家で尋ねること自体が変でしょう。そこがもし、被害者の家だったらどうするんですか? そんなこと、どう考えたってあり得ないでしょう」と反論している[111][128]
- ^ 五十子米穀店の配達区域は狭山市大字入間川菅原4丁目、峯、旭町、加佐志、沢であった[129]。菅原4丁目には石川の自宅があった。
- ^ 配布先は東京都池袋、東京都瑞穂町、埼玉県所沢市、埼玉県川越市、東京都浮間などであった。狭山裁判第2審第48回公判の記録による[130]。
- ^ 「被告人の姉婿ISは五十子米屋から二本配布を受けたのに一本しか貰わないと主張し」というのは 東京高裁判決 に引用された滝沢直人検事の証言であるが、狭山弁護団の松本健男は、上掲ISが五十子米穀店の手ぬぐいを「配布されていないことを当初より強く主張していた」、「配布された事実がまったく存在しない」と記しており[133]、両者の記述には齟齬がある。なお、上掲の松本の記述にもかかわらず、部落解放同盟は2013年に「IS宅には実際には1本しか配付されていない」と喧伝しており[134]、「配布された事実がまったく存在しない」との主張と一貫していない。
- ^ この五十子米穀店の配布メモについて、狭山弁護団の松本健男は「(米穀店の店主が)捜査官に迎合して配布メモに改ざんを加えたものと考えられる」と非難している(部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[解説編]』p.252)。
- ^ この教育振興会会長の長男は被害者の中学校時代の同級生であり、長男が生徒会長、被害者が副会長という間柄であった。被害者は日記の中でこの長男に好意を吐露している。なお、この教育振興会会長の兄(農業。のち狭山市議会議員。1989年8月死去)は「少時」と同じ発音の名前であり、なおかつ当時小さな子供がいたため、脅迫状の「少時様」に擬せられたこともある。『週刊文春』1963年6月10日号「平和な村を襲った殺人犯パズル狂騒曲のあと」、ならびに亀井トム『狭山事件 無罪の新事実』p.160-166による。
- ^ 一審で罪を認めていたにもかかわらず控訴審や上告審で無罪主張に転じた事例としては、光市母子殺害事件(被告人は2012年に死刑が確定した)や、岩手県洋野町母娘強盗殺人事件(被告人は2012年に死刑が確定した)や北九州監禁殺人事件(被告人2名は2011年に死刑と無期懲役刑が確定した)などがある。
- ^ 石川には夢遊病的な前歴があり、18歳の夏には昼寝中に起き上がって全裸で近所をかけずり回ったことがあると狭山裁判第一審第8回公判で自ら証言している。
- ^ 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』p.135-136にはそのように書かれているが、当の橋本紀徳は「弁護人は、石川さんが起訴事実を全て認めているにもかかわらず、公判の最初から、無実を主張し、無罪判決を求めました」[143] と記しており、両者の記述には矛盾がある。
- ^ 関は1916年3月、埼玉県入間郡勝呂村(現・坂戸市)生まれ。事件当時は石川一雄と同じ被差別部落に住んでおり、亀井トムからは「部落出身らしい警察官」と呼ばれている。『狭山事件』(辺境社、1972年)p.43, p.290を参照。
- ^ ただし石川はこの同房者の発言について「そのようなことを言った覚えはないんですけれども、何か聞き間違いじゃないでしょうか」「Yちゃん事件の共犯じゃなく、パイプのこと(ジョンソン基地からパイプを盗み出して売却した件。起訴されていない─引用者註)を話したのをあなたが、そういうふうに受取ったような私は気がする(ママ)んですけれども」「パイプを盗んだ時七人位共犯がいたんです。実際に盗んだのは三人ですが、一応ここでも以前述べましたが、Iさん(I養豚場経営者の兄)という人の名前だけは話すまいと思ったんです」と反論している[151][149]
- ^ この荻原は、被害者やその母について
云々と誹謗中傷した証拠申立書(1964年10月26日)を埼玉県警本部長の上田明に送りつけ、それによって石川の無実を証明しようと図ったのみならず、被害者が男を誘ったのだとして強姦の事実そのものを否定しようとしていた。亀井トム『狭山事件権力犯罪の構造』(三一書房、1975年)による。「男好きの淫奔な女性で死亡まで肉体関係をしていたという色男が十人位いた」「被害者●●●●は(中略)体格は一人前の女に成長し、性格は死ぬまで○○○○をしていた○○が十人もいたという多情多感、○○な母に似て中学一年生位の時から既に男性に積極的で」 - ^ IKは石川に事件当日のアリバイや血液型を尋ねたのを5月19日と証言している[57]。
- ^ IKとTAが逮捕された日付を『狭山差別裁判 第3版』p.310は6月3日としているが、『狭山差別裁判 第3版』p.79ならびに『毎日新聞』1963年6月5日付第13版は6月4日としている。
- ^ 正確には、石川は6月18日付で「私は御調べの事件は私と入間川の男と堀兼の男と3人でやった」と供述している[182]。
- ^ 事件当時に浦和地検次席検事だった鈴木寿一は以下のように発言している。
また、石川の取り調べにあたった警視の長谷部梅吉は「別にどうということもなく、当然だ。(略)捜査上のミスはミスとしてすべて認める。だが、自供は真実だ」、「一審直前に被告(ママ)が浦和刑務所(ママ)からわたしによこした礼状も保管している」と述べた[189]捜査に直接タッチしたものとして、事実関係については絶対の自信を持っていた。上告棄却は当然の結果だと思う。むしろ、死刑だった一審判決が二審で無期懲役にされたのが意外だった。この事件は、はじめ警察の失態が続き、地検としてよほどの確信がなければ、事件を引き受けないつもりだった。警察の失態をこちらがかぶることはないですからね。それがある段階から「間違いない」という心証を得たわけです。差別問題と関係ないことは記録を見てもらえればわかります。いろいろいっているのは事件を知らない人たちですよ。[189] - ^ 公明党衆院議員の沖本泰幸が 1972年5月10日の衆院法務委員会 で
と発言し、警察庁刑事局長の高松敬治から「現場近くに住む犯人らしい男が自殺したというような情報に対して、篠田国家公安委員長は、こんな悪質な犯人は何としても生きたままふんづかまえてやらなければと歯ぎしりをしたと、これは埼玉新聞の五月七日の記事でありますけれども、こういうふうに言っている事実があります。こういうことで、結局、****(被害者宅の元使用人)の自殺の背景や要因を十二分に捜査せずに、生きたまま逮捕するというところに全力を尽くしたという辺に問題があるのじゃないかというような点が一点あるわけです」
と反論を受けたことがある。この元使用人の血液型もB型であり、筆跡についても 1963年5月7日付『東京タイムズ』 に「似ている点がかなり認められる」と報じられたが、自殺の翌日、1963年5月7日の産経新聞夕刊 に複数の近隣者の証言として「一日は午前中から親類、知人がなん人かお祝い品をもってきていた。午後四時ごろから、親類のひと二人をまじえてGさんは酒をのんでいた。しかしGさんは酒があまり強くないので、七時ごろはひとりで寝てしまった」とのアリバイが報じられており、捜査本部からはシロと断定された。元埼玉県警刑事部長の中勲の証言によると、この元使用人は性的不能に悩んで医師に相談していたことからも犯人の適格性を欠くと判断されたという(狭山裁判第二審第39回公判における証言)。「**という人が自殺をした。これについて何も調べないでやったというふうなお話でございますけれども、これにつきましては、当時の記録を見てみますとかなり調べております。それでこの事件に**は関係がないということの結論を出しているわけでございます。これは全然ほったらかして、単なる見込み捜査で石川に行ったということでは絶対にございません」 - ^ 彼女は日記を書き残していたが、その内容は、彼女の長兄によると「常識では考えられないことが書いてあった」という。ただし具体的な内容は公表されていない。『週刊朝日』1970年12月18日号「狭山事件の黒いナゾ」、伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.132を参照。
- ^ この人物は石川家の隣に住み、事件がまだ捜査段階でI養豚場関係者への取り調べが続いていた頃、2度にわたり石川家に乱入し「おらのことを喋ったろう」と言って戸を蹴り倒したことがある。またこの人物は、狭山事件の前に石川一雄の兄から犯人と同じ9文7分の地下足袋を借りていること、佐野屋の前から逃走した犯人と同じように足が速いこと、佐野屋に現れた犯人の発言「おらぁ、帰るぞ」と符合するかのように「おら」という口癖があったこと、被害者の遺体を縛るのに使われていた「すごき結び」という縛り方に慣れていたこと、事件後にアルコール中毒で精神不安定となり、2度にわたり精神科に入院していたことなどから、亀井トムにより真犯人に擬せられたことがある。事実、事件当時の1963年5月15日には兄弟と共に「近日逮捕」と報じられたこともあるが、同5月19日にはアリバイありと発表され、逮捕を免れている。伊吹隼人『狭山事件―46年目の現場と証言』p.71-72を参照。
- ^ 狭山市大字北入曽字堀難井(ほりがたい、ほりかねのい)の「北上」(北上は自治会名。「北入曽上組」の略称。大字北入曽地内で不老川の上流方に当たることから)に所在した踏切。当該人物の自殺後、脱輪した乗用車と電車の衝突事故が起きたため閉鎖され(伊吹隼人「狭山事件現地インタビュー集 Vol.1」p.103参照)、そのまま再開されることなく廃止されている。入曽駅~入間川駅間において廃止された踏切はこの一ヶ所のみである(駅構内踏切を除く)。
- ^ 被害者の実家のこと。原文では実名。
- ^ 被害者のこと。原文では実名。
- ^ 事件当日に被害者を目撃した旨の証言をしている被害者の堀兼中学校三年生の時の担任教諭が事件に関与していると推測する説が幾つかあり、その中で同教諭の担当教科を「体育」と紹介しているものが見られるが、同教諭の担当教科は英語である。
出典
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狭山事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:57 UTC 版)
狭山事件については、控訴審が始まった翌年の1965年5月29日、東京高裁第2回現場検証に埼玉や東京の部落解放同盟代表が参加。同年10月5日、第20回全国大会で、狭山事件の公正裁判要求の決議が採択される。1968年10月6日に「狭山事件第1回現地調査」を行なう。1969年3月3日と3月4日、第24回全国大会で狭山事件支援の特別決議を採択。同年7月10日、中央本部に石川青年救援対策本部を設置し、パンフレット「狭山事件の真相」を発行。1970年3月13日、第25回全国大会で「狭山差別裁判糾弾」の方針を決定。同年5月18日、部落解放国民大行動に取り組み、狭山差別裁判反対を訴えて、6月17日まで日本全国を行進した。しかし、1974年10月31日東京高等裁判所は、弁護団の無罪主張を斥け原判決を破棄して「無期懲役」の判決を下した。1977年には最高裁で無期懲役刑が確定した。現在、第3次再審請求が審理されていて、部落解放同盟は支援を続けている。
※この「狭山事件」の解説は、「部落解放同盟」の解説の一部です。
「狭山事件」を含む「部落解放同盟」の記事については、「部落解放同盟」の概要を参照ください。
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